第36話 量子テレポーテーション

文字数 2,171文字



「よし! これで(さとる)をベルリンへ帰せるぞ」
マーカス・アドラーは、アラン記念研究所の廊下の片隅で携帯電話のメッセージを受信して叫んだ。
「なに!? どういうこと? 分かるように話してくれないか?」
潮見は面食らってアドラーに尋ねた。
「コトが量子論に関するから、俺も筋道立てて君に説明できない…が、聡はサイキック・ドライビング中に当のMKウルトラ計画の張本人のユーイン・キャメロンに噛みついた」
「噛みついて、それは実体がない世界だが、この現実世界を揺り動かした」
とマーカス・アドラーは言ったが、潮見は1パーセントも分からない。

アラン記念研究所のMKウルトラの亡霊研究員たちは、聡をサイキック・ドライビング用のベッドに残したまま、過去の世界へと消失した。彼らの信奉する(あるじ)のユーイン・キャメロンをめちゃくちゃにけなし、おとしめ、辱めたからだ。聡はうなされながらも、キャメロンをディスるのを止めなかった。次第に、聡をサイキック・ドライビングにかけていた連中は自信がなくなり、ぶれて、その姿かたちが歪み、最後には消えてなくなった。

「さて、ここからが難しい」

マーカス・アドラーは潮見と一緒にアラン記念研究所内を駆け回って、(さとる)が固定されているベッドを見つけた。潮見は驚喜して聡に駆け寄ろうとしたが、アドラーは彼を強く引き止めた。

『科学の力』は俺にメッセージを送ってきた。

「聡を使ってわれわれは十分実験をし、聡はユーイン・キャメロンの呪縛を打ち破った。その勇気と功績を称えて、聡に量子テレポーテーションによる帰還を準備しようと思う」

それからメッセージは、アラン記念研究所内のコンピュータを使って、転送元のモントリオール側で量子もつれを起こし、転送先のベルリン、クレセント製薬ドイツ本社研究所でも、量子もつれを起こして、それぞれの転送装置を量子もつれでつなげておく指示をしていた。

カナダ・モントリオールより6時間進んでいるベルリンは、終業時刻が近かったが、まだ仕事をしていて、量子もつれの受信側を、聡の研究パートナーのクリスチアンがぜひ僕がと引き受けた。クリスチアンの左目の眼帯は外れ、少し打ち身が残っているだけだった。そして新型のベルリンブランドのおしゃれなフレームを掛けている。連絡はホーフマイヤーCEOにも、日本の京都にいる藤沢氏にもすぐに届けられ、日本はちょうど翌日の夜中だったが、ただちにスカイプでベルリンとつながった。

マーカス・アドラーはジャケットからメガネを取り出して掛け、聡のベッドの近くにあったコンピュータの前に座って、まるで若い准教授みたいにメッセージの指示に従い、ベルリンのクリスチアンとやり取りしながら転送環境を整え始めた。モントリオール側のコンピュータには高性能マイクも備わっている。

「潮見さん、オデッセウスみたいにヘマをしないでくれよ。聡がもう一度冥界に落ちたら、俺はもうどうしようもないからな」

そこで潮見はぐっと自制して、マーカス・アドラーの後ろに立ち部屋の奥に眠って横たわる聡を観察した。

「うん…ここはオイラーの定理を使えば簡単に解けるな」
マーカス・アドラーの声に、ベルリンの水道塔の中でクリスチアンがただちに同意を示す。アンネリーゼとハンネローレの上司以下、研究所の全員がクリスチアンのコンピュータを固唾を飲んで見守っていた。CEOはヴァンゼーの自宅で、藤沢氏はパジャマにカーディガンを羽織ってコンピュータを見つめていた。

マーカス・アドラーは聡の状態を測定し、測定結果を電波で送信した。そのときホーフマイヤーCEOの友人の中国のワンさんが(無論只の人ではなく博士である)快く量子もつれの状態を人工衛星で宇宙からベルリンに転送してくれた。

量子論はミクロの世界のシステムである。量子通信で使われる光子などの量子ならともかく、聡の身体のようなマクロの世界では機能しない。しかし『科学の力』は心配するな、特別にミクロの量子もつれをマクロの世界に適用すると請け合った。

信じるしかない、とマーカス・アドラーは思った。たとえここで聡を担いで持って行こうとしても、上手くいかない気がしていた。しかし、量子もつれのオペレーションをする仕事は、彼も初めてだった。イタリアやスイスの大学で聴講した物理や数学の知識を総動員して、アドラーはこの操作に当たった。

クリスチアンが、モントリオールから届いた測定結果を使って、量子受信の状態を補正すると、モントリオールのアラン記念研究所で横たわっていた(さとる)の身体は消え、クリスチアンのコンピュータシステム上に、聡の姿が現れた。

「おかえり」
クリスチアンが言うと、聡は少し口角を上げて微笑み、白衣の研究パートナーが広げた腕に意識を失って倒れ込んだ。

そこで夜中の日本の藤沢氏から拍手と「信じられない!!」という声がベルリンに響き渡り、水道塔研究員たちはクリスチアンに嵐のような拍手を送った。モントリオールでもマーカス・アドラーがやれやれとため息をつき、メガネをジャケットのポケットに仕舞った。
潮見の携帯電話には、クリスチアンからベルリンに到着した聡の姿がすぐに送られてきた。

「さあ、俺たちはゆっくりベルリンに帰ろうな」
とマーカス・アドラーがコンピュータの前から立ち上がると、コンピュータは幾億の細かい光子に分解して消えうせた。

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