第1話 西新宿、朝七時
文字数 1,058文字
生成AIアプリで英語のテキストを入力して生成しました。以下、挿絵画像はおおむねそのようにして作成しました。
聡は自分の背より40センチほど低い青いポリカーボネートのスーツケースにノートパソコンと着替えを詰め込んで、これから面接のある日本橋の製薬会社本社の最寄り駅の大型コインロッカーにこの手荷物を預ける手はずにしていた。
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「君をいち早く一人前にしなければ」
藤沢さんは、一階の布団に寝ている僕を見て言った。僕は眠っていなかった。
科学者の両親が実験中の不幸な事故で亡くなった後、藤沢良さんは企業で事務用家具の設計を行いながら、幼い僕を育ててくれた。
僕が中学校から帰って来て二度と行きたくないと宣言した後、米国カリフォルニア州の大学でコンピュータサイエンスの博士号と、同じく米国コロラド州の大学でバイオテクノロジーの博士号を取らせた。
僕がダブル博士号を取ったことを藤沢氏に報告すると、いくつかの企業に履歴書を送って、その中で一番反応が良かったのがクレセント製薬という、ドイツに本社がある大製薬会社だった。
勤務予定地は萌原市という新しくできた路線で東京から一時間ほどの研究学園都市の研究所だったが、面接は日本本社のある東京の日本橋で行われた。
藤沢さんから教えられて、システムインテグレーションの現場に一緒に行ったのも、汚染を出した研究室に極秘で赴きその始末をしたのもここからだった。藤沢さんは現場だけではなく、学会のカンファレンスにも何度か僕を連れて行き、短い発表をさせた。その準備もこの民家で行った。藤沢さんは待望の京都の大学の研究室に何度も招聘されていた。数年間断り続けていたのは、僕の教育のためだ。彼は一言もそんな風には言わなかったが、僕に聞こえないよう小声で何度も携帯電話に出てオファーを断っていた。
「困ったことがあったらいつでも連絡して」
と藤沢さんは言ってくれたが、僕はなんとかして良い感触のあった企業の研究員の座を勝ち取るつもりだった。だめだったら、どこかのウィークリーマンションに何か月か泊まるくらいのお金は持っていた。
懐かしい思い出がたくさん詰まった西新宿の民家の前で、僕は朝、藤沢さんと握手して別れた。