第21話 人種差別

文字数 3,970文字



クレセント製薬CEOギュンター・ホーフマイヤーが潮見に命じたのは、自分のスケジュール管理だった。以前は自分でアプリでちょいちょいと管理できるくらい単純だったが、クレセント製薬CEOと役員たちが国家や大病院を相手に本格的にトップセールスを始めてから、収拾がつかなくなった。それで、ホーフマイヤーCEOは、このアジアから来たまだ30を少し越えたばかりの若い男性を自分の秘書にした。それは、潮見に自分の仕事を見せるためでもあった。

なぜ極東の小さな島国日本の人間をわざわざヨーロッパに連れてきたのか? 彼は日本で一番有名な東京大学の出身ですらなく、〇教大学経済学部という、秋葉原の次にアニメなどのサブカルチャーな店も多くある池袋の大学出身だった。医薬の専門教育を受けたわけでもない。見た目もアジア人の成人男性の平均的な中肉中背で、特に醜くも美しくもなかった。

だが、日本の独立採算制ベンチャーに残した5人の研究員にインタビューすると、平凡そうなこの潮見達郎という男は、周りから優秀な人材を集めたり、採用した人材に適切なサポートを与えて、とことん生かすのが得意だと判明した。
日本の関係者は英語でホーフマイヤーCEOに語った。

「私はチームプレイが苦手で、潮見氏はそれをすぐ見抜きました」
と5人の研究員の中で稼ぎ頭の男性研究員が言った。
「ほかの会社だったら、ややこしい人間関係に投げ込まれてトラブルを起こし、最悪解雇されていたかもしれません」
この男は第一部のエピソード『ウィンブルドン』で、長尾聡(ながおさとる)にパワフルなビッグサーブを投げつけた研究者である。
「でも潮見氏は私の性格を知ったうえで、研究者としての能力も正確に把握して仕事をさせたのです。彼は自身は目立たない人間かも知れませんが、人を見る能力に長けています」

また、潮見に後からMSL(メディカルサイエンスリエゾン)として採用された女性医師は、彼についてこう語った。

「クレセント製薬に参加した動機は、子育てがしやすかったことです。日本研究所が閉鎖になる前に、彼はCEO、つまりホーフマイヤーさん、あなたに私の仕事の重要性を力説しました。研究者だけでは、潮見氏が築いた医師との関係は絶たれてしまう。医師のニーズを把握して、確実にクレセント製薬の製品を選定してもらうには、MSLが必要だということを、3年間の数字であなたに示しました。潮見さんなき後、顧問としてフレキシブルに、クレセント製薬の売上を支えていくこの仕事は、自分のクリニックを開設するよりエキサイティングだと感じています」

そのうえ潮見達郎は、研究室室長、採用担当、営業とボーダーレスな仕事をしたため、そのそれぞれの仕事で日本支社との太いパイプを築いた。小さな島国であるが人口が多く(首都東京都の人口は令和5年・西暦2023年6月1日現在の推計1409万347人、2023年の日本の人口は1億2330万人で世界第12位)、有望なターゲットである日本のことを知りたければ、この男に聞けば、すぐさま日本支社の人間に連絡して最新の事情を説明する。

ホーフマイヤーが潮見を気に入った理由は、もう一つ、欧米人にはない日本人の謙虚さだった。まず、この男は必要がなければ誰かと競争して勝つということに興味がなく、CEOの秘書になって何か特権を探すでもなく、とにかく誠実に正直にホーフマイヤーの仕事をサポートし、決してでしゃばらないが、必要に応じて意見を述べ、有益な提案をした。それはクレセント製薬の評判が世界で高いままになり、倫理的にも収益性でも完璧な会社でいることを支援した。何か悪いことをしたり、ズルをしたりすれば、いつかは白日の下にさらされるとホーフマイヤーは知っていたし、きれいごとだけではない製薬業界で、できればなるべく良い人間でありたいと思った。その気持ちが潮見という平凡だが正直な人間とぴったり適合したのである。

あるヨーロッパの貴族が君主の国にトップセールスをして、その後、その貴族の血をひく担当者を、ホーフマイヤーCEOと潮見で昼食の接待をしたときだった。こちらは二人なので、お知り合いを一人お連れくださいと潮見が申し出ると、いまはないヨーロッパの国の王族というプリンスを連れてきた。お友だちだそうだ。

そのプリンスというのが、フリーランスのパイロットで、ドイツ語圏の白人だがいつも世界中の人助けに戦闘機で飛び回っているので顔も手足も肌が浅黒く、背も高くたくましくて美しく、真夜中のような黒髪と黒い瞳で、彼を見るすべての人の目を引いた。

四人はスイスで、シャレー(山小屋)風レストランの四面のテニスコートを見下ろすテラス席にかけ、ポークソテーのランチを赤ワインとともに楽しんでいた。潮見も役得だから楽しもうと味わっていた。店も自分でネットで調べて、ここは良さそうだと思って決めた。それが当たって嬉しかった。

CEOが手洗いに立ったとき(当たり前だがCEOだってトイレに行くのであるw)、向こう側二人と潮見一人になったときも、潮見は完璧なドイツ語というわけにはいかないが、そつなく問題のないテーマで会話を交わしていた。すると、接待先の美しい背広を着こなした上品な貴族の担当者が言った。

「ホーフマイヤーはなんだってわざわざ遠いアジアの国から、秘書を雇ったんだろうな、秘書ならヨーロッパ人でもいくらでもいるのに」

ポークソテーを食べていた潮見は一瞬手が止まったが、何も聞かなかったふりをした。潮見の正面に座っていたプリンスは、男らしい黒くて太い柳眉を逆立てた。

ほどなくしてCEOがテーブルに戻り、会話は穏やかに続けられた。皆が料理を食べ終わり、ワインとチーズを肴に会話が続いていたので、潮見は失礼しますと手洗いに立った。

その後すぐ、プリンスも失礼と席を立った。

作者は女だから一度も入ったことがないが(ドラマや漫画で見ただけである)、男子トイレの小便器での会話ってどんなものだろうか。

若くても年を取っていても、貴族でも平民でも、社会の窓を開けて、自分の身体の一部をそこに向けながら、もしかして隣を覗いたら、自分のものが他人のものと比べてどんだけ立派または貧相かを見ることができちゃうかも知れない。座って用を足す女には想像できない、男性だけの特別な空間である。

で、潮見がそのルーチンを正に行っているとき、プリンスが隣に来て自分のルーチンを行った。

「なんて失礼な奴なんだ!」
とプリンスは言いながらルーチンを終え、大事なものを仕舞い、水を流した。
「ドイツ本社に来るくらいなら、ヨーロッパ人にない良さがあるに決まってるのに!!」
潮見もルーチンを終わって大事なものを仕舞い、水を流して、この高貴なプリンスの義憤に驚いた。
「どうもお気遣い痛み入ります」
潮見は小便器の前で言った。
「私は留学とかの経験がなく、海外で働くのも初めてですので、まあ少し驚きましたが、相手は歴史のある家柄の方ですし」
「それでもこの21世紀に失礼極まりない。ヨーロッパが何ほどのものでしょうか? 人類はアフリカから生まれたのですよ、一番敬意を払うべきはアフリカ人でしょう」
とプリンスは言った。この人はよくアフリカの紛争解決や、食糧輸送の仕事を自分の航空機でしているらしい。潮見はうなずいて同意を示した。


そこへ、尿意を催した貴族の担当者が入って来たので二人はテーブルに戻った。

夜、二人ともそれほど残業はなかったので、(さとる)と潮見は、レンタルのアンティークぽい大きなダブルベッドのヘッドボードにパジャマ姿の身体を預けて昼間の仕事について語り合った。
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「人種差別ですか?」
と聡は尋ねた。
「うーん、2年間留学していたとき、もしやあれがそうだったのかな? というのはありました。昔はもっと酷かったそうですが」

聡が話したのは、家具なしのアパートでベッドを買いに行ったとき、単に混んでたのかも知れませんが、お店の人に言っておいたのに、長いこと待っても呼ばれなかったことですかね。まあ、最後には呼んでくれ、普通にベッド選びを助けてくれましたが。ちなみに長く待ってた人の中に確かにアフリカ系の人がいましたね。

それからレストランでは、なんだか端の方に案内されるとか。隅っこは落ち着くので好きだから、別に席を変えてくれとお願いはしませんでしたね。

また、日本人だって、ヨーロッパ人のどの人がどこの国の人だって分からないのといっしょで、よく台湾人や韓国人に間違えられました。これは差別というより、仕方ないことでしょうね。
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「聡、君のほうの調子はどうなの?」
潮見は尋ねた。
「アンネリーゼさんとハンネローレさんというふくよかな女性二人のダブルリーダーの元、とても穏やかで働きやすいですよ。ドラッグ・リポジショニングの技術移転は1日目で半日で終わったし、その後は、別の研究員の方と共同で仕事をしています。その方もとても優秀で穏やかな方で働きやすいです」
と報告した。

「潮見さん、そのトイレで義憤をぶちまけてくれたプリンスはいい人なんでしょうね。お高くとまったお貴族様のことは忘れてください。僕は潮見さんが大好きで、とってもとっても尊敬していますから」
と潮見の目を見つめて言った。

「ありがとう、まあ所変わればいろんなことがあるよね、気にせず明日も頑張るよ」

長尾聡(ながおさとる)は潮見さんの頬にチュッと欧米式の音を立てるキスをした。これはこっちに来て、テレビドラマを見て覚えたw。

潮見は聡を抱きしめて、
「いろいろしたいことがあるが、明日も早いから、週末まで我慢しよう」
と言って二人とも昼間の疲れからすぐ眠りに落ちた。

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