第27話 水道塔からの誘拐

文字数 4,317文字



なつかしいおもかげ
(または心地よい幻想)

あれは眠っているときの夢ではない

昼ひなかに この目で確かに見たのだ

草地いっぱいに咲くヒナギクの花

緑の茂みにおおわれた白い家

木の葉の間に 神々の像が輝く

そして私は 私を愛してくれる人と共に

心おだやかに歩いている

その美しい白い家へ

私たち二人を待つ

美にあふれた安らかな世界へと

私は愛する人と共に向かう

美にあふれた安らかな世界へと

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潮見はジュネーブ空港で、クレセントCEOのギュンター・ホーフマイヤーが免税店で奥さんに土産のスイスチョコレートを買って来るのをエグゼクティブラウンジで待っていた。

CEOを待ちながら、スマートフォンのイヤホンで、(さとる)と訪れた、ベルリン・ワルトビューネの夏のコンサートで、ワーグナー歌手のフォークトが、まるでフィッシャー=ディースカウみたいに静かに、2万超の聴衆が入る「森の舞台」で歌った、リヒャルト・シュトラウスの歌曲を聞いていた。

詩はオットー・ユリウス・ビアバウムというドイツの作家の手になるものだ。ビアバウムはシュレジエン(シレジア)のグリュンベルクで生まれ、ジャーナリスト兼編集者として雑誌の編集に携わり、またさまざまな文学作品を書いた。

昼ひなかに潮見は、白い服を着た聡と、ヒナギクの花が咲き乱れる草原をサンダルで歩いて、緑の茂みにおおわれた白い家を目指す、ここちよい幻想に浸っていた。

自分も白い服を着て、聡と手をつなぎ、木の葉からはキラキラと光が漏れていた。緑に包まれた白い家は、涼しくて、きれいで、安らぎがあった…。

「お待たせ」
CEOがリンツの大袋にギッシリチョコレートを詰めて現れた。確かにリンツのチョコレートは美味いが、スイスのチョコレートならドイツでも簡単に買えると思うのに、奥さんはスイス独自の少数のフレーバーや、果てはスイスの土産袋の雰囲気が好きなんだと言う。

「いい商品は見つかりましたか?」
潮見は微笑みを浮かべて尋ねた。考えてみれば、ホーフマイヤーCEOは国家や大病院を相手にトップセールスをして、国家予算の何割もの取引をまとめているのに、その配偶者はダイヤモンドなどの宝石ではなく、一枚二枚なら子どもでも買えるチョコレートをねだるだけなのだから、安上がりなことだ。

ホーフマイヤーが機嫌よくうなずいたとき、潮見の携帯電話が鳴った。潮見はホーフマイヤーとファーストクラスへの道を歩きながら、その電話に出た。

「こんにちは、潮見さん? 私は(さとる)の研究所の上司の一人、アンネリーゼです」

落ち着いてよく聞いてください。あなたと一緒に日本から来た聡が昨夜から行方不明になりました…。

潮見はその知らせに固まったが、これからCEOと飛行機に乗るところだと伝えたら、メールを送りますから、機内モードで読んでくださいとのことだった。

それは潮見を愕然とさせるのに十分な知らせだった。ホーフマイヤーが心配そうに潮見の顔を覗き込む。
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昨夜、研究パートナーのクリスチアンと聡は、水道塔の研究所で、抗ウィルス薬の開発中物質の詰めに入っていた。二人ともこれは時間がかかりそうだと踏んで、うち揃ってパンや飲み物などの食料を昼間にがっつり買い出しに行った。

夜中の12時を少し回った頃だった。二人は動物実験で開発中の薬品の十分な効果を検証し、聡がPCの前に座って、そのレポートを後ろに立っているクリスチアンと共に書いていた。グラフやデータも入れた。それを書き終わると、まずはアンネリーゼとハンネローレのメールアドレスに二人の名前で送り、実験室を片付けてから、二人はクリスチアンが冷蔵庫に保存していた缶ビールで乾杯した。

二人は早く帰れはいいものを、ほろ酔いの状態で、近くの窓のガラスが割れる音を聞いた。そして、鳴るはずのアラームはまったく鳴らなかった。

クリスチアンがやや軽率にその窓に近寄ると、鈍器で殴る音がして、顔から血を流した同僚が聡のそばにやって来た。

クリスチアンのおしゃれなベルリンブランドのメガネは左側のレンズが割れ、右側一本のツルだけで辛うじて顔に引っかかっていた。

聡は驚いてクリスチアンを支え、同時に窓からの侵入者は二人で、大きな暗い色の袋を一つずつ抱えているのを捉えた。

研究室内は二人がいるところ以外は暗く、外から誰かが気づきそうにもなかった。

「逃げろ!」
聡は叫んでクリスチアンを引っ張った。
三十六計逃げるにしかず、だ。
クリスチアンはメガネを落とさないよう手を当てながら、二人は出口に走った。

しかし、侵入者の一人が大きな黒い袋の口を開けて入り口に立っていた。

聡は反射的に、クリスチアンをその賊の横にあったスペースから、外側にぶん投げた。これは聡がなでしこジャパンの試合で見た、ゴールキーパーを避けて右側にキックを打ち込んだプレーにインスパイアされたものだ。

クリスチアンは夢中で外へ逃げ、その間に聡は、前門の虎、後門の狼状態になった。

「さあ、ウサギちゃんおいで!」
侵入者は聡に叫んだ。

クリスチアンはその後、水道塔の植え込みの陰で、(さとる)が二人の男に挟まれて黒い車に引っ張って行かれるのを見なければならなかった。

CEOと分かれて水道塔の研究所に来た潮見は、クリスチアンに会った。聡の研究パートナーは左目を眼帯で覆い、両腕に包帯をしていた。クリスチアンは涙ぐみながら、潮見に伝えた。

「聡は僕を助けて、その侵入者たちに連れて行かれたんです。僕は片目を殴られて、侵入者の車のナンバーすら見ることができなかった」

潮見はクリスチアンに君が無事で良かった。私はなんとしても聡を見つけるから、身体をいたわってくださいと声をかけた。

クリスチアンの報告を聞いた後、潮見はすぐ、今はベルリン・ヴァンゼーの自宅で奥さんとコーヒーを飲みながらチョコレートをつまんでいるホーフマイヤーの携帯電話に連絡を入れた。

「私と共に日本から来たクレセント製薬研究員の長尾聡(ながおさとる)が行方不明になりました。ついては、ホーフマイヤーさんの仕事が一段落したこともあり、私の夏季休暇がまだ若干残っていますので、聡の探索をしたいと思います」

ホーフマイヤーはすぐそれに許可を与え、プリンスを頼るよう助言した。
「プリンス?」

「ほら君がお膳立てしてくれたスイスでのランチに来た男さ。黒髪で黒い目、浅黒い肌の」
「ああ」
と潮見はすぐ思い出した。
男子トイレで差別発言に義憤をぶちまけてくれた男だ。

「聡のパートナーの研究員が負傷したことから、相手は乱暴な連中だ。そういう手合いに警察はしばしば役に立たない。プリンス・マーカス・アドラーの出番だ」
とすぐ電話番号とメールアドレスを潮見に教えた。

「無茶するんじゃないぞ、時間はある。聡を連れて無事に帰って来てくれ。
それと、研究室の無効にされたアラームは強化するようセキュリティ会社に手配した」
とホーフマイヤーCEOは励ました。

エウリディーチェなしに、どうしたらよいのだ!
愛しいおまえなしで、どこへ行けばいいのか?

エウリディーチェ、エウリディーチェ!
ああ、答えておくれ!
私はただおまえだけに忠実だったのに。

ああ、もはや私には残されていない、
救いも、希望も…
地上にも天にもありはしない!

エウリディーチェなしに、どうしたらよいのだ!
愛しいおまえなしで、どこへ行けばいいのか?
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潮見の脳内では、冥界に妻を取られた竪琴ひきのオルフェオの歌が止むことなく何度も何度も繰り返されていた。

プリンス・マーカス・アドラーは、南ドイツ居城のリリエンタール(ユリの谷)で、彼のステルス戦闘機の塗装を行って、明日は日本へ帰る予定の藤沢さんと一緒にいた。潮見が、藤沢氏に直接報告することができたのは不幸中の幸いだった。藤沢氏はもちろん少なからず動揺したが、心を鎮めて言った。

「潮見さん、マーカス・アドラーはこんなとき最も頼りになる男だ。相手が得体の知れない場合、彼は居城のリリエンタールで迅速に調査のうえ、行動する」

「潮見さん、あなたとスイスのレストランで会えて良かった。私は気にくわない人間のために仕事をしない。ひと目で私はあなたという人間が好きになりました」
とプリンス・マーカス・アドラーは言った。
彼は可及的速やかに調査して、すぐあなたに連絡すると請け合った。

プリンス・マーカス・アドラーは、なんとむかし藤沢氏が特許を売却して、(さとる)が破壊した学校の特別教室の建物を再建した、その特許の売却先だった。

藤沢氏の専門は、材料科学で、その範囲は軍事を含め、さまざまな産業分野にわたっていた。

まだ二日しか立っていなかったが、潮見の心は毎秒、毎分、毎時間さいなまれていた。まず、聡がどこへ連れ去られたのかまったく見当がつかない。ドイツ国内なのか、ヨーロッパなのか、果てはユーラシアやアフリカなのか。そのどこでもプリンスは対応可能と言ってくれた。実際に、世界中を飛び回って人助けや紛争処理を仕事にしていることが、ちょっとネットを検索しただけで分かった。
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野蛮なアラビアを過ぎ
アルメニアからペルシャを通り
タタールからシリアへ
ビザンチウム(現イスタンブール)からトルコとジョージアへ
どうやって転々と回ったか覚えてない

ロシア、プロイセンとエストニアを通り
リトアニアとリボニア、海を越えて
デンマークとスウェーデン、ブラバントへ

フランドル、フランス、イングランドとスコットランドを通り
何マイルもずっと旅してきた

アラゴン、カスティリャ、グラナダ、ナバラを通り
ポルトガルとスペインから
はるかフィニステレ岬まで、
プロバンスからマルセイユへ…

国の名前は中世で今とは違うが、この詩を書いたのはオスヴァルト・フォン・ヴォルケンシュタイン(Oswald von Wolkenstein、1377年頃 ~1445年)、騎士で詩人。今のスイスに生まれ、子どものときクロスボウの事故で右目を失明し、カントン同士の熾烈な争いに巻き込まれ、女にだまされ、この歌のように世界を旅してきた。私が初めて読んだドイツ語の伝記本は、オスヴァルト・フォン・ヴォルケンシュタインと、吟遊詩人のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデだった。確かウィーンの百貨店の書店で購入した。

とにかく、潮見はこんな歌を聞きながら、聡のいなくなったミッテ区の住居でプリンス・マーカス・アドラーの連絡を今か今かと待っていた。

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