第7話

文字数 1,001文字

 小川哲さんが山本周五郎賞を受賞した際に、選考委員である石田衣良さんが「新人はいま、ほんとうにたいへんなんで、応援してあげてください。新人はほんとうに苦しんでます」と、講評会見で記者に語るところがYouTubeで見られるが、いうまでもなく、それは本が売れなくなったという、いまの時代のことをいっている。

 純文学の場合でいうと、芥川賞は小説家としては生命線だろう。初版3000部から4000部という純文学単行本は、それだって売り切れるということは稀で、書店から返品され裁断されるのが運命である。増刷など夢にもみられぬ。それを芥川賞は優に10倍以上(ときには100倍以上)売ってみせる。
 その意味で文春は仕掛けが上手だし、バランスもとれていて、地味な作品への授賞も避けはしない。いろいろいわれる賞ではあるが、この賞にだけある幻影も保ちつつ、これ以上ないくらいにうまく運営されてきたとわたしは感じる。
 「取りこぼし」など批判されることもあるが、むしろ賞のためには成功で、取りこぼしも見事で、幻影にいっそうの輝きを与えるものとなっている。

 純文学の新人をみまわしてみたところ、芥川賞をとれば30万部から50万部いきそうな作家は4人ほどいると、わたしはみた。
 その作品だって、芥川賞とれなければ数千部から1万部というところだろう。
 いうまでもなく、作者(作品)と芥川賞の掛け合わせが大事である。しかしそんなことだけに血道をあげては該賞も終焉であり、そんなことだけに腐心しないのが該賞がまだ価値を保ちえている所以である。
 実力が拮抗した場合に話題性を優先してきたのは確かだが(候補作の選定でそれは可能だ)、それは文芸の世界を盛り立てるのに必要なことである。

 もちろん、村上春樹のように芥川賞などにおんぶしない作家の出現があれば、それに優るものはない。
 「芥川賞さえとれれば売れたのに」などいう作家は所詮実力がないのである。
 受賞にたよるような者は、受賞したとして、その後の作品はまったく売れないということになるだろう。
 とはいえ「第三の新人」の頃までの作家のように晩年までありがたく読まれる時代ではないし、実力があればなんとかなる! という時代ではない。
 才能ある作家も脚光が一時的にならざるをえない時代であるから、なべて、純文学の新人にとって(もはや新人ではないはずの作家にとっても)芥川賞はほしいものであろう。
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