明日かあさって、『Samuraiホラー』(冒頭部分)出します

文字数 1,499文字

と、候補作読みはいったん中断した。
なるほど自分では自分のことを純文学マニアだとおもっていたが、A賞候補作の純文学っぷりを体感してみて、食傷してしまったからだ。「もしこれを純文学というのなら、ちょっとムリ」と感じた次第。
三木三奈の小説は以前に一作読んだことがあって、救われるおもいを経験した。だから、彼女のA賞候補作はアマゾンにて購入済みだし、いずれ読めることを楽しみにしている。

いずれにせよ、私はしばらく「純文学」を離れようとおもう。
で、なにを読むかといえば村上春樹である。その英訳本である。
それから、アメリカ人の書いた映画の脚本を、翻訳ではなくてオリジナルで。

A賞の候補作に限らず、何作か新人の作品を読んで、一定程度、学ぶところはあった。新人というのは「今(の感覚)」を描くことに比重を大きくもった人たちのことだろう。
しかし30歳前後の人が多いので、現代をどう捉えるかではなく「今の若者の今」を知ろうという場合には、基礎たり得ない。
思えば高1時に大江健三郎を読み出した頃には、彼の初期作から入ったわけだが、彼のデビュー時の年齢22、3歳というのがオジサンにおもえたものである。一方で、歳をとると若者の感覚に興味を抱くのが自然の流れだが、高校の頃には「文学の究極は大江(など文豪)の最新作にあり」とのおもいで、「オッサンの作品に価値なし」などという発想はなかった。
若者たる自分には、若者はただのバカにすぎなかった。
また、ケルアックがいったのだったか、「ものを描くに適切な距離あり。近すぎず、遠からずがそれなり」というのがあるので、高校・大学時代を描くのに30歳前後というのは「文学的に」適切であろう。だからA賞の候補が作者の実年齢を描くのには不適でも、自身のその時代を描くのに適切であることは、ケルアックを教条とするわけではないが? 理解できる。
村上の『風の歌』あるいは『ピンボール』が、村上が30歳前後のときに書かれたことにはそうした理由がある。適切な年齢。
『ノルウェイの森』は、青春の感覚にアクセスできるギリギリの時を逃すまいと40歳前を意識して、村上が取り組んだ作品であった。

若者というのは消費する側であると同時に、しかし同等以上に、消費される存在である。
若者は自分自身をポジティブにせよネガティブにせよ貪欲に消費するし、彼ら以外の、圧倒的な数の人間もまた、彼らを消費するものである。
費消された若者を捨て、「次の若者」へと目は移る。
費消され若者の形を失った若者はもはや若者ではないのだから。
新しい若者、ほんとうの若者が現れ、彼らはもはや「元若者」だ。求められる者も求める者も、か弱き葦。
つまり若者を私のような中年の人間が追いかけることは、彼らを貪り喰うというその動き、そのものなのだ。
それでももし、私が知りたいことがあるとすれば、「今の若者そのもの」である。
なので、たとえ新人とはいえ、30歳前後の書き手にそれを求めることはできぬ。
また一方で、20歳前後の書き手にそれを求めることもできぬ。なぜなら、私が読んでもっとも時間のムダに感じたのは『モモ100%』だからだ。タイトルが不正確かもしれない。わざわざ確認するのも厭わしい。完全に地獄。一度読み始めたら読了しなければ負け、という自身の信念を呪うほかない。「自分にとってつまらなければ、次の本へ」は、自由民主主義の国に生まれ育てば保障された権利なのだから。

そしてまた、「作品は自分の子供のようなもの」という。
プロの作品とはいえ、私のような罵りをする人間は地獄へ落ちるべきだろう。

弱き者は悪事をなす。
穢れを穢れではないとするには、なにが必要か。
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