第18話

文字数 1,462文字

 飯田橋文学界という名の、戦前戦中をおもわせるくらい重厚な名の団体が主催する「それぞれの言葉で語り合う──大江健三郎の文学をめぐって」というイベントに参加してきた。
 東京大学駒場キャンパス1号館2階159教室で開催されたが、会そのものよりも先ず、土曜日というのに別の教室では学生の講義がおこなわれており、通りかかった教室すべて完全英語で授業が進行していたのには驚倒した。また、教授か講師か役職はわからぬが彼らの真摯な講義姿勢や学生の静かで熱心な聴講態度にも目を瞠らされた。
 ちなみに私は英語を得意としているので英語自体におそれおののく、などということはないし、東大の学生レベルも実はそんなに高くないことは承知している。にしても瞠目してしまったというのはキャンパスがもつ雰囲気ゆえだろう。駒場はご存知のとおり、むかし一高であった場所である。
 一高というのはエリート養成所であり、取り壊しのきまった三鷹の跨線橋に(私は渡りおさめをしてきたが)愛着をもっていた太宰治はそこの出ではない。
 1号館というのも大江の写真で私には思い入れのあったものだが、このたび初めて入ることを得た。
 教室自体は地味そのもので、ためにイベントをも地味に印象づけたものである。村上春樹ライブラリーのあの楽しさは、そこに皆無であった。が、オンライン参加だった市川沙央さんの発言は天才的で彼女の実体性も反映されていて、考えさせられ感動させるものがあったから、行ってよかったものであった。鼎談における他の二者については、学者同士気をつかいあっている感じの発言で、アカデミズムというものの限界を如実に体感させるものだったにしても。
 早稲田で参加したイベントは、実作者あるいは編集者・出版人というプロが話してくれるものであったので、しかもノーベル賞級の作家たちと彼らの編集・出版にあたってきた人たちによるものだから、おのずと華があったのだ。優れた人間にはユーモア(遊び)が(そな)わる。

 芥川賞もいろんなタイプを候補あるいは受賞者にして、文春は幻影を維持していきたいところだろう。たとえば小野正嗣というひとは立教大学の准教授になった翌年に(もはやどう考えても新人ではなかったのに)候補になった(結果としての授賞は、候補になったものから選ぶを任とした選考委員の判断。「もはや新人とはいえない人の作であるから自分は受賞に反対した」などというのは(いにしえ)のこと)。
 日本文学史において東大はメインストリームであるが、今回の芥川賞候補などは学歴を出していない人が5人のうち3人である。
 今回の候補作はまだ一作も読んではいないが、ちかごろ現代文学に触手をのばしだした私は、候補者二人ばかりの過去作は読んだ・読んでいる最中である。どちらも学歴を出していない方々だが、一方は今年読んだ中で一番か二番かという感動を受けた作(とにかく特異な小説)をものした方であり、また別の方は、きわめて知的な主題と構成の方である。
 読まず嫌いはよくないな、という自省。そして文壇史のコアは東大で形成されたとはいえ、小説に向き合って執筆という地味な作業を静かにつづけるひとの作品は学歴無関係にやはりおもしろいという、あたりまえな発見。

 大江健三郎の作品の山を仰ぎみれば、逆に学歴の高低(とされるもの)は小説の出来に関係はないと知れる。

 というあたりまえの事実も、かつて(むかし)作者・読者ともにエリートが牽引した(とされる時期のある)純文学においては、あえてそれを感じ・記す、ということがあっていいとおもう。
 
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