王都にてDAY.05 『墓標』

文字数 5,674文字

早朝。まだ朝日が差さない"その場所"は薄暗く、一面を夕日に染められた先日(あのとき)とは違った顔を見せていた。
そして、まだ誰も居ない丘に佇むその人の姿も、先日(あのとき)はなかったものだった。
「……やはり、父上だったのですね」
私が後ろから声を掛けると、その人は少し驚いた様子で振り返った。その手には、杖が握られていた。
「……何の事だ?」
父は私に気づくと顔を背けた。さっきまで少し曲がっていた背筋を、ゆっくり伸ばした。
「母様のお墓に備えられた花束です」
「……」
父は何も言わなかった。
「一昨日に霊園(ここ)を訪れた時も、花束が供えてありました。その時は白い花でした。でも今は黄色い花になっています。これは、父上が供えられたのですね」
「……今朝はたまたま、足が向いただけだ」
「クエルの話では、父上は毎朝霊園(ここ)を訪れていると聞きました」
「……お喋りめ」
舌打ちと供に、父は聞き取れない程の小声で呟いた。
最初は、クエルが花束を供えてくれているのだと思っていた。クエルがマメに母のお墓の手入れをしてくれていたのだと思っていた。
ところが、クエルから返ってきたのは意外な答えだった。
「こんな時間に何の用だ?」
「父上に用があって来たのではありません」
私は父の隣に立つと、膝を折って母の墓標の前に(ひざまず)いた。
「母様と話をしに来たのです」
「……」
父は何も言わなかった。
私はいつものように顔の前で手を組んで、心の中で母に語りかけた。


「……昔からそうだった」
しばらくして、先に口を開いたのは父だった。
「事あるごとに霊園(ここ)を訪れては、そうやって話しかけていた」
「……私の事、ですか?」
「……」
父から返事はなかったが、私は気にしなかった。
「母様の前に来ると、素直になれます。どんな事でも話せます。それは、昔も今も変わりません」
「……」
「嬉しい事があった時、嫌な事があった時、自分の考えに迷った時……こうやって母様に相談すると、いつも答えを導いてくれました」
「……今は何と言われた?」
これまでの私だったら、父がそんな風に聞き返して来た事に驚き、戸惑っていたに違いない。
けれど今は、少なからず父の考えを知っていた。父の、母に対する想いを知っていた。
「迷わず進め、と」
だから、直ぐにそう答えられた。
「……死人(しびと)とは、ずいぶん無責任な事を言うのだな」
「信頼されているのだと思います。父上の事を」
「……」
(ひざまず)いたまま振り返って見上げると、父は怪訝そうな顔で私を見た。
「きっと父上や次男(にいさま)達が私を支えてくれるから、(あなた)は迷わず進め、と母様は言ってくれました」
「……卑怯な物言いだ」
それは私に向けられた言葉だったのか、それとも墓標の下で眠る母に向けられた言葉だったのかはわからなかった。
「"アレ"は昔からそうだった」
父がそう付け足した時、それが母に向けられた言葉だとわかった。
「芯が強いといえば聞こえはいいが、自分の考えを絶対に曲げない頑固者。アレの掲げた信念がこの国の"常識"とずれていた事で、ずいぶん変わり者と揶揄(やゆ)されていた」
それはきっと、夫に口答えしたり、使用人と一緒に働いたりといった、王都(このまち)では見かけない富裕層の妻としての立ち居振舞いの事だと思った。
「お前も知った通り、アレの出身はあの村だ。アレが村から持ってきた人皆平等の気質は結局死ぬまで変わることはなかった」
「変わって欲しかったのですか?」
「……」
父は答えなかった。「どちらでもない」きっとそれが答えだと思った。
「厄介だったのは、アレの気質は人に感染(うつ)り、また同じような気質の人間を引き寄せる事だった」
恐らく、そこにクエルの事も含まれているのだと思った。
「お陰で、いつしか私の目にも王都(このまち)の常識が歪んで見えるようになった。アレが掲げた信念のように、皆が平等に生きていける国の姿を、私も考えるようになっていた」
「……」
「それが王都(このまち)の人々にとって望まれる事なのか、拒まれる事なのか……答えは未だにわからん。ただ――」
遠くの山間から差し始めた朝日に、父上は目を細めた。
「アレが死んでからは、私に連れ出されずに、ずっとあの村で暮らさせてやった方が幸せだったのではないか。そう思う事は増えた」
「何を仰っているんです。昨日私に、希望的観測で語るなと釘を刺したのは、父上ではありませんか」
「……」
私が語気を強めると、父は再び黙った。
「その時私はまだ生まれてもいませんが、あの村から出ると決めたのも、父上と結婚すると決めたのも、全て母様の意志だという事くらい容易にわかります」
若い母が何をもって"そう"決めたのかはわからない。けれど、そういう人生の分岐点の決断を他人に任せるような人ではない事は、十分にわかっていた。
「母様の人生が幸せだったかを決めるのは、母様です。母様の人生を勝手に不幸なものにしないで下さい。少なくとも、私の記憶に残っている母様は、いつも笑っていました」
「……」
父の視線は、いつしか朝日から墓石に刻まれた母の名に向けられていた。
「だから私は、母様の死を不幸なもので終わらせるのはやめました。母様の死の先に得られたもの全てを自分の糧に、生きて行くと決めました。"あの病"の治療法もそのひとつです」
私が最後にそう付け足すと、父の顔色が変わった。
「……今、私は恋人がいます」
「……」
恥ずかしげもなくそう言えたのは、きっと母の前だからだと思った。
「彼は私や父上と同じ医者です」
「……」
きっとある程度の予想はついていたのだろう。父の顔色は変わらなかった。
「いつか私達が結婚して、いつか父上達と同じ境遇になって、いつか彼が父上と同じ行動を取ったとしたら……私はきっと、空から彼にこう言います」
昨日、次男(にいさま)はこう言っていた。"自分が父と同じ境遇になったらと考えた時、その行為を否定出来ない"と。
だから私も同じように考えた。ただ、私の場合は"妻を失った夫の立場"ではなく――
「いつまで馬鹿な事をやっている。お前がそのまま(こっち)に来たら、私は絶対に許さない」

――夫を遺して先立った妻の立場として

「お前は医者だろう。さっさと病を治して、これからも人の命を救え」
頭に眼鏡の男の顔を思い浮かべながら、私は言葉を紡いだ。
「そして自分の命――」
そこまで言って私は言葉を詰まらせた。それはきっと、その言葉が父にだけ向けたものではなく、母にも向けたかったものだったから。
「……自分の命もちゃんと……ちゃんと燃やし尽くしてから……それから……私の元に来い!」
「……」
父は黙っていた。私の涙が母上の墓石の上に落ち、ピタピタと立てる音が聞こえた。
「……父上、馬鹿な真似は止めて下さい。もうこれ以上、母様を……悲しませないで下さい」
「……アレはきっと、悲しんではいない」
父は静かに言った。
「きっとお前と同じように、空で怒っているだろう」
そう言って、私の頭にソッと手を乗せた。
「アレの最期の遺言は、"(おまえ)を泣かすな"だった。それさえも守れない私に怒り心頭だろう」
私は父の掌の感覚を頭に感じたまま、しばらく泣いた。まるで"あの時"の娘達のようだと、心の片隅で思いながら。



「兄達に私の説得を頼まれたのか?」
私が落ち着いた頃、父が言った。
「……いえ。自分の判断です。むしろ次男(にいさま)からは何もするなと言われました」
「……そうか。"お偉方"だけでなく、子どもにまで気を遣われるようになったか。情けのない話だ」
そう言うと、父は私の頭から手をどかした。
「滑稽な事はわかっていた。無意味な事も。それでも、アレの気持ちを知れるのならと……我ながら愚かだった。私の方が、よほど愚行だったのだろうな」
父の口調は、誰かに謝るような言い方だった。
「結果、アレの気持ちは何もわかりはしなかった。心も身体も渇くばかりで、何も満たされはしなかった。アレの命を利用した罰が当たった。今となっては引き際すら決められん」
「……母様をこれ以上悲しませない。それ以上の理由が必要なのですか?」
「……」
私が言うと、父は少し考えるような顔をして――
「死んでまでアレに怒鳴られるのは御免だ。ほとぼりが冷めるまで、(あっち)に行くのはやめておく。その理由(ほう)がいいだろう」
真顔でそう言った。
「……はい。私もそれをお勧めします。機嫌が悪い時の母様は、鬼よりも恐ろしいので」
私が笑うと、父は小声で「全くだ」と返した。
「……"あの言い種"では、いつかお前の夫となる男も苦労しそうだな」
そう言って、父は少しだけ口角を上げた。
「まさかお前が"あの男"と懇意にしているとは意外だった」
「……そうでしょうか」
眼鏡の男とは医学院時代から同棲していたし、彼は一時期ではあるが父と共に診療院で働いていた事もあった。むしろ面識はあったはずだったのだが……。
「あの男はお前の考えとは真逆を行くような男だからな」
「……はぁ」
確かに、意見が別れる事は多かった。それでも芯の部分では繋がっていた事が、私があの男を選んだ理由だったのだが……。
「正直、医学院での評判も決して良くはない」
「……それも、知っています」
確かに、野良で医者をしている眼鏡の男は医学院での評判は決して良くはないだろうが……。
「当時は伏せていたが、次席卒業のお前と三席のあの男の成績には雲泥の差が――」
「……ちょっと待って下さい」
私が父との会話の中に微かに感じ続けていたズレが、その時確実なものになった。
「父上は、さっきから誰の事を仰っているのですか?」
「お前の恋人の第三診療所の所長だ。名前は確か――」
「違います!」
ずっと忘れていた小男の存在に、私は早朝の霊園にも関わらず大声で否定した。
「どうして私があんな無礼者を伴侶に選ぶのですか?!
「違うのか?」
「もちろんです!……そもそも、どうして父上はあんな男を私の許嫁にしたのですか?!
いろいろな事がありすぎてすっかり忘れていた"許嫁問題"の真相。それを急に思い出した私は父を問い詰めた。
「許嫁?私はそんな事は言っていない」
「……え?」
しかしそれは、全く予想していない返事だった。
「ですがあの男は、父上から許嫁の許可を得たと――」
「どこからお前が王都(このまち)に戻ってくると聞き付けたかは知らんが、ある日いきなり屋敷に押し掛けて来た。お前と結婚させて欲しいと言うから、本人が良ければ好きにしろと言っただけだ」
「……」
それのどこが許嫁か。自分が勝手に一方的に決めつけただけじゃないか。
すっかり消えていたはずの左手の痛みが、疼き始めた。もっと強く殴っておくんだった、と。
「あの男でないとすると、一体誰が恋人なのだ?」
「……私があの村に行ってからもずっと文通していた、医学院の同期です。主席で卒業した――」
「やはり"ヤツ"か」
父は特に驚く様子もなく言った。
「昔から、お前の面倒をみれるのはヤツ位だと思っていたからな。今更、驚く事もない」
「……そう、ですか」
妙に納得される事が、少なからず腹立たしくはあった。
「ヤツは今、どこで何をしている?先生に師事している事は耳にしたが」
「……つい先日まで、野良の医者として王都(このまち)で働いていましたが、今は私の代わりにあの村へ向かってもらいました。早ければ明日にでも到着するでしょう」
「……そうか」
父は丘の上から遥か遠く、あの村の方角を睨み、目を細めた。
「どうやら、とことん私の人生に絡み付いてきたいようだな、あの村は」
そして、どこか嬉しそうにそう呟いた。
「お前の計画が失敗したら、お前は王都(このまち)に残ると言ったな」
「……はい」
「それはつまり、今度はヤツがあの村から戻らない、と言うことか?」
「……いえ、そこまでは未だ」
父に言われて、初めて"その先"を考えていなかった事に気づいた。私は、自分の計画が成功し、あの村へ帰る事しか考えていなかったから。
「考えが甘い」
「申し訳ありません」
「奴は医学院から離れた身。私の力ではどうにも出来ん」
「申し訳ありません」
「……まあいい。その件は追々考える」
父は小さくため息をつくと、朝日を背にして私の前に立った。
「昨日預かったお前の話、引き受ける。それで"借り"は無しだ」
「借り?」
「私は師として親として、お前の無謀な計画の尻拭いをしなければならない可能性がある。よってこの病の投薬実験は一時取り止める事にする」
「……」
父は胸を張ってそう言うと、杖の塚に両手を重ね、一度だけ墓石をコンと打った。まるで眠る母に伝えるように。
「これで文句はないだろう」
「……はい。ありがとうございます」
15年振りに王都(このまち)に戻って5日。
私はずいぶん涙を流した。それこそ15年分と言ってもいいほどに泣いた。
悲しい涙もあれば、嬉しい涙もあった。私を人にしてくれたあの村でさえ私は滅多に涙を流さなかったのに、私が二度と戻りたくないと遠ざけていた王都(このまち)に、涙の種は沢山埋まっていた。臆病だったあの頃の私が、自分で蒔き、自分から目を背け続けてきた種だ。
ずいぶん時間はかかったが、私はようやくその種と向き合う事が出来た。どんな花が咲くのかわからず躊躇していた種に水を与え、小さな芽を出す事が出来た。どんな風に育つのか、どんな花を咲かせるのか、それはきっとこれからの私次第だ。

人が変わるのには理由がある。

でも、その理由はいつも外の世界にある訳じゃない。きっと自分の中にもある。
外の世界の出来事は、理由を起こす為のきっかけに過ぎない。そのきっかけを受けて変わるのか、変わらないのか、最後にそれを決めるのは自分自身だから。
私はあの村で15年を過ごしたからこそ、昔の自分に戻れた。眼鏡の男の想いを受け入れられた。再び家族と心を通わせる事が出来るようになった。

――今の自分がこうしてここに立っている理由に、私は一片の迷いもなかった

「……」
登り始めた太陽。その反対にはまだ沈みきらない白い月が浮かんでいた。
「……よし!」
私は大きく息を吸い込むと、"いつものように"両手で自分の頬を叩いた。
あの村の朝は早い。きっと、娘達もこの空を見上ているに違いない。眼鏡の男もまた、何処かの道の上から見上げているに違いない。
そう思うと力が湧いた。遠く、海を越えた隣国でさえも、この空で繋がっている。強く、強くそう思った。


つづく。


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