王都にてDAY.04 ⑥『兄妹』
文字数 5,831文字
クエルが言っていた事に偽りはなく、私の部屋は"本当に"あの頃のままだった。
屋敷の中の景色は少なからず変わっていて、15年という決して短くはない時の流れを感じる事が出来た。ところが、何も変わっていない事でこの部屋だけが時間の流れに取り残されたような……不思議な錯覚もあった。
「……」
何も聞こえない部屋。一人だけの時間。綺麗に整えられたベッドに寝転んで天井を見上げていると……嫌でもいろいろな事が頭をよぎった。
時間に取り残されたのはこの部屋だけじゃなかった。
幼い頃に植え付けられた苦手意識に加え、母を失った怒りと憎しみの感情に飲み込まれた事でずっと父を避けていた私もまた、時間に取り残されていたこの部屋の一部ような気がした。
15年振りの父との会話は、これまでで最も長く、深いものだった。今まで知らなかった、知るはずのなかった事を幾つも知らされた。
だからと言って、過去に父が私に向けていた態度が変わることはない。けれど、その言動の理由を少しでも知った事は、私の中にあった父に対する印象を変えつつあった。
そんな戸惑いに加えて、これから自分が成そうとしている計画 を実際に言葉に出してしまった事が、自ら逃げ道を断った事が、それまで疑う事のなかった自信に影を落とした。
もしも、琥珀に思うほどの価値がなかったら……
もしも、琥珀に価値があっても現王が私の提案を退けたら……
もしも、私の提案が通っても3年経って成果が得られなかったら……
そんな"もしも"が頭の中で幾重にも渦を巻いて、私に笑顔で村に帰る未来を見せてはくれなかった。
それが自分の覚悟だと大見得を切ったもう一つの切札が、父の言っていた通り無謀な賭けのような気がしてしまっていた。
"この感覚"になるのは久し振りだった。そして、その理由もわかっていた。
15年前、あの村に派遣されたばかりの頃。まだ右も左もわからず、知る人も居ない。そんな村で医者として生きていく事が出来るのかと……大きな不安の原因は、未来 が見通せない事だった。
そして現在 。15年振りに戻った王都には眼鏡の男がいた。離れていた時間はあっても、私という人間を理解してくれている存在がいた。父とも少なからず分かり合えた。クエルも温かく迎えてくれた。それにも関わらず、見通せない未来への不安はあの頃よりもずっと大きかった。
それだけ、私がやろうとしている事が無謀な事なのかも知れないと……今更になって思い始めていた。
想像もしていなかった真実を次々と知らされ、確かに頭は疲れきっていた。けれど、頭を休めようとすればするほど、何も考えないようにすればするほど、不安の渦は大きくなるばかりだった。
「……駄目だな」
まるでまだ何も始まっていない私の計画のように真っ白い天井を見上げるのをやめた。私はベッドから降り、部屋を出た。
「まぁ、お嬢様」
昔の記憶を頼りに辿り着いた屋敷の調理場では、クエルを始め数人の使用人達が夕飯の支度をしていた。調理場を覗いた私に、早速クエルが気付いて声をかけた。
「どうなさったんです?お休みになられていたのでは?」
「……ああ、そうなんだが」
「ひょっとしてお腹が空いたんですか?申し訳ありませんが、まだ御夕食は出来上がっていないのですが」
「いや、そういう訳じゃないんだ。部屋に居ても落ち着かなくてな」
私が調理場に入ると、使用人達が揃って頭を下げた。
「私に頭を下げるのをやめてくれ。私はあなた達の雇い主ではないんだ」
「それは無理な相談です。お嬢様がこのお屋敷のご令嬢である以上、我々の主人に違いありません。昔はそんな事、気にされていなかったじゃありませんか」
「……もう子どもじゃないんだ。不相応な待遇を受けるのは性に合わない。何か手伝う事はないか?」
「手伝うだなんてとんでもない!今の話を聞いていらっしゃいましたか?」
調理場見渡す私に、クエルが不満げに声を挙げた。
「お嬢様は我々の――」
「それなら、主人として命令する」
私が言うと、クエルは小さな目を丸くしていた。
「何でもいいから私に仕事を与えてくれ。じっとしている方が辛いんだ」
「……そういう事でしたら」
クエルは少し考えてから頷いた。私の気持ちを察してくれたらしい。
「出来ることなら料理を手伝いたいんだが」
「まぁ!お嬢様が料理をなさるのですか?!」
「15年間、単身者だったんだ。侮らないでくれ」
眼鏡の男と同じかそれ以上に驚くクエルに、私は眼鏡の男に返した時と同じような言葉を返した。きっとクエルは眼鏡の男以上に私の"出来なさ"を知っていただろうから、驚くのも無理はない。
「家事は一通り出来るようになったつもりだ」
「まぁまぁまぁ!では、こちらへどうぞ」
満面の笑みでそう言うと、クエルは調理場の奥へ私を案内してくれた。
「材料の切り分けをお願い致します。今夜はお嬢様の好きだったシチューをお召し上がりいただきたいので」
「わかった」
「ケーナ、あなたの作業をお嬢様に手伝っていただきます」
「えッ?!は、はい!」
クエルにそう声をかけられたのは、若い娘の使用人だった。
「は、はじめましてお嬢様」
「こちらこそ」
自分よりずっと年下の娘にお嬢様と呼ばれる事には、だいぶ抵抗があった。
「名前は?」
「はい!ケーナと申します!」
二言話して、ケーナの言葉に何処かしらの田舎訛 りを感じた。
「歳は?」
「もうすぐ17です」
「……ふふ、ずいぶん若いな」
思わず、村に残してきた娘達の顔が浮かんだ。
娘達と同じ位の年頃の娘に、つい笑みが零れた。
「ケーナは昨年から使用人として勤めております。遠方の出身なので少々言葉に訛りがありますが、良く働く娘です」
「申し訳ありませんお嬢様。私の言葉、お聞き苦しいですよね」
「いいや。私もずっと遠方の村に居たからな。田舎の言葉はむしろ懐かしくてほっとする」
「そうですか!」
ケーナは本当に嬉しそうに笑った。化粧で飾らないその素顔は王都 の娘達に比べれば見劣りするかもしれないが……その笑顔は、娘のあどけなさを残す可愛らしいものだった。
「この芋の皮を剥けばいいのか?」
私は両腕の裾を捲ると、ケーナの隣に立ってナイフを手に取った。
「は、はい!……お上手ですね、お嬢様」
「いや、村のナイフはもっと切れ味が悪かったからな。むしろ切れ過ぎて扱いにくい」
「わかります!私も最初は王都 のナイフが使い慣れなくて何度も指を切りました!」
娘達と同じ年頃、そして同じ田舎暮らしを経て王都 へやって来た者同士という共通点が、私達の会話を自然と弾ませた。
ケーナのお陰で、私は不安から解放されたひとときを過ごした。
「ついに戻ったか」
どれくらい時間が流れた頃だろう。ケーナとの話に夢中になっていた私は、その声が直ぐ近くでするまで"その人"に気付かなかった。
「……兄様 、ですか?」
調理場に顔を覗かせたのは――
「正解。随分久しいのに、よく見分けられたな」
そう言ってうっすらと笑みを浮かべた、私の二番目の兄だった。
私には3人の兄がいた。
5つ年上の長男を"兄上 "
3つ年上の次男を"兄様 "
1つ年上の三男を"兄さん "
3人の兄を呼び分ける為、私は幼い頃から兄達をそう呼んでいた。兄達もそんな私に合わせてくれていたのだろう、それぞれの兄を呼ぶ時は私と同じ呼び方をしていた。
「驚いた。ずいぶん母上に似た顔立ちになったじゃないか」
次男 は、昔から静かな人だった。決して不愛想というわけではなかったのだが、静かというか無口というか……極端に言えば父に似た性格だった。
反対に、極端に言えば母に似ておしゃべりで感情豊かだった長男 と三男 とはよく喧嘩をしたのだけれど、次男 とだけは喧嘩をした記憶がほとんどなかった。
「お久し振りです。次男 」
「そう呼ばれるのも久し振りだ。元気だったか?」
「はい。お陰様で」
「父上とはもう話したのか?」
「はい。明日まで屋敷に滞在する事になりました。次男 は屋敷で暮らしているのですか?」
「ああ。長男 が屋敷を出てからは私が代わりに滞在している。この屋敷に居た方が診療院に近いからな」
「診療院?診療院に勤めているのは長男 ではないのですか?」
私の記憶が正しければ……といっても15年も前の記憶だったが、長男 は父と同じ診療院に勤め、次男 は第二診療所に勤めていたはずだった。
「長男 は何年も前に王都 を離れたよ」
「え?」
少なからず驚いた。長男 は、父上の側近として王都 からは離れないものと思っていたから。
「今は国中の診療所を転々と回っているらしい。本人は"王都からの使者 "なんて言って回っているようだが……国中を放浪する事が目的のようだ」
「……それで、次男 が診療院に?」
「そういうことだ」
「三男 は?」
「アイツはずっと変わらない。隣町の診療所に勤めているよ」
「そうですか。それでは……いずれは次男 が父上の跡を継ぐのですか?」
「いや。もし父上が次期学院長を私達兄弟の誰かに継がせるおつもりだとして、父上の跡を継げるのは長男 しかいないよ」
そう言うと、次男 は再びうっすらと笑みを浮かべた。
「普段はのらりくらりとしているが、兄弟で一番"資質"を持っているのは間違いなく長男 だ。私も長男 が居るからこそ、今の仕事に専念していられる」
「……」
そこにはきっと、私にはわからない兄弟だからこそわかる何かがあるのだと思った。父だけでなく、兄妹 の間にも15年の空白を作ってしまった私には、口を出す資格などなかった。
「長男 は、滅多に王都には戻らないのですか?」
「いや、父から定期的に"報告"するよう命じられてるからな。年に1度は顔を出す。最近は……訳あって以前より頻繁に戻るようになったな」
そう言うと、次男 は私の背中越しに"何か"を見た。
「……今日はケーナが出勤している日か。運が良ければ会えるかもな」
「え?」
「ケーナちゃん、居るー?」
その時、無精髭を生やした長髪の男が調理場に入って来た。その手には大きな花束が握られていた。
「今日は隣町で綺麗な花を買ってきたよ。花言葉は永遠の愛、だってさ!」
髭の男はケーナに半ば無理やり花束を渡すと、半ば無理やりその手を握った。
「お、お帰りなさいませ若旦那様!」
「"若"は余計だよー。そのうち君の旦那様になるんだから」
「……ひょっとして長男 、ですか?」
「ん?……ああ、お前か」
男はケーナから手を離すと、ぼさぼさに伸びた髪を器用な手つきで後ろで1本に束ねた。
「帰ったのか。久し振りだな」
"あの頃"から流れた時間は同じはずなのに、5つ歳上の長男ということもあるのだろう、その顔は随分老け込み、父上に似てきたように見えた。
「長男 も、お元気そうで何よりです」
「元気なもんかよ。もう直ぐ四十だぞ。いい加減身を固めろって親父もうるせーんだ。ね?ケーナちゃん」
「……さっきからケーナに対して何を仰ってるんですか?」
「見た通りだ」
呆れた様子でそう言ったのは次男 だった。
「長男 はケーナに惚れ込んでいるんだ。親子ほどに歳が離れているというのに」
間もなく四十を迎える長男 と、まだ二十にも満たないケーナ。20を超える歳の差を越えての求愛行動らしかった。
「……本気ですか長男 」
「愛に歳の差は関係ねーんだよ。まだまだ頭が固ぇぞお前ら。医者たるもの、いざという時は柔軟な物の考え方が出来ねばならんのだ!」
長男 は腕を組ながら一人頷いていた。
「王都 の常識に縛られるな。世界は広い。お前も"そう"思っただろ?」
そう言うと、長男 は私を見た。
「最後に会ったのは、確か5年位前か?」
「15年前です」
「いや、5年前だ」
本気なのか冗談なのか……老師 以上の数字違いを正すと、長男 は真顔で言い返して来た。
「5年前、オレは"あの村"でお前に会っている」
「そんなはずは――」
「この傷に見覚えはないか?」
そう言うと、長男 は服の裾をまくり上げ、左腕を私に見せた。そこには、小刀程の……既に治った傷痕があった。
少し考えた私の頭に――
「
呼び起こされた記憶の声と、目の前の長男 が放った喉を絞ったような声が重なって響いた。
「この言葉に聞き覚えは?」
「……」
5年程前、私はこの傷を見た覚えがあった。この声を聞いた覚えがあった。
確か……月に1度、村にやって来る商人が診療所に連れて来た患者だった。怪我をしたのは新入りの商人で、山歩きに慣れておらず足を滑らせ藪に落ち、腕を大きく切ってしまった、と。
応急処置を施した私に、新入り商人の男が見せた傷、掛けた言葉が"それ"だった。
「まさか……あの時の商人?!」
「そう、オレ。お前の様子を見に商人に頼んで村までくっついて行ったんだ」
「……そんな」
確かに、商人特有のターバンで顔をすっぽり覆っていたし、変えられた声色、しかも何年も会っていない実の兄だとは気づけるはずもなかった。
「怪我をしたのは偶然だけどな、お陰でお前の"腕"をみる事が出来た。まさに怪我の功名ってやつだ」
「どうして名乗ってくれなかったのですか?」
「オレがあの村に行ったのは医者としてのお前の様子を"視る"為で、兄として会いに行ったわけじゃないからな」
「……まさか、父上に私の評判 を伝えたのも」
「そうオレ。医者として国を放浪する条件に親父から出されたのが、国中の診療所を回って状況を報告する事だったからな」
それは、さっき兄様 も言っていた事だった。
「まぁ、わざわざオレが報告しなくても、お前の評判はきっと王都 まで流れて来たろうぜ。他の商人からもお前の評判は聞いている。最果ての村に腕のいい女の医者が居るってな。実際、あの時のお前は医者としていい判断、いい腕だった。お陰でオレの腕は問題なく使えている」
そう言って、長男 は腕を振って見せた。
「さっき私が言った意味がわかっただろう?」
「……」
黙っていた私に、次男 が言った。
私がさっき理解する事が出来なかった兄上 が持つ"資質"というものの事だとわかった。確かに、長男 の言葉には不思議な説得力があった。
「お前が戻って来た理由も、親父から聞いている。まぁ、お前なりのやり方でやってみたらいいんじゃねーか?」
「……長男 はどう思われますか?」
「ん?壁の事か?」
私が頷くと――
「要らん。邪魔なだけだ」
長男 は当然のようにそう言い放った。
「壁のせいでいちいち遠回りしてたら、なかなかケーナちゃんに会えなくなっちゃうだろ」
「……」
長男 の言葉に、なぜか眼鏡の男の声が重なって聞こえた。
つづく。
屋敷の中の景色は少なからず変わっていて、15年という決して短くはない時の流れを感じる事が出来た。ところが、何も変わっていない事でこの部屋だけが時間の流れに取り残されたような……不思議な錯覚もあった。
「……」
何も聞こえない部屋。一人だけの時間。綺麗に整えられたベッドに寝転んで天井を見上げていると……嫌でもいろいろな事が頭をよぎった。
時間に取り残されたのはこの部屋だけじゃなかった。
幼い頃に植え付けられた苦手意識に加え、母を失った怒りと憎しみの感情に飲み込まれた事でずっと父を避けていた私もまた、時間に取り残されていたこの部屋の一部ような気がした。
15年振りの父との会話は、これまでで最も長く、深いものだった。今まで知らなかった、知るはずのなかった事を幾つも知らされた。
だからと言って、過去に父が私に向けていた態度が変わることはない。けれど、その言動の理由を少しでも知った事は、私の中にあった父に対する印象を変えつつあった。
そんな戸惑いに加えて、これから自分が成そうとしている
もしも、琥珀に思うほどの価値がなかったら……
もしも、琥珀に価値があっても現王が私の提案を退けたら……
もしも、私の提案が通っても3年経って成果が得られなかったら……
そんな"もしも"が頭の中で幾重にも渦を巻いて、私に笑顔で村に帰る未来を見せてはくれなかった。
「私は二度と、あの村へは戻りません」
それが自分の覚悟だと大見得を切ったもう一つの切札が、父の言っていた通り無謀な賭けのような気がしてしまっていた。
"この感覚"になるのは久し振りだった。そして、その理由もわかっていた。
15年前、あの村に派遣されたばかりの頃。まだ右も左もわからず、知る人も居ない。そんな村で医者として生きていく事が出来るのかと……大きな不安の原因は、
そして
それだけ、私がやろうとしている事が無謀な事なのかも知れないと……今更になって思い始めていた。
想像もしていなかった真実を次々と知らされ、確かに頭は疲れきっていた。けれど、頭を休めようとすればするほど、何も考えないようにすればするほど、不安の渦は大きくなるばかりだった。
「……駄目だな」
まるでまだ何も始まっていない私の計画のように真っ白い天井を見上げるのをやめた。私はベッドから降り、部屋を出た。
「まぁ、お嬢様」
昔の記憶を頼りに辿り着いた屋敷の調理場では、クエルを始め数人の使用人達が夕飯の支度をしていた。調理場を覗いた私に、早速クエルが気付いて声をかけた。
「どうなさったんです?お休みになられていたのでは?」
「……ああ、そうなんだが」
「ひょっとしてお腹が空いたんですか?申し訳ありませんが、まだ御夕食は出来上がっていないのですが」
「いや、そういう訳じゃないんだ。部屋に居ても落ち着かなくてな」
私が調理場に入ると、使用人達が揃って頭を下げた。
「私に頭を下げるのをやめてくれ。私はあなた達の雇い主ではないんだ」
「それは無理な相談です。お嬢様がこのお屋敷のご令嬢である以上、我々の主人に違いありません。昔はそんな事、気にされていなかったじゃありませんか」
「……もう子どもじゃないんだ。不相応な待遇を受けるのは性に合わない。何か手伝う事はないか?」
「手伝うだなんてとんでもない!今の話を聞いていらっしゃいましたか?」
調理場見渡す私に、クエルが不満げに声を挙げた。
「お嬢様は我々の――」
「それなら、主人として命令する」
私が言うと、クエルは小さな目を丸くしていた。
「何でもいいから私に仕事を与えてくれ。じっとしている方が辛いんだ」
「……そういう事でしたら」
クエルは少し考えてから頷いた。私の気持ちを察してくれたらしい。
「出来ることなら料理を手伝いたいんだが」
「まぁ!お嬢様が料理をなさるのですか?!」
「15年間、単身者だったんだ。侮らないでくれ」
眼鏡の男と同じかそれ以上に驚くクエルに、私は眼鏡の男に返した時と同じような言葉を返した。きっとクエルは眼鏡の男以上に私の"出来なさ"を知っていただろうから、驚くのも無理はない。
「家事は一通り出来るようになったつもりだ」
「まぁまぁまぁ!では、こちらへどうぞ」
満面の笑みでそう言うと、クエルは調理場の奥へ私を案内してくれた。
「材料の切り分けをお願い致します。今夜はお嬢様の好きだったシチューをお召し上がりいただきたいので」
「わかった」
「ケーナ、あなたの作業をお嬢様に手伝っていただきます」
「えッ?!は、はい!」
クエルにそう声をかけられたのは、若い娘の使用人だった。
「は、はじめましてお嬢様」
「こちらこそ」
自分よりずっと年下の娘にお嬢様と呼ばれる事には、だいぶ抵抗があった。
「名前は?」
「はい!ケーナと申します!」
二言話して、ケーナの言葉に何処かしらの田舎
「歳は?」
「もうすぐ17です」
「……ふふ、ずいぶん若いな」
思わず、村に残してきた娘達の顔が浮かんだ。
娘達と同じ位の年頃の娘に、つい笑みが零れた。
「ケーナは昨年から使用人として勤めております。遠方の出身なので少々言葉に訛りがありますが、良く働く娘です」
「申し訳ありませんお嬢様。私の言葉、お聞き苦しいですよね」
「いいや。私もずっと遠方の村に居たからな。田舎の言葉はむしろ懐かしくてほっとする」
「そうですか!」
ケーナは本当に嬉しそうに笑った。化粧で飾らないその素顔は
「この芋の皮を剥けばいいのか?」
私は両腕の裾を捲ると、ケーナの隣に立ってナイフを手に取った。
「は、はい!……お上手ですね、お嬢様」
「いや、村のナイフはもっと切れ味が悪かったからな。むしろ切れ過ぎて扱いにくい」
「わかります!私も最初は
娘達と同じ年頃、そして同じ田舎暮らしを経て
ケーナのお陰で、私は不安から解放されたひとときを過ごした。
「ついに戻ったか」
どれくらい時間が流れた頃だろう。ケーナとの話に夢中になっていた私は、その声が直ぐ近くでするまで"その人"に気付かなかった。
「……
調理場に顔を覗かせたのは――
「正解。随分久しいのに、よく見分けられたな」
そう言ってうっすらと笑みを浮かべた、私の二番目の兄だった。
私には3人の兄がいた。
5つ年上の長男を"
3つ年上の次男を"
1つ年上の三男を"
3人の兄を呼び分ける為、私は幼い頃から兄達をそう呼んでいた。兄達もそんな私に合わせてくれていたのだろう、それぞれの兄を呼ぶ時は私と同じ呼び方をしていた。
「驚いた。ずいぶん母上に似た顔立ちになったじゃないか」
反対に、極端に言えば母に似ておしゃべりで感情豊かだった
「お久し振りです。
「そう呼ばれるのも久し振りだ。元気だったか?」
「はい。お陰様で」
「父上とはもう話したのか?」
「はい。明日まで屋敷に滞在する事になりました。
「ああ。
「診療院?診療院に勤めているのは
私の記憶が正しければ……といっても15年も前の記憶だったが、
「
「え?」
少なからず驚いた。
「今は国中の診療所を転々と回っているらしい。本人は"王都からの
「……それで、
「そういうことだ」
「
「アイツはずっと変わらない。隣町の診療所に勤めているよ」
「そうですか。それでは……いずれは
「いや。もし父上が次期学院長を私達兄弟の誰かに継がせるおつもりだとして、父上の跡を継げるのは
そう言うと、
「普段はのらりくらりとしているが、兄弟で一番"資質"を持っているのは間違いなく
「……」
そこにはきっと、私にはわからない兄弟だからこそわかる何かがあるのだと思った。父だけでなく、
「
「いや、父から定期的に"報告"するよう命じられてるからな。年に1度は顔を出す。最近は……訳あって以前より頻繁に戻るようになったな」
そう言うと、
「……今日はケーナが出勤している日か。運が良ければ会えるかもな」
「え?」
「ケーナちゃん、居るー?」
その時、無精髭を生やした長髪の男が調理場に入って来た。その手には大きな花束が握られていた。
「今日は隣町で綺麗な花を買ってきたよ。花言葉は永遠の愛、だってさ!」
髭の男はケーナに半ば無理やり花束を渡すと、半ば無理やりその手を握った。
「お、お帰りなさいませ若旦那様!」
「"若"は余計だよー。そのうち君の旦那様になるんだから」
「……ひょっとして
「ん?……ああ、お前か」
男はケーナから手を離すと、ぼさぼさに伸びた髪を器用な手つきで後ろで1本に束ねた。
「帰ったのか。久し振りだな」
"あの頃"から流れた時間は同じはずなのに、5つ歳上の長男ということもあるのだろう、その顔は随分老け込み、父上に似てきたように見えた。
「
「元気なもんかよ。もう直ぐ四十だぞ。いい加減身を固めろって親父もうるせーんだ。ね?ケーナちゃん」
「……さっきからケーナに対して何を仰ってるんですか?」
「見た通りだ」
呆れた様子でそう言ったのは
「
間もなく四十を迎える
「……本気ですか
「愛に歳の差は関係ねーんだよ。まだまだ頭が固ぇぞお前ら。医者たるもの、いざという時は柔軟な物の考え方が出来ねばならんのだ!」
「
そう言うと、
「最後に会ったのは、確か5年位前か?」
「15年前です」
「いや、5年前だ」
本気なのか冗談なのか……
「5年前、オレは"あの村"でお前に会っている」
「そんなはずは――」
「この傷に見覚えはないか?」
そう言うと、
少し考えた私の頭に――
「
「お姉ちゃんいい腕だねぇ。王都で医者しちゃいなよ」
」呼び起こされた記憶の声と、目の前の
「この言葉に聞き覚えは?」
「……」
5年程前、私はこの傷を見た覚えがあった。この声を聞いた覚えがあった。
確か……月に1度、村にやって来る商人が診療所に連れて来た患者だった。怪我をしたのは新入りの商人で、山歩きに慣れておらず足を滑らせ藪に落ち、腕を大きく切ってしまった、と。
応急処置を施した私に、新入り商人の男が見せた傷、掛けた言葉が"それ"だった。
「まさか……あの時の商人?!」
「そう、オレ。お前の様子を見に商人に頼んで村までくっついて行ったんだ」
「……そんな」
確かに、商人特有のターバンで顔をすっぽり覆っていたし、変えられた声色、しかも何年も会っていない実の兄だとは気づけるはずもなかった。
「怪我をしたのは偶然だけどな、お陰でお前の"腕"をみる事が出来た。まさに怪我の功名ってやつだ」
「どうして名乗ってくれなかったのですか?」
「オレがあの村に行ったのは医者としてのお前の様子を"視る"為で、兄として会いに行ったわけじゃないからな」
「……まさか、父上に私の
「そうオレ。医者として国を放浪する条件に親父から出されたのが、国中の診療所を回って状況を報告する事だったからな」
それは、さっき
「まぁ、わざわざオレが報告しなくても、お前の評判はきっと
そう言って、
「さっき私が言った意味がわかっただろう?」
「……」
黙っていた私に、
私がさっき理解する事が出来なかった
「お前が戻って来た理由も、親父から聞いている。まぁ、お前なりのやり方でやってみたらいいんじゃねーか?」
「……
「ん?壁の事か?」
私が頷くと――
「要らん。邪魔なだけだ」
「壁のせいでいちいち遠回りしてたら、なかなかケーナちゃんに会えなくなっちゃうだろ」
「……」
「欲があってこその人間です」
つづく。