13章―2
文字数 3,993文字
防寒具を纏っているが、外は思ったほど寒くはない。数週間前までは雪の質も軽く、真っ白な絵の具で塗り潰されたような景色だったが、地面には既に土の色が見え始めている。長かった冬がもうすぐ終わり、春になるのだ。
アースは、ソルーノと雑談するラウロを見上げる。紺色のダッフルコートによく映える、黄色い肩かけ鞄。帆布で作られた丈夫な鞄には、スケッチブックと画材が入っている。
今月分の仕事が済んだばかりだが、彼は新しい『商売道具』を手放せないようだ。
「ユーリのお店は最後にして、ナタルに会いに行こうよ。差し入れも渡したいし☆」
「残念。今は風邪が流行ってるから来るな、って言われてるんだよな」
ラウロにからかわれ、ソルーノは「なあんだ」とがっくり肩を落とす。
実は最近、ナタルも『家』を不在にしていた。彼女はリベラに誘われ、診療所の事務に入っているのだ。元々勤めていた事務の女性が産休に入ったらしく、相棒であるシャープとフラットを置いて、一ヶ月前から通いつめている。
ナタルはラウロの身を案じていたが、『蛇』の音沙汰は全くなく、『それでも町には出ないこと』と釘を差すだけに留めた。
両側の並木道は針葉樹林から、葉の落ちた広葉樹林へと変わる。幹と枝のみの寂しい風景が続いた後に、水色の一軒家が見えてきた。ユーリットが経営する植物園だ。
「ユーリ、いるかなぁ?」
ソルーノは玄関の窓に顔を寄せ、様子を伺う。アース達も彼に倣って室内を覗くと、オズナーとアンヌが、ユーリットを巡って店内で暴れ回る
ラウロは三人を引き寄せ、引きつった表情で言い聞かせた。
「俺達は何も見ていない。そうだな?」
「はい、なんにも見てません」
アースとモレノの声が重なる。『家』に引き返そうと方向転換すると、ソルーノに引き止められた。
「じゃあ町まで行こうよ。ちょうど買い物もしたかったし☆」
途端にラウロの顔が曇ったが、モレノも「ちょっとだけなら大丈夫っすよ」と笑い出す。
しかし、以前『蛇』が現れたのは、こちらが僅かに油断した瞬間だった。アースもラウロも不安だったが、ソルーノ達に引っ張られる形で流され、結局寄り道することになった。
交番と診療所を通り過ぎ、景色は次第に開ける。ちらほらと点在する一軒家の向こうに、小さな町が見えてきた。
うん十年前まではこの辺りも森林だったが、数年前から切り開かれ、新しい町が出来た。豊かな自然の中で暮らしたい人々や、農地を求める人々が集まり、僻地であるにも関わらず活気のある場所となっている。
商店街に向かう途中何回か住民とすれ違い、挨拶を交わす。数ヶ月前の公演のおかげで、この町の人々とはすっかり顔馴染みである。
店を物色しながら用事を済ませ、商店街を出る頃には日が傾き始めていた。診療所を通り過ぎると、道の向こうでよく知る人物の顔が見えた。
「あっ、ウェルダ! やっほー☆」
ソルーノは手を大きく振りつつ、スキップしながら走り寄る。道の先にいた相手も彼に気づいたのか、自転車を押しながら近寄ってきた。
「珍しい組み合わせだね、散歩かい?」
「うん。買い物のついでにね☆」
交番の警官ウェルダは自転車のストッパーをかけ、驚いた表情で四人を眺める。帽子と同じ白色のダウンジャケットに手を突っこんでいたが、アースを見て悪戯っぽく微笑んだ。
「何だか寒そうだね、どれどれ、温めてあげよっか?」
ウェルダは両手で、アースの頬を撫で回す。アースは突然のことに驚くが、その手はぽかぽかと温かい。彼女の[潜在能力]、[発熱反応]による人工カイロだ。
「あーっ、アースだけずるい! ウェルダさん、俺にもやってくださいよ!」
「あんたは全然寒くなさそうじゃないか。それぐらい我慢しなよ!」
軽くあしらわれ、モレノは「そんなぁ」と地面に崩れ落ちる。ラウロとソルーノは腹を抱えて笑い転げ、アースは憐れみの目をモレノに向けた。
「そういえばウェルダ、これから見回りに行くの?」
笑いが治まった頃、ソルーノはウェルダに訊ねる。すると、彼女は思い出したように両手を合わせた。
「そうなんだけどさ、ちょっと聞いてよ。おととい見慣れない人に会ったんだけど……」
ウェルダは一歩近寄る。アース達もつられて耳を傾けた。
「商店街を見回りしてたら、白いキャップを被った男の子に助けを求められたんだよ。それでついて行ったら、ピンク色の髪の女の人がやんちゃ坊主達に絡まれててね。追い払ったのはいいけど、その人はね、よく見たら男だったんだよ!」
アース達は「えぇっ⁉」と仰天する。その被害者がラウロだったらよく遭遇しそうな事案だが、彼以外にも『女性に見間違えられる男性』がいたとは。
「(いや、アビニアさんもトルマさんも見た目は女の人だし、なんならソルーノさんだってそうだよね)」
身の回りの『美女』達を思い返し、アースは自分自身にツッコミを入れる。思わずラウロを見上げたが、彼は何故か、顔が青ざめていた。
「ウェルダさん。その男ってもしかして、俺みたいに髪を括ってて、四角い眼鏡をかけた奴、じゃないよな……?」
ラウロは懇願するようにウェルダを見たが、彼女は目を丸くして大きく頷いた。
「よく分かったね! あんたの言う通りだよ。もしかして知り合いかい?」
その瞬間、ラウロの体がふらついた。ソルーノが慌てて支えたが、彼の顔は冷や汗で濡れている。ラウロは唾を飲みこみ、声を震わせた。
「間違いない。そいつは、
その時、辺りの空気が一変した。アースは身に覚えのある緊張感に震え、ラウロを見上げる。
「ラウロさん、この、感じは……」
「アースも気づいたか。兄ちゃん、モレノ、絶対後ろを振り返るなよ。この近くにフィードがいる」
ラウロはアース達を引き寄せ、小声で伝える。ソルーノとモレノは思わず叫びそうになり、同時に口元を手で覆った。
「フィードって、こないだのパーティーで言ってた、あんたを狙ってるって奴かい?」
ウェルダも声を落とし、ラウロに問う。彼は小さく頷くと、右手で額の汗を拭った。
「たぶん、あいつは背後にいるはずだ。今すぐ逃げないと、かなりまずい」
ここは道路のど真ん中。助けを求めようにも近くに民家はなく、ここから『家』までは、どんなに速く走っても十分以上はかかる。カツン、カツン、と、あの恐ろしい靴音が聞こえた気がした。
「そいつは私が足止めする。いいかい、あんた達は気づかないふりをして、私の背後に見えるカーブまで歩くんだよ。そしてこっちから見えなくなったら、走って植物園まで逃げるんだ」
ウェルダはアース達を勇気づけるように、力強く囁く。その茶色の瞳はソルーノを捉え、フッと和らいだ。
「ソルーノ、ラウロ達を頼んだよ」
不安げに揺れていた真っ黒な瞳に、光が差す。ソルーノは『弟』の手を握り、「まかせて!」と自信たっぷりに答えた。
アース達はウェルダの横をすり抜け、恐る恐る一歩踏み出す。途端に背後の緊張感が増したが、早足にならないよう注意しながら進んだ。
「あのカーブを越えたらカウントダウン三回で、一気に走るぞ」
ラウロは三人に呼びかける。カーブはすぐ目の前だ。背後から、ウェルダが誰かと会話する声が聞こえてきた。
「いち……、に……」
カーブを緩やかに曲がりながら、ラウロはカウントダウンを始めた。モレノが息を整えるように深呼吸する。アースも、ぐっと口を噛み締めた。そしてカーブを曲がりきり、水平線の向こうに水色の一軒家が小さく見えた。
「さんっ!」
アース達は、一斉に走り出した。溶けかけた雪で地面がぬかるみ、足取りに合わせて泥が跳ねる。足元が汚れたが、気にする余裕などない。
四人の距離はぐんぐん広がり、最後尾のアースは焦る。体格の差が出たのだ。次第に、背後から殺気が迫ってきた。
「うわっ!」
その時、アースはぬかるみに足を取られ、派手に転倒してしまった。前を行く三人は立ち止まって振り返るが、視線の奥に青い人影を見つけ、同時に恐怖する。
「僕が助ける! ラウロ、モレノ、先に行って!」
ソルーノの呼びかけに、二人は再度駆け出した。彼はアースを抱き上げ、少し遅れて後を追う。
先頭のラウロは植物園のドアに突進すると、急いで開ける。モレノとソルーノも追いつき、なだれるように突入する。ラウロは急いでドアを閉めた。
木製の呼び鈴が激しく鳴り、取っ組み合っていたオズナーとアンヌ、そしてユーリットは仰天して飛び上がった。
「どっ、どうしたんだよ、そんなに慌てて⁉」
オズナーは上擦った声で問うが、四人は息が上がり、なかなか言葉に出せない。その時、ユーリットは息を飲み、切羽詰まったように叫んだ。
「皆、栽培室に隠れて! 早く!」
彼はレジ裏のドアを開け、その場にいたアンヌと一緒に四人を押し入れた。そのまま乱暴にドアを閉められ、アース達は呆然とする。
「お、俺達、まだ何も言ってねぇのに……?」
ラウロの困惑した呟きに、ソルーノは何かに気づいたのか、「あっ」と声を上げた。
「きっとユーリの[第六感]が危ないって教えてくれたのかも。みんな、ばれないように静かにしよう!」
アース達は言葉を飲みこむ。事情が分からず混乱していたアンヌも、一緒になって閉口した。
ユーリットの[潜在能力]は、[感覚増強]。『五感が鋭い』だけでなく、『これから起こることを直前に予感出来る』[第六感]を持っている。以前は自身の危機にのみ発動したそうだが、今はその場にいる人まで範囲は広がったらしい。
彼の[第六感]は外れたことがない。青い『蛇』は間違いなく、獲物を追ってこの店に来るはずだ。
そして息を潜めて間もなく、玄関の呼び鈴が鳴った。
(ログインが必要です)