10章―2
文字数 3,748文字
波の音が静かに騒めく。空全体に薄い雲の膜が張られ、淡い紫、橙、桃色が混ざる、幻想的な夕暮れだった。風は穏やかだが、辺りは身震いするほど冷え切っている。
「まるで、あの時のようだね」
トルマは、水平線の向こうを見つめながら呟いた。ベージュのトレンチコートが風に揺れる。彼の横顔は儚く、美しい。
その横に立つゼクスはいつもの作業服ではなく、使い古されたワイシャツにベスト、チノパンというカジュアルな服装だった。
「レント先生に出会った場所って、ここだったのね?」
「そうだよ。この砂浜で、レント先生に助けられたんだ」
メイラが問いかけると、トルマは振り返って頷いた。ゼクスは海を眺めたまま、何も語らない。彼の腕を取り、トルマは寂しげに口を開いた。
「僕達は手を繋いだまま、ここに倒れていた。自分の過去も名前も思い出せなかったけど、お互いに、相手の名前と生年月日だけは憶えていたんだ」
トルマはフッと微笑み、ゼクスの手に指を絡ませる。
「その時の僕は十四歳、ゼクスは十六歳だったかな。その後はレント先生の助手として、ブロード湖の傍に『家』を建てることになったんだ。先生の家は散らかっていて狭いから、小さな小屋を作って二人で住み始めた。僕達はきっと、記憶を失う前から知り合い……いや、恋人だったんだろうね。最初はよそよそしかったけど、いつの間にか、愛し合うようになった」
ゼクスはトルマの手を、ほどこうとはしない。文句を吐いたり素っ気ない態度を取ったりしても、本当はトルマのことを、心から愛しているのだろう。
「二年ぐらいで『家』が完成して、それからすぐに、最初の生徒がやってきた。僕達はそのまま助手を続けたけど……このうん十年間、記憶が戻ることはなかった」
トルマは哀しげに目を伏せたが、あることを思い出したのか、悪戯っぽく微笑んだ。
「そういえば当時の立ち位置は、ゼクスが上で僕が下だったな。あの時は自然とそうなったけど、ゼクスがあまりにも不器用すぎて交代したんだっけ」
「どっ、どさくさに紛れて何言ってやがんだ!」
ゼクスは真っ赤になってトルマを振り払い、しんみりとした雰囲気が台無しになる。[家族]は一斉に笑い出した。
すると、トルマが急に頭を押さえ、砂浜に膝をついた。
「トルマさん⁉」
ノレインとメイラが二人に駆け寄り、トルマを助け起こす。彼は顔から冷や汗を流しながら、小刻みに震えていた。
「少しだけ、見えた」
トルマは白い顔を上げ、ゼクスに訴えかける。
「夢に出てきた、崖の上……そこに、真っ白な灯台があった。僕達は、その、崖から……」
その瞬間ゼクスも頭を押さえ、呻きながら倒れこんだ。彼は砂浜に跪き、拳を握り締める。
「あぁ、俺も見えた。俺達は……崖から、飛び降りたんだ」
全員が驚愕する。双子は泣きながら飛び出し、彼らに抱きついた。
「このままだと二人とも、耐えられないかもしれない。もう、止めたほうが……」
「いや、大丈夫だよ。何となく察してたんだ。僕達はたぶん、心中を図ったカップルだ、って」
トルマは震える手で双子の腕を差し戻し、無理矢理笑ってみせる。
ゼクスも「へっ」と笑い、服についた砂を手で払う。彼は立ち上がると、海岸の南を向く。水平線の向こうでは、白い光が瞬いていた。
「心が壊れようが構わねえ。今の俺達には、帰るべき居場所があるからな」
トルマは彼の体を支えに立ち上がり、同じ方向を向いた。
「さあ、行こう。きっとあの場所が、夢に出てきたところで間違いないよ」
――
時刻は夜。銀色のキャンピングカーは、前方で光る白い目印を目指し、海岸を南に沿って進んでいた。
薄い雲は流れ、今では月明かりが見え隠れしている。視界を遮る物はなく、海岸と道路のみが、どこまでも続いていた。
そして、目的地に到着する。観光地としても有名な場所なのか、広い駐車場があった。スウィートとピンキーを残して全員が下車する。土産物屋らしき低い建物以外何もなく、冷たい風が頬を刺すように強く吹いていた。
枯れた草地の先に、白い灯台があった。白い石を積み上げるようにして建てられた、古い灯台。その最上階から海に向かって、二秒間隔の光が飛んでゆく。
「間違いない。あの灯台だ」
トルマは灯台に掌を当て、苦しげに呟いた。デラとドリも黙って頷いている。ゼクスはトルマの肩を抱き、崖に向かって数歩進んだ。
アースは、崖から見える風景に目を奪われた。薄い雲の隙間から大きな月が現れ、水平線を煌々と照らしていたのだ。夜の闇に浮かぶ月は、柔らかい光で黒い海を包みこむ。海に映った月光は、ゆらゆらと風に揺れていた。
「夢と、おんなじだ」
「あぁ」
二人は声を震わせる。その瞬間、二人同時に短く叫び、頭を押さえてよろめいた。ノレインとメイラがすかさず彼らを支えたが、二人は呻いたまま苦しんでいる。そのまま草地に座らせ、夫婦は彼らを抱きしめ続けた。
それから五分程経ち、二人はようやく顔を上げた。呼吸はまだ落ち着かない。トルマはゼクスの視線を捉えると、涙を零した。
「……ゼクス」
彼をきつく抱きしめると、トルマは慟哭した。ゼクスは潤んだ目を伏せ、彼の背中に手を回した。
冷え切った風が頬を殴りつける。月の光は、流れてくる分厚い雲にかき消された。
――
温かいハーブティーが入ったマグカップが、テーブルに置かれる。トルマは「ありがとう」と返し、カップを手に取った。
月はすっかり隠れてしまい、全員が車内に戻っていた。暖房により空気は暖かいが、外からは絶えず風の音が響いてくる。
メイラが人数分のハーブティーを配り終えると、ノレインはサンドイッチの大皿をテーブルに置いた。そういえば晩御飯はまだだったな、とアースは思い出す。ノレインは席に着くと、いつもの笑顔で呼びかけた。
「さぁ、とりあえず食事の時間だ!」
トルマとゼクスは容態が落ち着いたようだ。メイラ達と雑談しながら、普通に食事出来ている。彼らの表情からは、不安の色は消えている。アースは二人の様子に、ほっとしていた。
そして食事が終わり、トルマはようやく口を開いた。
「心配かけたね。でも、僕達はもう大丈夫だから、安心して」
「トルマさん、ゼクスさん……記憶は、戻ったのか?」
ノレインの問いに、二人は同時に頷く。
「あぁ。失った分全部、思い出した」
「頭の中をちゃんと整理したいから、ちょっとだけ、昔話につき合ってくれるかな?」
[家族]は顔を見合わせ、頷いた。トルマはハーブティーを一口含み、悲しい笑顔で語り始めた。
「僕の実家は裕福な商家だった。一人息子だった僕は、幼い頃から大事にされてきたみたい。でもね、広い屋敷から一歩も外に出してもらえなくて、同じ年頃の友達もいなかった」
アースは、ナタルが腕を押さえる様子を見てしまった。環境こそ異なるが、トルマもまた、家に囚われた者だったのだ。
「僕の世話担当の使用人さんと話すことが唯一の楽しみだったけど、ほら、僕って見た目は美女でしょ? 知らないうちに好きにさせたみたいで、皆すぐに辞めていったんだ」
「自分で美女とか言うなよ」と、ゼクスは笑う。その彼にぴったり寄り添い、トルマは微笑んだ。
「新しい使用人さんが来ても、すぐ辞められて。それが何回か続いたからお父様が心配して、執事さんが選んだ使用人さんの中から、僕に選ばせた。そこに、ゼクスがいたんだ」
ゼクスは長い溜息をつき、重い口を開く。
「俺の家は貧しくてな。幼い頃にはもう、奉公に出された。俺はひたすらキッチンで皿洗いをしてたんだが、やがて他の仕事もするようになった。記憶を失う前の俺はな、器用な方だったらしい」
その瞬間、[家族]全員が「まさか!」と叫ぶ。ゼクスは赤面しながら反射的に「嘘じゃねえよ!」と返した。
「そこで経験を積んで、十五歳の時に執事直属の使用人になった。それからすぐに、トルマから指名されたって訳だ」
「そう。僕は同年代の人に会えたのが嬉しくて。だからゼクスには、忙しい時以外はほとんど傍にいてもらったんだ」
出会いを語る二人の顔は、とても明るい。きっと彼らの時間は、良い思い出として残っていたのだろう。
「彼は優しくて、頼もしかった。対等な友逹になりたくて、二人きりの時は敬語を使わないようにお願いした。こうして過ごすうちに気づいたんだ。僕はゼクスのことが好きなんだ、ってね」
トルマはゼクスの手を握る。彼も、その手を握り返した。
「トルマに仕える前、執事からは『あのお方の魔性に気をつけろ』と忠告された。最初は分からなかったが、じきに気づいた。俺達使用人は、やろうと思えば誰にも知られることなく、こいつに手を出せたんだ。俺の前任達はきっと、理性が残っているうちに身を引いたんだろう」
整った顔つきだが、どちらかと言えば女性的な彼。『家』で初めて会った時もその振る舞いは上品だったが、記憶を失う前の名残だったのだ。美しい容姿を持つ彼と共にいると、同じ男でさえ惹かれてしまいそうだ。
「トルマに告白されて、俺は、その手を取ってしまった。俺もいつの間にか、こいつを愛していたんだ」
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