7章―2
文字数 4,922文字
「(もうそろそろ着くはず……あった)」
垂直の下り道は途切れ、前方に僅かな明かりが見えた。人一人が通れそうなサイズの金網を全員で取り囲み、恐る恐る下を覗く。
「えっ?」
ナタルは思わず声を出す。檻の中には、誰もいなかったのだ。
『どうしよう! ラウロさん、いないよ⁉』
双子は泣きそうな顔でこちらを見た。ナタルは深呼吸を繰り返すが、動揺は治まらない。
「(ここにいないとしたら、いったいどこに?)」
焦る気持ちを抑え、他の場所を懸命に考える。用心深いフィードが使うとしたら、地下倉庫の最奥のような、普段使用されない場所か。もしくは、一般社員の邪魔にならないような、静かな場所か。
「(……まさか)」
ナタルは突然、条件にうってつけの場所が閃いた。そこにいるとは限らない。しかし、迷っている暇などない。ナタルは小声で、全員に指示を出した。
「この建物の四十九階に急いで行くわよ! あそこだったら他の社員は入れない。ラウロはきっとそこにいるはず!」
――
ペンライトのか細い明かりの先は、どこまでも暗い。通気口をひたすら這い、登り、時には廊下を経由し再び天井裏に潜る。
どのくらいの時間、走り続けただろうか。双子が体力は徐々に消耗し、休憩を小まめに挟みながら進む。
ようやく見慣れた光景が映り、ナタルはほっと息をついた。僅かな明かりの下まで這い、双子を呼び寄せる。
「(ここは、私と母さんの部屋よ)」
ナタルは金網を外し、壁際のベッドへ放り投げた。部屋には誰もいない。ナタルは先に行くよう双子を促し、彼らはベッド目がけて同時に飛び降りた。
金網の傍には、ロープを取りつけられるように頑丈な太い釘を打っている。ロープをぎっちりと固定し、ナタルも飛び降りる。かつて暮らした部屋は、塵ひとつなく整然としていた。
「(やっぱり、逃げる時に綺麗にしててよかった。ここも掃除されてるみたい)」
『それって……』
「(うぅん、フィードじゃない)」
デラが過去を読んだのか、ドリを通してある人物のイメージが頭の中に流れてくる。懐かしさに笑みを零しつつ、ナタルは小さく頷く。
「(その人の部屋は隣なの。出くわさなきゃいいけど……)」
足音を立てずにドアまで近寄り、静かにドアを開けた。細長い廊下が左側に続いている。窓はなく、薄暗い照明が廊下を照らす。それでも通気口の中よりずっと明るい。
ナタルは懐のシャープを解放してペンライトをしまい、フラットを肩に乗せた。
「(ラウロがいる場所はたぶん、フィードの部屋。もうそれしか考えられない!)」
ナタル達は廊下に飛び出した。黒に近い灰色の廊下は、外よりも冷え切っている。床の材質は固く、僅かな足音でも響く。物音を立てないよう、慎重に足を運んだ。
「(部屋は一番奥よ。もう少しだから我慢して……)」
双子の足は、ぷるぷると震えている。長時間走り回った疲れが出ているのだろう。ナタルが彼らを抱えようと屈んだ瞬間、二人の膝が同時に崩れ、床に転倒してしまった。
「(だっ、大丈夫⁉)」
ナタルは悲鳴を上げかけたが慌てて口を押さえ、双子に駆け寄った。怪我はないが、疲労で立ち上がれない様子だ。
その時、背後から何やら物音がした。
「貴方達、ここで何をしているのですか⁉」
血の気がさっと引く。誰かに見つかったのだ。ドリの[潜在能力]は、もう使えない。
振り返ると、すぐ近くの部屋のドアが開いており、薄桃色の長髪を一括りにした人物がいた。一見すると女性だが、彼は男であり、デラがナタルの過去から拾い上げた人物だった。
「チェスカ……!」
ナタルはその人物の名を思わず口走る。彼は自分の声色を聞いた途端、灰色の額縁眼鏡の奥で目を見開いた。
「その声、まさか……!」
ナタルは口に手を当てるが、もう手遅れだ。すぐさま立ち上がり、殴りかかろうとする。しかし、チェスカは応戦することなく、涙ぐみながら微笑んだ。
「お嬢様、生きていらっしゃったのですね……!」
ナタルは面食らい、拳を引っこめる。念のためチェスカの両腕を後ろ手に取るが、彼は抵抗する様子もない。
「ご安心ください、手荒なことは一切致しません。そちらの[家族]の方にも」
「あんたまさか、私達のことを⁉」
「えぇ。ですが、貴方が『お嬢様』だったとは、完全に想定外でした」
ナタルはチェスカの手を離し、彼を壁際まで寄せつけた。
「[家族]のことまで調査済みだなんて、さすが諜報部長ね。だったら当然、ラウロのことも知ってるはずよね?」
チェスカは頷く。ナタルは彼を脅すように、拳を壁に打ちつけた。
「答えなさい。ラウロはどこ⁉」
「この廊下の奥、チーフの部屋です」
ナタルは息を飲む。『チーフ』とは元諜報班長、フィードのことだ。自分から過去を読み取った双子は、一拍遅れて身じろいだ。
「お嬢様、お願いがあります。ラウロさんと、……チーフを、お救いください」
ナタルは「えっ?」と声に出す。チェスカは、灰白色の瞳を哀しげに伏せた。
「ラウロさんが[家族]の皆さんから愛と希望を授かったのと同じように、チーフも、徐々に気づきつつあります。私は今後、貴方を追う立場になるでしょう。ですが、ラウロさんはここにいるべきではありません。チーフを救うためには、皆さんのお力が必要なのです!」
彼の瞳に、自分の困惑した緑色が映る。チェスカは優しく微笑み、ナタルの両腕を愛おしげに握りしめた。
「どの方法で辿り着いたのかは存じ上げませんが、どうか無事にお戻りください。チーフの部屋の合鍵を……」
「その必要はないわ」
ナタルは満足げに微笑み、チェスカの鳩尾に拳を叩きこんだ。彼が気絶したのを見届け、ナタルは拳を握りしめた。
「ドアくらい、簡単に吹っ飛ばせるんだから!」
双子の体力は回復したようだ。再び体勢を整え、一斉に廊下を走り出した。
廊下の最奥に突き当たり、金属製のドアが目に入る。ナタルは腕を振りかぶり、渾身の右ストレートを叩きこんだ。重いドアは軽々と吹っ飛んだが、何かに当たって跳ね返り、その場に崩れ落ちた。
ナタル達は訝しげに入室すると、部屋の様子に愕然とした。そこは部屋ではなく、鉄格子に囲まれた『檻』だった。ナタルは暗い地下倉庫を思い出し、鳥肌が立つのを感じた。
天井付近の窓から微かな月光が差し、『檻』の中央を照らす。そこにはパイプ製のベッドがあり、青い『蛇』、フィードがいた。彼の髪型はオールバックのはずだが、今は髪が乱れている。
彼の背の奥から薄茶色の長い髪がちらりと覗き、ナタルは口を噛みしめる。部屋のドアが破壊されてもなお、彼らはこちらに気づかなかった。
ナタルは『檻』の扉を繋ぐ南京錠を握り潰した。乱暴に扉を開けてようやく、フィードはゆらりと振り返る。
「……誰だ」
殺気を帯びた細い目が、ナタル達を捉えた。フィードはベッドから下りる。細く引きしまった体は、月の光を受けて青白い。ナタルは怯み、一歩後退した。
「えっ? ナタル、なのか?」
ラウロは掠れた声を震わせる。ナタルは彼の痛ましい姿を目の当たりにし、息を飲んだ。緩いポニーテールは解かれ、腰までの長さの髪は青い光に濡れている。両足は自由だったが、両手首は鎖に繋がれていた。
「ラウロ!」
ナタルは飛び出そうとするが、フィードに阻まれた。その青い瞳は、明らかに動揺していた。
「貴方は……まさか、ナターシャお嬢様……⁉」
「その名前で呼ばないで‼」
『本名』を呼ばれ、ナタルは怒りに任せて殴りかかる。しかし、突き出した拳はフィードに受け止められた。
「ご両親から頂いたお名前、お気に召さないようですね」
「黙りなさい。私はナターシャじゃない。あの男がつけた名前なんて、とっくに捨てたわ!」
フィードは憐れむように目を伏せ、ナタルを鋭く睨んだ。
「貴方が失踪されてから、ずっと探しておりました。奥様は、シーラ様はご一緒ではないのですか⁉」
最愛の母の名を耳にした瞬間、憎悪が湧き上がる。右手に力をこめ、フィードの手を払い除けた。
「ふざけないで‼ 母さんは、あんた達のせいで……!」
フィードは怒り狂うナタルを「ふん」と見下ろし、冷ややかな表情に戻る。
「あのサーカスにいた小僧が、まさかお嬢様だったとは。これで納得しました。この男を逃がしたのも、お嬢様ですね」
「そうよ、私達はラウロを助けに来たの!」
ナタルはラウロに目を向ける。だが、彼は泣きそうな顔で後退り、首を横に振った。
「止めろ、俺なんかに構うな!」
「えっ?」
「俺は、ここを出るつもりはない! 頼むから……頼むから、今すぐ帰ってくれ‼」
ナタルは双子と顔を見合わせ、混乱する。捕らわれることを恐れていた彼は何故、『檻』から出ることを拒むのだろうか。フィードはゆっくりとラウロを振り返り、口角を上げてにじり寄った。
「[家族]と共にいるより、俺と快楽を共有する方がいい。そういうことだな?」
フィードはラウロの首に腕を回して引き寄せ、唇にかぶりついた。滑らかな素肌に絡みつく様は、まるで、蛇が獲物を締め上げるかのようだ。信じ難い光景に立ち尽くすナタルの目から、光が消える。
長い時間口づけを交わしていた二人は、ようやく顔を離す。ラウロの顔に感情はない。鎖に繋がれた両腕が、だらんと垂れる。
「俺は汚れている。[家族]と一緒にいる資格なんて、もうねぇんだよ」
ラウロは独り言のように自らを嘲笑う。その両目から、一筋の涙が零れ落ちた。
「だったら、なんで泣いているの」
ナタルは気づいてしまった。ラウロの心はまだ、『蛇』に呑まれてはいない。彼は必死に『本心』を隠し、[家族]を逃がそうとしているのだ。
「[家族]と一緒にいる資格? そんなもの必要ないし気にすることもないわ。あんたがどんな人間でも、私達にとっては大切な[家族]なの!」
ラウロの瞳が、大きく揺れ動く。
「それに[家族]のみんなも、あんたの過去を知った上で助けたいって言ってるんだからね? とっくの昔に覚悟はできてる。だから、こうして会いに来たんじゃない?」
一筋の涙は、次第に大粒になり止まらなくなる。泣き崩れる彼を真っ直ぐ見据え、ナタルは挑発するかのようにフッと笑った。
「改めて聞くわ、ラウロ。本当はどうしたいの?」
一瞬の間を置き、鎖が軋み出す。ラウロは、繋がれた両手でベッドを叩きつけた。
「俺は、もっと、……もっと[家族]と一緒にいたい‼」
悲痛な叫びが『檻』に響き渡る。フィードの細い目が、怒りで大きく見開かれた。
ナタルと従者は同時に飛び出した。フィードの手がラウロを掴む前にがっちり組み合い、ベッドから転がり落ちる。そのまま殴りかかったが素早く抜け出され、互いに一歩引いて体勢を整える。
「この男は誰にも渡さない。たとえ、お嬢様であっても!」
フィードはナタルを睨み、低い姿勢のまま突進する。ナタルも同じスピードで駆け、拳を突き出した。
攻撃のほとんどは受け止められるが、ナタルは圧倒的な手数でフィードを押しこんでゆく。[オリヂナル]の初舞台で経験した立ち回りよりも早く。流れるような動きを意識しつつ、一発一発の攻撃に[潜在能力]の効果を乗せる。
ナタルの[潜在能力]は『一時的に筋力を上げられる』こと。この衝撃が上乗せされ、フィードは徐々に体力を削り取られていた。
すると、一瞬隙が空いた。ナタルは短く息を吸い、フィードの腹目がけて拳を叩きこんだ。フィードは前のめりに倒れる。ぴくりとも動かない。どうやら、気絶してしまったようだ。
「私はもう迷わない。たとえ、あんたを敵に回しても」
ナタルはフィードを見下ろし、静かに呟いた。
『檻』は静まり返る。呆然と眺めていたラウロに寄り、ナタルは彼の手首を拘束する鎖を引きちぎった。人型フラットはラウロを背負う。疲れ果てていた双子も、ばっちり回復したようだ。
「みんな、急いでここから出るわよ!」
ナタルを先頭に走り出す。気絶した青い『蛇』を残したまま、『檻』を後にした。
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