第7話 夏の夜のそれ

文字数 1,119文字

 接吻(キス)を、したことがある。
 歯と歯がぶつかって、心臓が止まるほどびっくりして、眼前いっぱいに見えていた相手の眼が、星空みたいに綺麗だと思って、はなれていく感触が名残惜しくて胸がぎゅっと痛んだから、紛れもなくそれだったと思う。
 夏の夜だった。中等学校の寮で、暑かったから窓を開けて眠っていた。すうっと夜風が抜けて、ふと目が覚めた。どうして目が覚めてしまったのか、わからない。ただその夜風の感触を覚えている。
 魔が差したのかもしれないけれど、僕は起き上がり、夜間に出てはいけない筈の寮の庭に出た。頭上には冗談みたいな星空が広がっていた。どこまでも静かなのに、僕はその空を見上げた瞬間、なにかもの凄い、人智を超えた壮大な音楽が、鼓膜を圧するような気がした。それを耳にした瞬間、ただうすくあいた口から肺の中の息を吐いて、地面にすとんと腰を下ろすしかなかった。
 うしろの足音には、気が付かなかった。
「へえ。わるいことしてんな。圭」
「千里」
 君こそ、とか、起こしちゃった?、とかは、言わなかった。言う気がしなかった。僕の隣に座り込む。すげー、空。と、千里は言った。
 月がないから、はっきりと、星だけが見える。
「何、泣いとんだ」
 えー、嘘。泣いてるかな、僕。
「貴様。恥ずかしくねえんかよ」
 君と僕、恥ずかしいとか、今さらじゃないか。
 ぜんぶが、言えなかった。言う気がしなかった。
 時々こういうことがある。身体が僕の所有を離れる。夜中にふと理由もなく目が覚めて、理由もなく涙が出る。僕はそれを単に、「それ」と呼んでいた。それがくると、僕はそれに連れ去られそうになる。身体も頭も、自分の思う通りに動かせない。ある意味では金縛りに似ているかもしれない。
 千里が近い。とても近い。影になった顔はそれでもこんなに近いとしっかり見えて、すごくまじめな顔をしていたのを記憶している。彼はあごをひいて、じっと僕の眼を、ほとんど睨みつけるみたいに見つめていたから、そのうちひたいがくっついた。腕がすっとのびて、肩がしっかりと掴まれた。もう一方の手が頬を包んだ。
「俺はここにいる。圭も」
 千里はまだ、僕を見ている。
「だから。はなすなよ」
 頬に触れたゆびは、夏なのにひんやりとしていた。はなさないよ。掠れ声で、言い切らないうちに、唇が触れ合った。
 かつてない重苦しさで、激しく心臓が鳴った。見つかったらどうしよう、と思った。千里は無言で僕の手を引いて、部屋に連れ帰った。ふたりはもとどおりに横になって、朝になるまで眠った。
 それからは何事もいつも通りで、僕は時々、あれは夢だったんじゃないかと思う。そうでなければ、僕たちはふたりとも、夏の夜の「それ」に呑まれてしまったんだ。
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