第4話 ひとり、参る、朝

文字数 840文字

 胸の上にずっしりと重い腕を載せて、僕はなかなか寝つけない。千里の寝息をあまり近くで感じるせいかもしれない。ともかく眠っている人間は重い。
 はあ。君って。自由かよ。
 僕を抱き枕にして、すやすや眠っている。本当に。ため息が出る。
 千里は前世なんて言ったけれど、その実僕らは中等、高等学校と、同じ下宿の同じ部屋で寝起きしていた。机を並べて学び、布団を並べて眠っていた訳だけれど、たまに、目が覚めると千里の寝顔がびっくりするくらい近いことがあった。窓から朝日がさして、長い睫毛がこがね色に透けている。すうすう息をたてている千里は、ほんとうに天使なんてものがいるのだと、幼い僕に思わせた。
 だから僕らが離れていたのはここ一年半くらいだ。一年半で、天地がひっくり返るくらい、いろいろなことがあった。
 千里は高等学校卒業の年、腸チフスで両親を立て続けに亡くした。
 そして半年前、第二の父と慕っていた叔父が、両親の遺産を横領していたことがわかった。千里は帰るべき家をなくし、親類の誰とも会わず、ひとりで下宿暮らしをしている。
 なんでもないような顔をしているけれど、千里の心の深奥はどのようだろう。
 ときどき、夜中にどうしても眠れない時、胸の奥底が詰まるような、妙な息苦しい気分になることがある。そういうとき、本人さえ気が付かないような、心の奥底のひだに隠されたものが、出てきたがって苦しいのだと想像する。それは腹の中から臓物がまろび出てくるのに似て、普段自分の身体を支配している自己が思いもよらないような、何だかかたちの判然としない血生臭いものが、見つかりそうになって心が騒ぐ。物狂おしいと兼好法師は言ったけれど、それってそういうことだろうと思う。物狂おしい僕は、ひとりで丸くなって、恐怖みたいな感情に耐える。一度そうなってしまうと、もう容易に寝付けそうにない。
 そういう夜中は、目が覚めて千里の身体が覆い被さっているのを発見した朝に似ている。似ているけれど、朝のほうがずいぶん、くすぐったい。
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