第3話 幼い頃の呼び名

文字数 682文字

 蚊帳はひとつしかない。
「狭い。どけ。だいたい貴様が無駄にでけーんだよウドの大木が」
 俺の口は勝手に悪態をつく。蚊帳がひとつでも、布団はふたつあるから、そんなに窮屈でもない。
「うん。そりゃ、ごめん」
 目の前の男はなぜか嬉しそうに目を細める。暗いけれど、声音でわかる。
「なに笑ってんだよ」と問えば、
「いや、千ちゃんいつもの調子、出てきたよね。お腹いっぱいになったからかな」
とか、抜かしてくる。非常に苛々する。
「けー」
 アルファベットのKの発音で、圭の名前を呼ぶ。
「なに、千ちゃん」
 少し眠そうに、返事が返ってくる。
「なんか懐かしいね。僕たちよく一緒に寝てたよね」
「そりゃいつの話だよ。前世か?」
「うん、前世、前世」
 もうあまり考える気はなさそうだ。俺だって眠いし今なにも考えていない。
 ぐいと身体を伸ばし、掛け布団を捲って、圭の布団に転がっていく。圭の匂いがする。腕をまわし、あたたかい、もうひとつの身体の存在を確かめる。
「えー、どうしたの千里」
 圭はみじろいだ。
「うるせえ。動くなクソ」
「はいはい」
 控えめな笑みの滲んだ、やわらかい少し高い声が布団の向こうで鳴っている。
「明日」
「うん」
「雨、やんでたら、出る。夜中でも出る」
「えー…」
 やや不満そうな声を漏らして、布団の下の身体が窓のほうにもぞもぞと寝返る。
「当分やみそうにないね」
 すうっと、雨音に溶けていきそうな声だった。
 薄い夏布団の下の圭の身体が、覚えているよりずっと薄くて骨ばっていたから、俺は腕と脚まで絡めて縮こまる。
「寒いの?」
 とか。言ってくる。脳みそ腐ってんのかよ。
 あちーわ。クソ。大馬鹿野郎。
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