第5話 虹はきらいなの

文字数 929文字

 俺の両親の遺産を叔父が分取っていたと発覚したあと、俺は何もかも信じられなくなった。父はよく正直で実直であることをもって叔父を褒めていた。父が死んでからは、叔父は俺を息子同然に扱ってくれた。何の疑いも持たぬ俺は、学校の長期休みに田舎の家へ帰るのを楽しみにしていた。もはや両親が迎えてくれることはなくとも、そこが帰るべき場所だった。だから。善人が金のために悪人に転じることを知って、この世にたしかなものなんか何もないと、思った。二度と田舎の家には戻るまいと誓った。
 さいわい、叔父が横領していたとはいえ、俺の自由になる金はたっぷりあったので、家を買おうと思った。が、一から家を拵えると、手入れやら家に置く下女やら、なにかと面倒だったから、人に尋ねて、静かな下宿を借りた。そこは軍人の未亡人とその娘がふたりで住んでいる家だった。
 娘は静といった。色の白い娘だった。甚だまずい華を、こまめに俺の部屋の(とこ)に飾った。たいへん簡単な琴をしばしば弾き、ひそひそ話のように唄った。そういう娘だった。
 時折俺の部屋の前へ来て、屹度「お勉強?」と尋ねた。俺は障子を開けて彼女を入れる。また別の時は俺のほうが、「お勉強ですか」と彼女の部屋の前に立った。黒目がちな艶々と濡れた大きな瞳をよく動かして話した。そういうときは、母親に呼ばれても生返事だけで、容易に腰をあげないこともあった。
 あるとき俺は学校から帰って、玄関の前に静を見つけた。散る花のようなこまかい雨が降っていた。それでいて空は明るかった。静はじっと空を見つめていた。きまじめな細い鼻筋が雨の中に差し出されていた。
「今御帰りですか」
 俺は声を掛けた。静は小鳥が首をかしげるように俺を見た。
「虹だわ」
 見上げればなるほど虹が出ている。くっきりとした二重(ふたえ)の虹だった。
「綺麗ですね」
 言えば彼女は首を縮めた。あんなに熱心に見詰めていたのに、今はもう二度と目に入れたくないとでも言うように、俯く。
「虹はきらいなの」
「何故」
 咄嗟に俺は反問した。彼女は嫌々という様子で再び空を見た。美しい虹だ。
「何故でも。なにかばけものみたいで、怖いわ」
「…俺は、好きですよ」
 なんだか虹を庇いたくなって、そう言った。
 静を愛していると、思った。
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