第12話 蜃気楼症候群

文字数 817文字

 僕たちは無闇に歩いた。房総半島を東京湾の側から太平洋側へと、ぐるりと南海岸沿いにまわっていくかたちだ。海ならずっと右手に見えていたけれど、僕は全然飽きなかった。千里のほうは多少うんざりしていそうだったから、嫌なら東京へ帰ってもいいと申し出ると、彼はじっとりした眼で僕を一瞥して、「だれが帰るかボケ」掠れた低い声でぼそりと返して、また歩きだした。少し嬉しくなった。
 僕らは歩いて歩いて、あんまり暑くなったらそこらの海にざぶざぶと入って、汗のかわりに海の塩をくっつけて、また歩いた。途中から何をやっているのかわからなくなってきた。そんなことをやっていると、だんだん自分の身体に別の人の魂が乗り移ったような奇妙な感覚になってくる。無論病気とは違う。けれど、とても変なんだ。
 僕らは始終無言だった。暗くなれば宿を探した。どんよりした眼を見かわして、行く手の宿屋をあごで指す。頷く。この辺が観光地でよかったな。うん。風呂は。ご飯のあとでいい?ん。無言のやりとりが通じる仲だったから、気兼ねなく言葉を省いた。
 風呂に入ると、日焼けした肌がこれでもかと痛んだ。千里はとくに色が白いから真っ赤になった首とか腕が痛々しくて、思わず手を伸ばしてそっと撫でた。鋭い眼が見返してくる。表情は読めなかった。
「痛そうだね」
 言葉に窮してそう言う。
「痛いっつったら治してくれるんかよ」
「ふふ。ううん、治せない」
 何が面白かったのか自分でもわからないけれど、僕は笑った。千里も吹き出した。とっておきに輝いて見えた。
 部屋に戻って、敷いてある布団にふたり、もつれるように倒れ込んだ。指のさきで千里の顔に掛かる髪をはらうと、やっぱり鋭い眼が見返していた。
 中等学校の寮の、真夜中の庭で、同じように僕を見つめていた眼を、思い出した。
「やっぱりあれ、夢だったかな」
 ぼそりと呟くと、何のことか分かっているのかいないのか、
「夢だよ」
 耳に溶かし込むようにして、千里は言った。
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