第6話 信仰に似ている

文字数 778文字

 叔父の裏切り以来、何もかも信じられなくなった俺が、ただ一筋に静を信じているというのは、奇妙な話だった。しかし俺の中ではその矛盾は平気で併存していた。ちょうど下宿の奥さんが、つまり静の母親が、俺を娘に近づけようとしながら、しかし一方で近づけまいとするように。本当のところはどうか知らないが、少なくとも俺は奥さんの態度を総合してそう観察していた。ある時は俺と静をうまく引き合わせようとした。それでいて決してふたりきりに留守を任せたりはしなかった。はじめのうちは奥さんのこの態度が不審であったが、そのうちそれも当然だろうと思い出して、何とも思わなくなった。
 俺は静の笑い方が好きだった。目尻がくしゃりと崩れて、片頬にえくぼがうっすらと浮く。彼女のゆびさきも好きだった。細く優雅で、それでいて迷いがない。胸がきゅっと締め付けられるような、それでいて笑い出したくなるような痛みを感じた。けれど、自分の手で触れたいとは思わなかった。俺の想いは、肉欲とは最も遠い極にあった。彼女は富士に似ていた。昔の人が富士を拝んだように、俺の静への恋情は信仰に近かった。
 奥さんに、お嬢さんをくれろと談判をすることを、俺は一度ならず考えた。けれども決まって踏みとどまった。というのは、俺はまんまとこの未亡人の策略に嵌っているのではないかと、疑念がよぎったからだ。俺にはそれなりの資産があった。娘を片付けるには、損はあるまいと思われた。
 俺がここまで慎重になるのも、叔父の例があったからだった。叔父は両親の遺産を正当に自分のものとする為に、俺に叔父の娘との結婚をしきりに薦めていた。俺は無論断った。従姉妹は泣いた。俺に結婚を断られたのが悲しいのではない、ひとりの女として、男に撥ね付けられたので自尊心が傷ついたのだ。
 ひとりでごちゃごちゃと考えた俺は、まだやめておこうと結論を出した。
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