第4話

文字数 3,018文字

結婚の手続きと就職承諾について

 娘を持つ多くの親がそうであるように、彼女の両親も私たちの交際に大反対だった。
 まして、まだ大学生だった息子を失った親ならなおさらだ。

 何の取り柄もなく、就職について主体的な活動もせず、できれば好きなだけ本を読んで暮らしたい、というようなことを考えている男に、大切な娘を託そうという親がいるわけはない。私が親だったとしても同じ思いだ。そもそも彼女が私といつも一緒に居てくれることでさえ、信じがたい僥倖(ぎょうこう)だった。

 社会の、既存の枠組みにずっと居心地の悪さを感じていたのに、まさにその象徴とも言える制度である「結婚」を急いだのは、私の中では矛盾しない。
 結婚前に、万が一、彼女が自力では連絡も取れないような大けがや病を得た時、その事実を、私はどうやって知ることができるだろう。
 交際に反対している彼女の両親から連絡ももらえず、何が起きているのか分からないまま、永遠の別れを迎える・・・。
 私は母によって、彼女は兄によってずっと死を意識して生活してきたため、そんなことが起こるはずはないと一笑に付すことは決してできなかった。

 結婚。・・・まず就職しなくては。

 「本の雑誌社」からは卒業後に働かないかというありがたいお誘いをいただいていた。全く思いがけない幸運だったので、二つ返事で引き受けたいところだったが、ひとつ気になることがあった。身分が「準社員」ということなのだ。「準」・・・。

 大学卒業後、働き始めたらもうすぐにでも彼女と結婚しようと思っていた私にとって、どんな仕事につくか、いくら給料を貰えるかよりもずっと重要なのが、堅そうな職業、身分についていることだった。要するに彼女の両親に認めてもらうことしか考えていなかったのだ。1990年代初頭、まだまだ現在ほど非正規社員の割合は多くなく、「準社員」ではなんとも心許なかった。

 「本の雑誌」社に態度を保留させて貰っていると、ある夜、電話がかかってきた。先輩である「準社員さん」からだった。
 その準社員さんは、具体的な仕事内容や、給与、社内の人間関係などを説明してくれた。要は勧誘ということなのだが、その準社員さんの家の電話の調子が悪いのか酷い雑音が混じり、それらの簡単な内容を聞き取るだけでも大変だった。
 耳寄りな情報としては、数年で正社員になれる可能性が大きいということ、そうでなくても、マスコミ関係のコネができるから、その方面に進む足掛かりとなるはずだということだった。(その準社員さんが「東スポ」に就職することになり、後釜として私の採用話が持ち上がったらしい。)

 魅力的だった。高校生の頃から夢見ていた椎名誠の雑誌社。一字一句最初から最後まで毎号欠かさず読んでいた「本の雑誌」をつくっている会社に入れるのだ。
 しかし、承諾するわけにはいかなかった。


   ・・・


 椎名誠著「哀愁の町に霧が降るのだ」に「女たちの夏」という章がある。若かりし椎名誠が金属製品を扱う会社でアルバイトをしていた時の話で、注文先倉庫へジュラルミン棒や真鍮板を納品する時に出会った、受付女性への恋が綴られている。
 椎名青年は何度目かの納品時に、その女性に手紙を渡すのだが、次に訪れた時に別の女性事務員から彼女が聾唖者(ろうあしゃ)であることを伝えられる。だから余計な手出しはするなと言わんばかりに追い払われるが、重い真鍮板を納品しながら椎名青年は「いいではないかオレはいいぞ。なんだというのだ。それがなんだというのだ」と何度もつぶやく。

 「哀愁の町に霧が降るのだ」の中で唯一不満だったのがこの話だ。この聾唖(ろうあ)の女性との後日談が語られていないのだ。あるいは後日談がないのか。いいではないかオレはいいぞ、と言いながらやはり諦めてしまったのか。それとも書けないほど辛い何かが起こったのか。後の展開は読者に任せる形式を意識したのか。

 貫いてくれと思った。

 私は貫く。迷いはない。「正社員」となって、水原恵(めぐみ)と暮らすのだ。準社員で「本の雑誌社」に入るわけにはいかない。・・・と潔く言いたいが、あの時、あの先輩準社員さんの電話機が故障しておらず、雑音などないままスムーズに説明を受けていたら、その場で承諾してしまっていたかも知れない。大切な話なのに雑音だらけで何度も話が行ったり来たりになり、どうにもストレスがかかって、返事を保留させてもらったのだ。
 私にとって、より大切なのはどちらか。「本の雑誌社」就職か水原恵(めぐみ)との結婚か。もう迷いはなかった。かりそめサラリーマン

 とはいえ、採用を行う企業にとって、とにかく正社員になりたいだけの何の能力も持たない私のような学生はさぞ迷惑だろうというのは分かっていた。
 
 しかしこちらにも都合がある。さて、何の仕事に就こう。どの会社を受けよう。

 結局私は大学病院の職員になっていた。あれほど社会の中に組み込まれたくないと思っていた私でも、サラリーマンになれたのだ。

 正社員ならなんでもいいと思っていたが、やはり全く興味がない会社を受験できるはずがなかった。万が一何かの間違いで入社できたとして、例えば当時人気のあった自動車産業に就職できたとしても、運転免許も持っていない自分が、好きでもない車のことを説明できるようになるわけがない。そんな人間から車を購入するお客さんがいるわけがない。

 そんなふうに、消去法で様々な職業について、自分自身に問いかけていった結果、病院で働くことにたどり着いた。病気の母を持つ身としては、医師になって患者さんたちを救うというのが王道なのかもしれないが、就職活動時期もすっかり終盤を迎えた頃になって、慌てて「正社員」を目指しはじめた私大文学部の学生にとって今から医学部入学というのは現実的ではない。
 直接患者さんたちの病気やケガは治せなくても、間接的に役に立つことができるなら、事務職員として病院で働くということは、十分にやりがいを感じられるはずだ。
 方向性が決まるとすぐに採用が内定した。これも何かの縁なのか、アルバイトで通い詰めた「本の雑誌社」が入る雑居ビルのすぐ近くに本部を置く大学病院だった。

 働き始めたらなるべくはやく水原恵(めぐみ)と結婚し、サラリーマンを辞めてしまおう。その先のことはまた考えればいい。(よこしま)な気持ちで勤め始めたのだが、その大学病院に二十年間勤務することになる。

 意外にも会社・社会は居心地が良かった。世の中の仕事はウィンドウズ95の発売を契機に一気にパソコン化、電子化され、今までのやり方に精通していたベテラン職員にも負けずに若者が活躍できた。
 配属された人事部でも、給与計算や採用活動がどんどん電子化され、パソコンの扱いや労働法規の知識を吸収していけば、特に躓くこともなく社会人生活をこなしてゆくことができた。

 実用的な仕事、知識になんてまったく興味もなく勉強もしてこなかったが、読書好きが幸いしたのか、ある程度の読解力があれば法律上の条文も、表計算ソフトの計算式や簡単なコーディングも理解できる。
 常に辞めるタイミングを考えていたが、一方で、休日の余った時間をすべて勉強時間にあて、人事・労務に専門性を発揮できる「社会保険労務士」の国家資格も得た。このまま働き続けるのも悪くないと思いはじめていた。

 人の世を欺いているような、かりそめのサラリーマン生活も二年が経ち、最大の目的である水原恵(めぐみ)との結婚を果たした歓喜のあと、鉄槌が下る。
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