第10話

文字数 987文字

 本当に、真剣に、心の底から、社会に居場所を見つけるのは無理だと思っていた。
 高度経済成長の終焉期、父親世代が繰り広げる猛烈労働社会は恐ろしく、とても私のように繊細で脆弱な人間が入り込める余地などないと思っていた。
 睡眠時間もそこそこに、私が目覚める前には家を出て、正気とは思えないほど混雑した電車に揺られて職場に向かう。クールビズという言葉もなく、背広にネクタイ姿でオフィス街に飛び込み営業をかけ、夜の街で英気を養い終電で帰宅する父の毎日。
 それができないとオトナになれないと思っていた。
 亀が甲羅に首を引っ込めるように、アルマジロが体を丸めて身を守るように、私も身をすくめて生きていた。一生、何事にも正面からぶつかることなく過ごしていければと、失敗を恐れて生きていた。
 
 その変化の、一番のきっかけは何だったのだろう。
 やはり椎名誠さんの本を手に取ったことだろうか。
 過酷な環境をものともせず、世界中を冒険する椎名さんに憧れているくせに、その頃の私は色々と理由をつけて近所の低山にさえ足を踏み入れないほどの臆病者だったが、椎名さんが編集長を務める「本の雑誌」をきっかけに妻となる女性と出会い、社会人となる決意を固め、先天性の病の子を持ったことから「食」に関心を持つようになり、農業大学校へ通い、その実習先の先輩農家、牧田さんに私淑(ししゅく)し、就農にいたる。ひとつひとつ切り離して見ればランダムウォーク。だが、丹念に繋がりを追って行けばすべて縁。

 客観的に見れば、脱サラ就農なんて珍しくもない。どこにでもある話。
 でも、振り返ってみれば、思いがけない運命と意志によって、どんな人も、私も、そう、あなたも、ありふれた、かけがえのない日々を過ごしてきたのだと気づくだろう。
 
 就農して九年目を迎えた私にはこれから何が待っているだろう。農作業で随分屋外活動にも慣れてきたし、五十歳を過ぎてようやくオトナの図々しさも少し身についてきた。
 今の私なら、草原を馬で駆けることも、砂漠のキャラバン隊に加わることもできるかも知れない。椎名誠さんに憧れた、高校生の頃の私に「気がつけば、砂漠へ『さまよえる湖』を探しに行くことになった」と言う日が来るかもしれない。

 ここまでお読みいただいた方へ、ありがとう。本当に、ありがとう。
             
                      完
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