第2話
文字数 2,677文字
椎名誠を探して
大学卒業も間近になると、将来について、職業について考えざるを得なくなる。本当はもっとはやくから考えるべきなのだろうが、どうにも気乗りせず、棚上げし、先送りし、蓋を閉じて見ないふりをしていたら、周囲の同級生たちはあっという間に就職先を決め始めていた。
1991年。大学三年生だった。就職の年となる二年後の1993年から就職氷河期がはじまるが、無邪気にも、そんなことにはまるで関心がなかった。
そうか、やはりどこかの「会社」に入り「社会人」になるしかないのか。
昨今は小学生の頃から「学び」を職業教育、職業選択に結び付けて考えさせ、そういった体験をさせる授業や施設が流行りとなっている。
思いっきり就職活動に乗り遅れた者として言うのも気が引けるが、どんな職業につけばどれくらいの収入になるのか。そのためには何を習っておくべきなのか、いつから準備すべきなのかを目敏く学ぶよりも、興味のあるもの、気になることについて、損得勘定なしに没頭できるのが学生時代の特権ではないだろうか。
私の場合は、それが「本」だった。
ひとりで、自分のスピードで、自分の好きな分野について無限の世界を見せてくれるのが本の世界だ。
・・・
私が小学校六年生の時、母が病を得た。
脳腫瘍。大変な手術が必要。死も覚悟しろ。父から聞かされた。
母が入退院を繰り返すことになったため、私は家にあった母の蔵書・・・蔵書という程の数ではなかったが、松本清張、森村誠一、西村京太郎、赤川次郎など当時流行していた作品を気ままに読みふけっていた。そこでは小中学生にはまだ少し早いかと思われるようなオトナたちの欲望、葛藤、愛憎が繰り広げられていた。
私は今まで接したことのない、広大無辺な読書世界の縁 に立った。
本の世界は不思議なもので、読めば読むほど、どんどんとその領域が広がってゆく。気に入った作家の別の作品、気に入ったジャンルの別の作家、自分の成長につれて変化してゆく興味、おのおのが掛け合わされてゆき、読みたい本は増える一方で、行き止まりは決して現れない。古今東西の本は溢れ、さらにそれ以上のスピードで新刊も発売されてゆく。絶対に追いつくことはなく、絶対に飽きることのない営みだ。
高校生の時、椎名誠を読み始めた。
小遣いで新刊本をまともに購入するとあっという間に資金不足になってしまうので、近所の古書店によく出入りしていたのだが、どうしても気になる一冊があった。「岳物語」にも「椎名誠」という文字にも全く予備知識がなく、はじめはどうしてその一冊だけが光って見えるのか分からなかったが、自分はいつかきっとこの本を読むだろうということだけが、なぜかはっきりと分かった。けれども頭の中の「読みたい本リスト」にはまだまだ他のタイトルがズラリと並んでいたため、すぐには購入しなかった。
幸い何度訪れても、それは誰にも購入されず、いつもの場所に安置されており、私に買われるまではずっとここにいると落ち着き払っているように見えた。
ある夏の夕刻、今が時、と告げるように寿命間近と思われる店の天井の蛍光灯がちかちかと明滅した。ついに私は椎名誠を読み始める。初めてその古書店で出会ってから、半年後のことだった。
「岳物語」。この一冊から一気に椎名誠にのめりこんでゆくことになった。
椎名誠のプロフィールには必ず『「本の雑誌」編集長』とあった。関東のベッドタウンに住んでいた私が行く範囲の本屋では「本の雑誌」というものを見かけたことがなかったが、大学生になって自分の活動範囲がやや都会よりになると、大きな書店でようやく「本の雑誌」に巡り会うことができた。書評雑誌だった。もちろんすぐに読者となり、さらに本に対する興味を深めたが、書評よりも私の気を惹いたのは「助っ人募集」広告の欄だった。
「本の雑誌社」のアルバイト・・・椎名誠に会えるかも知れない。
仲間で山に登り、草原を馬で駆け、灼熱の砂漠、珊瑚の海、風の岬を憑かれたように移動し続ける姿を本で読み、絶対に真似できないという絶望を持ちながら、私は椎名誠に憧れていた。
どちらかと言えば孤独がちで視力も弱く、毎年花粉症の時期には冬眠していたいと布団に潜って怠惰に過ごす私が、砂嵐や酷暑、極寒に負けず旅などできるわけないのは分かっていた。対極の存在。だからこそ、憧れは募った。
体の中からせり上がってくる拍動を抑えきれず、私は急かされるようにアルバイトに応募し、採用された。新宿の雑居ビルに入っていた「本の雑誌社」はそれほど広くもなく、こんなスペースと少人数のスタッフでよくもあんなに活字だらけの立派な雑誌が作れるものだと感心した。与えられた仕事内容は本好きの私にとって興味深いものばかりだった。
元の原稿と印刷用の原稿が合っているかどうかを確かめる「校正」。
原稿内に記載されている引用が正確かどうか、原典にあたる「引用確認」。
注文の入った雑誌、書籍を書店に持ってゆく「配本」。
最終的な校正をプロの校正者に届ける「お遣い」。
その他掃除などの「雑用」などなど。なかでも原典にあたる「引用確認」は貴重な経験だった。原稿中に、書籍や雑誌記事の引用があると、それがそっくりそのまま本当かどうかを確認するのだ。
書籍の場合は「国会図書館」へ、雑誌の場合は「大宅壮一文庫」へ行くことがほとんどだった。どちらの施設も蔵書を自由に閲覧できない「閉架式」図書館であるため、その手続きに慣れ、図書館員さんに複写依頼などをしていると本当の「業界人」になったような気分だった。
・・・
本好きの自分にとってぴったりなアルバイト生活を楽しんでいるうちに、当初の「椎名誠に会う」という目的をすっかり忘れてしまっていたのだが、その機会は突然やってくる。
下北沢のプロ校正者に原稿を届けてからの戻り、雑居ビルの「本の雑誌社」のドアを開けようとした瞬間、中から大きな男がフワッと出てきて、軽快に階段を降りて行った。じっと見つめる時間はなかったが、間違いなく椎名誠だった。初めて見るのになぜか確信した。その無造作な髪形、フィールドコートのポケットに片手を入れて駆け下りてゆく姿は間違いない。椎名誠だ。あまりに一瞬のことだったので、はじめは実感が湧かなかったが、その日のアルバイトが終わって帰宅するために小田急線に乗ると、ふつふつと胸が熱くなってきた。やっと会えたのだ。実際には会ったというよりすれ違っただけなのだが、いいじゃないか。
椎名誠に会ったのだ。
大学卒業も間近になると、将来について、職業について考えざるを得なくなる。本当はもっとはやくから考えるべきなのだろうが、どうにも気乗りせず、棚上げし、先送りし、蓋を閉じて見ないふりをしていたら、周囲の同級生たちはあっという間に就職先を決め始めていた。
1991年。大学三年生だった。就職の年となる二年後の1993年から就職氷河期がはじまるが、無邪気にも、そんなことにはまるで関心がなかった。
そうか、やはりどこかの「会社」に入り「社会人」になるしかないのか。
昨今は小学生の頃から「学び」を職業教育、職業選択に結び付けて考えさせ、そういった体験をさせる授業や施設が流行りとなっている。
思いっきり就職活動に乗り遅れた者として言うのも気が引けるが、どんな職業につけばどれくらいの収入になるのか。そのためには何を習っておくべきなのか、いつから準備すべきなのかを目敏く学ぶよりも、興味のあるもの、気になることについて、損得勘定なしに没頭できるのが学生時代の特権ではないだろうか。
私の場合は、それが「本」だった。
ひとりで、自分のスピードで、自分の好きな分野について無限の世界を見せてくれるのが本の世界だ。
・・・
私が小学校六年生の時、母が病を得た。
脳腫瘍。大変な手術が必要。死も覚悟しろ。父から聞かされた。
母が入退院を繰り返すことになったため、私は家にあった母の蔵書・・・蔵書という程の数ではなかったが、松本清張、森村誠一、西村京太郎、赤川次郎など当時流行していた作品を気ままに読みふけっていた。そこでは小中学生にはまだ少し早いかと思われるようなオトナたちの欲望、葛藤、愛憎が繰り広げられていた。
私は今まで接したことのない、広大無辺な読書世界の
本の世界は不思議なもので、読めば読むほど、どんどんとその領域が広がってゆく。気に入った作家の別の作品、気に入ったジャンルの別の作家、自分の成長につれて変化してゆく興味、おのおのが掛け合わされてゆき、読みたい本は増える一方で、行き止まりは決して現れない。古今東西の本は溢れ、さらにそれ以上のスピードで新刊も発売されてゆく。絶対に追いつくことはなく、絶対に飽きることのない営みだ。
高校生の時、椎名誠を読み始めた。
小遣いで新刊本をまともに購入するとあっという間に資金不足になってしまうので、近所の古書店によく出入りしていたのだが、どうしても気になる一冊があった。「岳物語」にも「椎名誠」という文字にも全く予備知識がなく、はじめはどうしてその一冊だけが光って見えるのか分からなかったが、自分はいつかきっとこの本を読むだろうということだけが、なぜかはっきりと分かった。けれども頭の中の「読みたい本リスト」にはまだまだ他のタイトルがズラリと並んでいたため、すぐには購入しなかった。
幸い何度訪れても、それは誰にも購入されず、いつもの場所に安置されており、私に買われるまではずっとここにいると落ち着き払っているように見えた。
ある夏の夕刻、今が時、と告げるように寿命間近と思われる店の天井の蛍光灯がちかちかと明滅した。ついに私は椎名誠を読み始める。初めてその古書店で出会ってから、半年後のことだった。
「岳物語」。この一冊から一気に椎名誠にのめりこんでゆくことになった。
椎名誠のプロフィールには必ず『「本の雑誌」編集長』とあった。関東のベッドタウンに住んでいた私が行く範囲の本屋では「本の雑誌」というものを見かけたことがなかったが、大学生になって自分の活動範囲がやや都会よりになると、大きな書店でようやく「本の雑誌」に巡り会うことができた。書評雑誌だった。もちろんすぐに読者となり、さらに本に対する興味を深めたが、書評よりも私の気を惹いたのは「助っ人募集」広告の欄だった。
「本の雑誌社」のアルバイト・・・椎名誠に会えるかも知れない。
仲間で山に登り、草原を馬で駆け、灼熱の砂漠、珊瑚の海、風の岬を憑かれたように移動し続ける姿を本で読み、絶対に真似できないという絶望を持ちながら、私は椎名誠に憧れていた。
どちらかと言えば孤独がちで視力も弱く、毎年花粉症の時期には冬眠していたいと布団に潜って怠惰に過ごす私が、砂嵐や酷暑、極寒に負けず旅などできるわけないのは分かっていた。対極の存在。だからこそ、憧れは募った。
体の中からせり上がってくる拍動を抑えきれず、私は急かされるようにアルバイトに応募し、採用された。新宿の雑居ビルに入っていた「本の雑誌社」はそれほど広くもなく、こんなスペースと少人数のスタッフでよくもあんなに活字だらけの立派な雑誌が作れるものだと感心した。与えられた仕事内容は本好きの私にとって興味深いものばかりだった。
元の原稿と印刷用の原稿が合っているかどうかを確かめる「校正」。
原稿内に記載されている引用が正確かどうか、原典にあたる「引用確認」。
注文の入った雑誌、書籍を書店に持ってゆく「配本」。
最終的な校正をプロの校正者に届ける「お遣い」。
その他掃除などの「雑用」などなど。なかでも原典にあたる「引用確認」は貴重な経験だった。原稿中に、書籍や雑誌記事の引用があると、それがそっくりそのまま本当かどうかを確認するのだ。
書籍の場合は「国会図書館」へ、雑誌の場合は「大宅壮一文庫」へ行くことがほとんどだった。どちらの施設も蔵書を自由に閲覧できない「閉架式」図書館であるため、その手続きに慣れ、図書館員さんに複写依頼などをしていると本当の「業界人」になったような気分だった。
・・・
本好きの自分にとってぴったりなアルバイト生活を楽しんでいるうちに、当初の「椎名誠に会う」という目的をすっかり忘れてしまっていたのだが、その機会は突然やってくる。
下北沢のプロ校正者に原稿を届けてからの戻り、雑居ビルの「本の雑誌社」のドアを開けようとした瞬間、中から大きな男がフワッと出てきて、軽快に階段を降りて行った。じっと見つめる時間はなかったが、間違いなく椎名誠だった。初めて見るのになぜか確信した。その無造作な髪形、フィールドコートのポケットに片手を入れて駆け下りてゆく姿は間違いない。椎名誠だ。あまりに一瞬のことだったので、はじめは実感が湧かなかったが、その日のアルバイトが終わって帰宅するために小田急線に乗ると、ふつふつと胸が熱くなってきた。やっと会えたのだ。実際には会ったというよりすれ違っただけなのだが、いいじゃないか。
椎名誠に会ったのだ。