第6話

文字数 8,689文字

通りすぎるのを待っていても嵐はやまない
 
 小学生の頃、少年野球のチームに入っていたが、これが嫌でたまらなかった。三年生で加入してすぐに思ったのは、早く中学生になってこの活動から逃れたいということだった。
野球というスポーツ自体は決して嫌いではなかった。キャッチボールだけでも、いや、ひとりで壁に向かって球を投げて、跳ね返りを捕球するだけでも楽しかったし、バッティングはもっと気持ちよく、大好きだった。
 何が嫌だったのか。一番嫌だったのは、変な「声出し」というのか「野次り」というのか。今の少年野球ではきっと誰もそんなことはしていないと思うのだが、当時は攻撃時にベンチから「ピッチャーびびっている、ヘイヘイヘイ」とおかしな(ふし)の歌を、相手チームに向かってかますのだ。もちろん、こちらが守備の時には相手チームが同じことをする。最もスポーツパーソンシップに反する行為だと思うのだが、どのチームも当たり前のように行っており、この声出しをせずにしんとしていると、オトナの監督、コーチが「ほら、声出せ!」とドラ声でこどもたちを威嚇するのだ。まったく信じられなかった。
 そもそもどうして少年野球などに加入してしまったのかといえば、父親の、強制ではないが、なんとなく誘導に乗せられてしまったというか、何か習い事しろよ、という雰囲気に飲まれてしまったためだった。
 そんなに嫌ならすぐにでも辞めればよかったのだが、それもやはり父親の、なんとはなしのプレッシャー、男が一度始めたら最後までやり遂げろよという雰囲気に逆らえなかったのだ。

 小学校卒業でようやく少年野球チームと離れられたのも束の間、今度は中学校の部活動というものが待っていた。時は1980年代前半。校内暴力全盛の時代である。とにかく一人残らずなんらかの部活動に加入すること、というのが私の通う中学校の決まりだった。何しろばかな中学生どもに自由な時間を与えてはならんということだったのかも知れない。
 野球から離れたい一心で、今度はサッカーをすることにした。体を動かすこと自体は好きだったのだ。
 しかしこれもすぐに嫌になった。サッカーの技術など、全然教えてくれない。まず、髪を切らされた。その次に延々と走らされた。ボールなんて蹴る機会はなかなか訪れない。一年生の夏休み近くになってようやくボールを使った練習になり、少し頭角をあらわすと、すぐに先輩たちの嫌がらせがはじまる。
 またもや、この三年間を、どう無事に終わらせるか、どうやり過ごすかばかり考えることになってしまった。

 中学校のサッカー部生活も何とか終えて、高校入学。足を使った反動で、今度はハンドボール部に入った。
 さすがに中学生の時のような幼稚な嫌がらせをする先輩もおらず、ようやく自分の身体能力を鍛え、仲間とスポーツを楽しめると思っていたのに、はじめての夏休みが近づくと、大学生になったOBが練習にやってきた。なんて暇な人たちなんだろう。せっかく汗まみれの部活動から解放され、きっと自由でバラ色の大学生活を送ることもできるだろうに、自分の出身校にきて後輩の前でえばりくさっている。そんなにハンドボールが好きなら、大学の部活動でやればいいのに。
 しかもこのOBたちはとことんつまらない「罰」を考え出すのが得意で、例えば誰かが少しでも気の抜けたプレーをしたりすると、全員集めて延々と「うさぎ跳び」をさせるのだ。
 ここでもかと思った。またもや首をすくめ、嵐が通り過ぎるのを待つような時間を過ごさなければならないのだ。辞めてもいいが、自分の方が負けたように思われるのは悔しかった。彼らも毎日来るわけではない。なんとかやり過ごそう。


   ・・・


 間接的にでもいいから、母のように病を抱える人々の役に立ちたい、という思いで始めた大学病院勤めだが、いつの間にかまたもや「やり過ごしの人生」を送っている自分に気づいてしまった。
 生活が安定し、息子の体も旅行にさえ行けるまでになった。中古だがマンションも購入した。この生活を手放す理由があるだろうか。


   ・・・


 法定雇用率というものがある。障害者雇用率制度において、事業主は、定められた雇用率の人数、障害者を雇わなければ納付金を払わなければならないというものだ。
 私の勤務先でもこの雇用率を満たすために、障害者を採用しており、その採用活動も私の所属する人事部の仕事だった。
 ハローワークの紹介で採用した高山さんは聴覚障害者だった。

 さて、どの課で働いてもらおうかと具体的な話になると、各課の課長たちは揃って、そんな厄介はごめんだという態度をあからさまにした。

 結局採用した責任上、人事部で働いてもらうことになった。私を含め課員はすぐに簡単な手話を覚え、筆談を交えながらコミュニケーションをとっていたが、課長だけは、「大きな声で、ゆっくり話せば、口の動きで伝わる」と言って、頑なに手話を使わなかった。パソコンに向かって給与計算をしている静かな職場で、一人だけ芝居がかった大声を出して高山さんに指示を出している課長の存在は異様だった。

 ダメだと思った。首をすくめている以上、嵐がやむことはないのだ。過ぎ去っても次の嵐が来るだけ。もうこれ以上「やり過ごしの人生」を送って、自分の寿命を浪費している場合じゃない。

 よく聞き取れず理解に苦しんでいる高山さんに向かって、間抜けに大口を開けてしゃべっている課長に我慢できず、私はつかつかと課長席に迫り、「まずは、「おはよう」くらいの手話を覚えては?」と手話で伝えた。

 二十年。もう辞め時だと思った。それなりに、自分の力は発揮できたと思うが、あくまでも「それなりに」だった。頭の片隅で、常に降ろし方ばかり考えながら凧揚げをしていた。
 降ろし方など考えずに、糸を繋げるだけ繋いで、どこまでも高く遠くに凧を飛ばしたらどんなにいい気分だろう。
 降ろし方?日が暮れてしまったら、泣きながらひとりで後悔すればそれで済む話だ。
 



     高卒ルーキーと学ぶアラフォー男

 体を動かす仕事にしよう。サラリーマンを辞めて最初に思ったのはその事だった。ずっとパソコンに向かって座っていた。目も、肩も、腰も、いつも痛かった。夕方には毎日頭痛がした。定年までこれが続くのかと思うとぞっとした。今度は体を動かそう。心地よい疲労で(うち)に帰ろう。きっと、ごはんももっとおいしく食べられるだろう。
 
 何となく気になっていた農業、「新規就農」という道を本気で考えてみよう。できるのか。四十歳過ぎて。未経験で。花粉症持ちのドライアイが屋外作業を。 

 今から十年ほど前の2010年代前半に、なんのコネもなく、もちろん実家や親戚が農家というわけでもなく、知り合いにプロの農家がいるわけでもない、東京近郊ベッドタウン住まいの脱サラ人間が、農業を生業(なりわい)とするには道が限られていた。

 まず土地、畑だ。貸してもらえるような畑がどこにどれくらいあるのかが分からない。こういう場合は市区町村の農業委員会事務局に訊くべきだということの調べはすぐについたが、何の農業経験もない脱サラ人間が突然農地を貸してくれと言っても門前払いになりそうなことも同時に判明する。

 調べれば調べるほど農地の貸し借りは閉鎖的で、農家でなければ農地は借りられず、農家と認められるためには、ある程度の農地を耕作していなければならない、という不思議なルールも分かってくる。通常、農家と無縁の者が趣味としてではなく、本格的に農家になりたいと思ったら資格が求められるのだ。意外だった。農業を始めるのに資格がいるとは。
 農家でない者が農家になるには行政に「新規就農者」と認められなくてはならないのだ。その新規就農者になるには、一定以上の規模で農業を行っている農家で二年間研修を行うか、全国ほぼ全ての道府県に設置されている「農業大学校」で一年間の課程を修了しなければならないらしい。サラリーマン生活に二十年もの時を費やしてしまった私にとって、最短でその資格を得るには、農業大学校への入学を選択するのが最善と思えた。それにしても大学校(三文字傍点)って。三波伸介さんの凸凹(でこぼこ)大学校じゃあるまいし。
 さらに詳しく調べてみると、意外な程自宅から近い場所、車で三十分程のところに、私の住む自治体の農業大学校があった。学費や、入試倍率など必要と思われる情報を集めることなく、すぐに受験の申し込みをした。
 まさかと思っていた方向に道が開けた思いで、鼻息荒く行動に出てしまったのだ。けれど、それでいいぞと自分で自分をけしかけていた。
 
 少し落ち着いて調べてみると、入学金、授業料、教材費など一年間で二十五万円ほどかかり、肝心の入学試験倍率は今一つ正確な情報が得られなかったが、例年二倍前後らしい。試験内容は論文と面接。
 勢いで一気に受験を決めたため、不合格となる可能性など一切頭をよぎることなく試験当日を迎えたのだが、面接の時になって急にその不安が襲ってきた。
 サラリーマン時代は職員を採用する側として何百人もの面接をしてきたのに、いざ、受験する側として面接を受けるとなると、こんなにも緊張するとは。
 とにかくおいしいものを栽培して、一人でも多くの人に健康で楽しい生活を送って貰いたい、そんな思いだけを、額の汗とともに噴き出すように語った。


   ・・・


 新鮮な気持ちだった。四十歳を過ぎて学生になるとは、まったく想像していなかった。しかも入学してから気づいたのだが、私のように社会人から転じて農業を学ぼうという同級生だけではなく、高校を卒業したばかりの血気溢れる若者たちも一緒に実習を行うのだ。

 あらためて学校案内を見てみると、この農業大学校には一年制の技術専修科と二年制の生産技術科の二つの科があり、それぞれが、社会人向け、高校卒業者向けとなっているのだ。
 さらにその二つの科は、野菜専攻、果樹専攻、花卉(かき)専攻に分かれている。
 私は技術専修科の野菜専攻学生となり、授業、実習を受けることになった。
 いわゆる座学は社会人向け技術専修科と、若者中心の生産技術科が別々になっているが、実習は一緒に行う。

 何しろ若者は元気だ。ノリが違う。実家が農家で、後継ぎになるために来ている者もいれば、農協等への就職を目的に来ている者もいる。
 社会人の方も二十代から六十代までおり、こちらも実家を継ぐための者もいれば、私のように新規就農を志す者、軽い気持ちで農業の世界をのぞいてみたかったというような者まで様々で、どうにもまとまりのない集団だった。

 思惑と違ったのは学ぶ側の構成だけではなかった。

 農業大学校は公共の、つまり道府県の施設であり、そこで教えられる農業は、多くの農家が一般的に行っているいわゆる「慣行農法」だけだった。

 息子の病気から「食」に関心を持ちはじめた私にとって、自分が野菜を作るうえで最も大事にしたいのは無農薬で野菜を育てること。いわゆる「有機農法」だ。

 「慣行農法」は農薬を使う。「有機農法」は使わない。「慣行農法」は化学肥料を使う。「有機農法」は使わない。

 今でこそ、SDGsという概念が普及し、国も、有機農業の推進に関する法律に基づき、「有機農業の推進に関する基本的な方針」を定めたが、十年前、2010年代前半ではまだそこまでには至っていなかった。
 行政側の一施設である農業大学校。教師陣は「ここでは有機農法は教えない。」と実にきっぱりと宣言していたので、私もすぐに頭を切り替えることにした。
 国、行政の体制は整っていなくても、有機農法を実践して良好な結果を出している人たちはたくさんいた。
 「現代農業」「やさい畑」「野菜だより」など農業系の雑誌にも有機農法はごく当たり前に取り上げられていた。有機栽培は自分で勉強しよう。

 これから農業を学んでみたいという人に、農業大学校は役に立つのかと問われると、答えるのが難しい。私を例にとっていえば、有機農法にまつわる教育が皆無の授業内容は役に立たなかったと言えるかもしれないが、(くわ)の使い方に始まって、トラクターの運転、管理機と呼ばれる耕耘(こううん)機械の使い方、草刈機(刈払機(かりばらいき))の注意点、肥料計算の仕方、農業簿記を含めた会計知識、その他諸々の教育は実際に役に立っている。
 要は一般の大学生と同じく、何を教えて貰うかよりも、自分がそこから何を学ぶのかが重要になる。

 年齢、目的様々に入り交じり、混沌とした久しぶりの「学生生活」をあわただしく送っていると、あっという間に「先進農家派遣研修」の夏がやってきた。



     くしゃみが止まらない黄金のトマトハウス 

「先進農家派遣研修」では三週間、実際の農家さんの所で実習を行う。基本的に実習先は自分で見つけなければならないというのが意外だったが、農業大学校は大前提として、農家の後継者や農業に強い関心を持っている人が通ってくる学校であり、ほとんどの学生は実家や縁のある農家の手伝いをすればいいという訳で、そういうやり方になっているらしい。
 私のような脱サラ組は、教師陣にどんなことを学びたいのか希望を伝え、その希望に沿うような農家を紹介してもらい、あとは各々交渉して承諾を得るという流れになっていた。

 ただ、この東京近郊ベッドタウン地域で、本格的に農業を営んでいる農家の数は限られていた。
 教えて貰った数少ない農家さんの中に、牧田さんというトマト農家さんがいた。牧田さんも実家が農家ではない、いわゆる「新規就農者」で私と同じ年齢だった。それだけで親近感が湧いたが、加えて牧田さんは慣行農法よりずっと有機農法に近い栽培を実践しているという。「有機農法に近い」というのは、完全に農薬を使用しないわけではないが、慣行農法よりずっとその使用量が少なく、使う肥料もなるべく有機質のものを選んでいるということだった。

 実際に牧田さんに実習をお願いする前に、妻と牧田さんの農園を見学に行ってみた。

 自宅から車で約一時間という同じ市内に、こんなに素晴らしい場所があるなんて全く知らなかった。隣県との境に近いその山間の十棟のビニルハウスは、秘密工場のようにひっそりと、しかしその輝きを隠し切れず、誇らしげに建っていた。ホームページによれば、牧田さんの出身地も同じ県で、ぜひ県内でトマトを栽培したいと思い、できるだけ標高の高いこの地を選んのだという。標高が高ければ、昼夜の温度差が大きく、おいしい野菜が作れるというわけだ。ぜひ実習をお願いしようと決めた。

 牧田さんは基本的に「来る者は拒まず」の姿勢を貫いているようで、私が実習依頼の電話をすると、特にこちらの事情を詳しく訊くことなく、即座に承諾してくれた。


   ・・・
 
 
 実習初日早朝、事前に打ち合わせていたとおり、トマトの収穫をすることになっているビニルハウスの扉を開けたとたん、私は夢の世界に引き込まれた。

 視界の全てが黄金で溢れていた。早朝とはいえ確かな存在感をまとった夏の陽光がビニルハウスに射し込み、トマトの実、葉、茎、全体を覆うアクと呼ばれる不思議な黄色い粉を、後光となって照らし出しているのだ。
 太陽の黄金と、その光に照らされた黄色いアクが二重に輝きあい、まともに目を開けていられないくらいの照度を得て、トマトの精気あふれるあの匂いとともに私を襲った。経験したことのない異空間に飲み込まれた。
 こんなにも美しい場所で、私はこれからひとつひとつその実をもいでゆくのだ。そしてそれらは誰かによって運ばれ、買われ、食べられてその人の体の一部となる。これが自分の職業にできたら、どんなに素敵な気分だろう。
 他のビニルハウスでの作業を切り上げた牧田さんがやってきて、私の後ろに立っていた。人種が違うのではないかというほど、真っ黒に日焼けしていた。痩身だが力強さが(みなぎ)っていた。
 私はあまりの光景に挨拶も忘れ、「すごくないですか、この光」と言うと牧田さんは「そう?」と気に留める様子もなく、作業の説明をはじめた。
 目の前の光景がおとぎ話の異世界ではなく、現実なのだと認識したとたん、トマトのアクに反応したのか、私はくしゃみを連発し、涙と鼻水が止まらなくなっていた。この日から実習が終わるまでの三週間、私は常にティッシュボックスを携帯して作業をすることになる。


   ・・・


実習中に牧田さんが教えてくれたのは、トマトの収穫や脇芽とりなど具体的な栽培管理の他に、もっと根本的な、生命体としての植物や人間、地球についての仕組みだった。
 例えば、誰しも小学生の時に「水」の循環について習った記憶があるだろう。
 空から降ってきた雨は山や大地から川へ流れ込み、海へたどり着いたのちに、熱せられて水蒸気となり空へ上ってまた雨となる、循環。
 農業を営むうえで、この水と同じように、炭素や窒素も循環している事を意識するのが重要だというのだ。
 炭素、窒素は、ともに畑の土にとって欠かせない要素だ。
 炭素は二酸化炭素のカタチで植物が光合成を行う際に大気中から取り込まれ、植物、生物体の呼吸の際には大気中に排出される。
 窒素はマメ科の植物や土壌中のバクテリアにより大気から取り込まれる。取り込んだ植物を動物が食べたり、土壌中の窒素を他のバクテリアが大気中に放出する。
 教えられてから見渡せば、今まで住んでいた世界が全く違う様相を呈してくる。
 廃棄する植物の残渣や雑草、枯れ枝などをかき集めてきて燃やしてしまうのと、細断して畑の土に戻すのとでは、それらを組成する物質の行き先が全く異なり、その違いが地球環境を大きく左右する。
 この問題は何も畑での営みに限ったものではない。
 日頃、私たちが購入しているもの、消費しているもの、廃棄しているもの、廃棄する方法、その全てに係わってくる。
 農業は単なる職業ではなく、生活であり、生き方そのものなのだ。
 私はどうにも止まらない鼻水のために、鼻の両穴に詰め込んだティッシュが風に揺れるのを感じながら真剣にメモを取っていた。

 三週間の実習で牧田さんの凄さをあらためて思い知った。いいトマトを作りたいという熱情、作業の速さ、夏の暑さの中でも休みなく働き続ける体力。なにより体は細いのに、人間の器が大きかった。

 牧田さんはビニルハウスのトマトだけでなく、露地栽培・・・つまり何かしらの施設内ではなく、屋外の土の畑で普通に栽培する野菜も育てていた。この夏の時期、トマトの収穫作業に次いでやらなければならないのはそういった露地栽培をしている畑の除草作業だった。雑草は日々、恐ろしい勢いでその成長を続けてゆく。
 
 炎天下、一緒になって地面に這いつくばって雑草を抜いていると、牧田さんは気づかぬうちにさっと姿を消し、次の瞬間には、懐かしい氷菓(アイス)を手にして、「休憩しよ」と笑顔で現れるのだ。もちろんすぐ近くにコンビニなどない。あっという間に軽トラで数分かけて昔ながらの、この辺にはもう一軒しか残っていない「商店」で調達してきてくれたのだ。なんという早業。
 二人で段々になった高台の畑の端に腰かけ、下方に連なる山々を眺めながら食べる氷菓(アイス)は言うまでもなく、おいしかった。近隣の田んぼの上を駆け昇ってくる風は、まだ青い稲のさわやかな香りを含んでいた。町ではあまり見かけないトンボも数多く飛んでいた。

 実習も終わり間近になると、牧田さんは、私がどのように就農したらいいかについても相談に乗ってくれた。


 まず、畑。このまま農業大学校に通い、春に無事卒業できれば、「新規就農者」となり、資格としては土地を借りられることになるが、それと同時に誰かが畑を用意してくれるわけではなく、具体的に貸してもらえそうな畑の情報を今から集めておく必要がある。
 また、どんな野菜を育てるにせよトラクターや耕耘(こううん)するための管理機、除草するためのハンマーナイフモアなどの、ある程度値の張る機械が必要となる。
 加えて、収穫した野菜を袋詰めしたり、必要な資材を置いておく作業場、できれば住める家も早目に探し始めた方がいい。
 その全てに牧田さんは手をまわしてくれた。
 畑は、牧田さんのトマトビニルハウスのある場所からもう少し標高の下がったところ、車で十数分ほど、私の自宅方面に戻った所にある「緑ケ原」という中山間地に、現在牧田さんが借りているが、手一杯であまり使い切れていない畑があるので、地主さんの承諾を得て、私に貸してくれるという。
 また、機械類は最初から全部ひとりで揃えると相当な金額になるため、共同で使えるものは折半して一緒に購入しようと提案してくれた。
 あとは作業場とする家だが、これがなかなか難しいらしい。世間では空き家問題が取り沙汰されて久しく、この地域でも同様に空き家が増えているが、空いていてもなかなか貸してくれるところは見つからないという。知らない人に貸すと、いざという時に返してもらえないのではないかと心配する人や、普段は空き家にしているが、お盆と正月だけは親戚が戻って集まる場所に使っている人が多い。
 家問題については、農業大学校を卒業して、「新規就農者」の認定を受けるまでまだ半年以上あるので、引き続き牧田さんが知り合いに声をかけて、探しておくと言ってくれた。
 
 そんな、どこまでも親切で寛大な牧田さんにすっかり心酔した私は、この実習終了後も、農業大学校の授業のない休日に引き続き黄金のトマトハウスに通わせてもらえるようお願いして三週間の実習を終えた。
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