第9話

文字数 8,505文字

実践野菜作りその四 トマト 「甘い」野菜は好きですか

 この畑のある緑ケ原は、私の自宅よりも二百五十メートルほど標高が高い中山間地であるが、夏の昼間が暑いことにはなんの変りもない。
 暑さを避けるために、夜明け少し前から収穫作業に入るが、一般的な「朝」の時間を迎える頃にはもう十分暑い。海水浴場の砂浜が、素足ではいられないほど熱くなるのと同様、畑も全面、熱の大地だ。 しかもこちらには涼をとるためのビーチがない。木陰だって限られている。なにしろ全体によく日が当たるように作られているのが畑なのだ。
 猛暑が続くと、ほとんど汗で流れ出てしまうためか、尿意を催す回数がぐっと減るが、本当に体が熱せられると尿そのものまで高温になっているらしく、排尿時に尿道口、つまり尿の出口が尿の熱さで痛いのだ。「(あつ)っ」「痛っ」と言いながら排尿することになる。

 暑さで朦朧としていると、信じられないミスを犯す。

 雑草を刈るには、長い柄の先に、刃の付いた円盤状のものを回転させて草を刈り取る刈払機(かりばらいき)を使用するのが一般的だが、農家は、より短時間に大量に、細かく草を粉砕できるハンマーナイフモアという機械を使うことが多い。
 押して歩きながら使用する耕耘機(こううんき)のような形状で、違うのは耕耘する部分がボックスのような形になっていて、そこに雑草を抱え込み粉砕する仕組みになっていることだ。粉砕するところには軸に多数の回転刃が付いていて、ぐるぐる回って細断できるようになっている。

 夏は毎日どこかしらの除草をしていないと、あっという間に飲み込まれてしまう程雑草の成長が早い。
 その日も猛暑日だった。ハンマーナイフモアで作業していると、就農当初に大分駆除したはずだがまだしぶとく残っていた葛の根が、粉砕しきれずに回転軸に巻き付いてしまった。ハンマーナイフモアはこういう蔓状のものが苦手だ。
 巻き付いた葛の根を取り除こうと回転軸近くに手を入れた時、暑さで朦朧としていた頭は、その痛みを感じるスピードさえ鈍くさせていた。
 もちろんエンジンは止めていた。エンジンが止まってから、回転軸はしばらく惰性により動き続けることも知っていた。視覚としては、まだ止まりきっていないのも認識していた。
 それでも意に反して体が勝手にのろのろと動き、私は憎き葛の根をむしり取ろうと手を突っ込んでしまったのだ。バチンという音がしてはじめて、それが自分の手に回転している刃が当たったのだと気づいた。しばらくして痛みを感じたが、痛みの大きさを上手く把握できなかった。もう指が落ちてしまったのか、骨がどうにかなってしまったのか、それとも全く無事なのか。
 痛みの程度が分からず、こわごわ自分の手を見つめる。
 見たとたん急に痛みが走る。強い痺れに顔をしかめるが、出血はない。指は失っていないようだ。
 軍手をはめていたこと、刃の回転も大分遅くなっていたことが幸いして骨にも影響はなく、しばらくすると痺れがまだあったが指はちゃんと動いた。放心と安堵で、からからに乾いた咽喉が上下した。この場で最も素早く摂れる水分として、畑に立てた支柱に縛られ、手品のように次々とその実を毎日誕生させているトマトが目についた。

 ちょっとした起伏に姿勢を崩しながらも、その真っ赤な果実に近づく。もいで、ふいて、かじる。・・・味がうすい。

 牧田さんがビニルハウスでつくる、とがったお尻の形が特徴的なルネッサンスという品種のトマトは格別においしい。単にトマトのうま味を感じるだけでなく、酸味が絶妙なのだ。生でもおいしいが、加熱すると一層そのバランスが効いてくる。

 それに比べると、露地で、降った雨の分だけどんどん水分を吸って膨れ、夏の暑さを味方にあっという間に成長しつづけている私のトマトは味がうすかった。そして、それ故に体に染みた。
 
 ぼろぼろで、からからの今の私の体に、これ以上の甘露があるだろうか。今、味の濃いものは欲しくなった。水分。体が必要としている栄養素でできている水分。真夏に温められ、雨に味をうすめられたトマト。こんなにおいしいものはなかった。顎からしたたり落ちるのも気にせず、むさぼること自体を楽しみながら、私はトマトの偉大さをずぶずぶと飲み込んでいった。





     起業としての農業、その経営

 天候不順などが原因で、ある野菜の大生産地が不作となると、需要と供給の関係から価格が上がる。新聞、テレビニュースはすぐに野菜が高い、野菜が値上がりと繰り返す。
 
 逆に天候に恵まれ、良品が多数できると信じられないくらい安い値段しかつかない。これがいわゆる豊作貧乏というやつだ。
 
 栽培する側からみると、普段が安すぎるのではないかと思うが、生産者である私は、同時に消費者でもあるから、毎日、毎食食べたい野菜は、購入しやすい値段であって欲しいとも思う。本当に悩ましい問題だ。

 いったい農家はどれくらいの所得を得ることができるのだろうか。

 一袋百円の野菜を売った時に、手元にいくら入るのか。

 スーパーの「地元生産者コーナー」の多くは委託販売方式をとっていて、売上金額から委託販売手数料を引いた金額が、農家に支払われる。手数料率は二十パーセント前後のところが多い。百円を売り上げると、二十パーセント引かれて八十円が農家に支払われる。もちろんこれが全て農家の所得、というわけではなく、栽培するのにかかった費用をここから引いて考えなくてはならない。
 種代、肥料代、トラクターなど機械類の減価償却費、運搬も含めた車、機械類のガソリン等燃料代、野菜を入れる袋やそれをとめるテープなどの消耗品費、栽培時に使用するマルチ、防虫トンネル、支柱などの資材費、水道代、電気代、一番重要な人件費。
 作られる品目、地域、季節、販売方法などで違いは出てくるだろうが、多く見積もっても手元に残るのは売上金額に対して五割、少ないと三割近くになってしまう。
 おまけに労働時間はどうしても長くなりがちだ。
 なかなか効率化できない。
 例えばコマツナにしても、播種に絶好のタイミングだからといって一度に大量の種を播いてしまうという訳にはいかない。取りきれないほどの、売り切れないほどの量が一斉に収穫時期を迎えても意味がないのだ。
 一日に収穫できる量、販売できる量には上限がある。
 
 繁閑の差も、なかなか克服できない。厳寒期には比較的時間があるが、春の準備もやれることには限りがある。朝は霜が凍っていて作業できない畑。日中は霜が溶けてぬかるみとなり、やはり作業できないのだ。「しかるべき時」を待つしかない。
 
 同様にマンパワーについても平準化するのが難しい。ズッキーニやトマトがどんどん収穫期を迎えて猫の手も借りたいと思ったのも束の間、ちょっと雨が続くととたんに収量が落ちる。それに合わせて都合よく人を雇ったり、お休みしてもらうというわけにはいかない。

 天を相手とする仕事なのだ。「職業」というよりは「生活」である農業。

 就農して九年目となる現在も、経済的に十分安定しているとは言い難いし、この先も特段明るい見通しが立っているわけでもない。所得もサラリーマン時代に比ぶべくもないし、毎日の食事にも困らず、こうして暮らしていられるのが不思議なくらいだ。

 一方で、辞められない魅力に満ちているのは確かだ。栽培の計画を立て、それに合わせて注文した種や苗を手にすると、毎回新鮮な興奮を覚える。
 今年は昨年よりうまく作ろう。お客さんが、調理するのを楽しみに購入し、食べてみてやっぱり間違いなかった、おいしかったと言ってくれる姿を想像すれば、炎天下でも厳寒期でもきつい作業に耐えられる。いつも、ぴしっと芽が出揃ったところを想像する。おいしい野菜が、収穫してくれと言っているように並んでいるところを想像する。




     どうしたらニンジンをおいしく食べられますか

 就農二年目には、小学校の給食で地元の野菜を使いたい、という話が舞い込んできた。市の農政課を通じてそう要望してきてくれたのは、私の出身校だった。
 小学校の頃、給食が楽しみで仕方なかった。給食室から早くも漂うおいしい香りで、昼までとても待ちきれないと思いながら授業を受けていた。
 その給食の食材に、自分の栽培した野菜が使われるのだ。栄養士の先生と会うために、数十年ぶりに母校を訪れると、今まで記憶のどこに眠っていたのだろういうような思い出が、溢れるように蘇ってきた。校庭、体育館、教室、渡り廊下、職員室、給食室。
 栄養士の先生によると、食育の重要性が見直され、給食の食材もなるべく地元産を使おうという機運が高まっているが、何しろベッドタウンであるこの地域近隣では、食材を提供してくれる農家さんがなかなか見つからないのだという。
 そこで探すエリアを少し広げ、同じ市内でも農地に恵まれた緑ケ原地域に目を付けたところ、新規就農した私にたどりついたらしい。偶然にも卒業生。

 まずは、冬のニンジンから納入することになった。

 納入時に、受け取りに出てきてくれる調理師さんたちの対応がうれしかった。香りが違う。瑞々しさが違う。甘さが違う。色々な言葉で褒めてくれた。おいしさを共感できる人たちがいる喜びに浸った。

 栄養士の先生同士のつながりで、近隣の小学校からも納入希望がどんどん増えていった。町中(まちなか)で小学生を見かけると、この児童たちの体の中に私が栽培した野菜が入り込んで、血となり肉となってエネルギーを生み出しているのだと思い、ひとり微笑んでしまう。

 数年間、給食の食材としてニンジンを納入していると、ある小学校から、四年生の授業を一コマお願いしたいという依頼がきた。いつも給食に出てくるニンジンを作っている農家さんに、話を聞きたいという趣旨だ。
 私は自由なのだとあらためて思った。就業規則に縛られていたサラリーマン時代と違い、いつ、何をしてもいいのだ。小学校で授業をしても、雨の日に本を読んでいても、畑でハクセキレイと話しをしていても。
 そのかわり、ズッキーニやトマトの収穫時期である五か月間は一日も欠かさず畑に通い続けなければならない。
 自然界の下僕(しもべ)であり、人の世の自由人でもある。


   ・・・


 小学生たちは元気だった。
 無気力で、無反応、こちらが思い入れたっぷりに熱弁を振るい、問いかけても白けた雰囲気だったら・・・という事前の心配は杞憂だった。
 私は事前に要望されていた項目に基づいて、どういう思いで野菜を栽培しているのか、お客さんにはどういう思いで食べてもらいたいのか、大変なのはどういう事なのかなどを話して、児童からの質問の時間になった。
 そこで分かったのは、こどもたちは本当に、もう心の底からニンジンが苦手なのだということだった。
 調理師さんたちや栄養士の先生方は、私の納入するニンジンを、過大とも思える言葉で褒めてくれていたけれど、やはりこどもたちはニンジンに苦戦しているのだ。
 思えば自分自身、小学生の頃はニンジンが苦手だった。ニンジンだけでなく、野菜全般が苦手だった。特にニンジンとピーマンは大嫌いだった。
 年長になるに従い、あれが嫌いこれが嫌いとごたごた言う姿も格好悪いと感じる自意識が芽生え、少し我慢しながら食べているうちに、気がつけば苦手なものがなくなっていた。加齢のせいで味覚細胞が減っているだけかも知れないが。
 
 どうしたらおいしくニンジンが食べられるか。農家に対する、こどもたちの真剣な問いだ。

 まずは「本当に嫌いなら無理して食べなくていいよ。」と伝えた。私もこどもの頃はニンジンが大嫌いだったと告白すると、農家のおじさんにもこども時代があったのかという不思議な感心の仕方で安堵の表情を浮かべていた。

「自分で育ててみるのもおすすめです。」
 何か月もかけて収穫したニンジンを食べる際に、種を播いた夏の暑さや、そのシーズンに初めて引き抜いた時のニンジンと土の香りを思い出す。すると不思議にも、お店で買ってきたものより断然おいしく感じる。
 育ててみればきっと好きになる。知ることは則ち愛することだ。
 
 レシピとしておすすめは、そのまますりつぶしてコールドプレスジュース。
 細切りにしてラぺ、ラぺのお相手は、たらこ、クルミ、レーズン、ツナ、何でもおいしい。
 ケーキに混ぜても優しい甘さがおいしいよ。
 普段と違う授業を楽しんでくれたこどもたちは、授業終了後にも「お見送り」をすると言って、帰宅する私を取り囲みながら、ぞろぞろと校門までついてきてくれた。
 小学生たちは元気で、好奇心に溢れていた。そのことは、数か月後に、より強く思い知らされる。
 
 小学校で授業をしたクラス担任の先生から、メールが届いた。
 私の話を聞いて、ぜひニンジンジュースを給食で、と思った何人かの児童たちが、生の食材は給食で出せないと知って、ではゼリーならどうだろうと試作してみたのだという。
 そして話はそこで終わらず、試作レシピを栄養士の先生に提案し、見事採用されて、全校児童に提供されたのだ。その味も評判で、ニンジンゼリーについてのアンケートをとったり、次はニンジンラぺ、その次はニンジンケーキ、と次々に今までなかったメニューが給食に登場したのだという。こどもたちの行動力と、その提案に応えてくれた栄養士の先生、調理師の方々、その他先生方の前向きで積極的な姿勢には驚かされた。

 野菜を栽培するだけでなく、それをどう食べるか、いつ、誰が、どんな環境で食べるのかまで考えると、より一層おいしい野菜を作らなければという気持ちがますます膨らんでゆく。




     かくして信徒(リスナー)となりし物語

 農業の多くの作業は孤独で、単調だ。

 収穫。ひたすら取る。コマツナなら腰に簡易イス、かる(すけ)をくくりつけ、座った姿勢で株元に鋏を入れてゆく。早朝に聞こえる音の多くは鳥の声。夜の終わりを嘆くように、たまに鹿の声。夏ならこれにセミの声が盛大に加わってゆく。
 
 袋詰め。収穫してきた野菜を販売用の野菜袋に詰めてゆく。少し離れた製材所から、木材を裁断する機械の回転音と摩擦音が聞こえてくる。近隣の住宅から、遅い朝食か早めの昼食の準備をする香りが漂ってきて、空腹を自覚する。

 袋詰めが終わると、そのまま作業場で、午後の算段をしながら、妻が作ってくれた昼食をとる。食事を終えたら、近隣のホームセンターで肥料となる発酵鶏糞を買ってきて畑にまき、トラクターをかけることにしようか。
 望んでそうなったとはいえ、孤独で、単調。会話のないひとりだけの世界。


   ・・・


 1970年代、世間一般として、土曜日は休みではなかった。

 まだ母が元気だった頃、土曜日のため昼で小学校から帰った私を迎えるのは、カレーの匂いと、ラジオから流れる独特のテンションのおしゃべりだった。
 平日、小学校から帰ってくる時間にはついていないラジオ。私が帰ってくる前まで、母はラジオを聴きながら、ひとり家事をしていたのだろうか。それとも、土曜日にだけ、聴きたい番組があってつけていたのだろうか。土曜日にだけ出てくる、冷たいごはんに温め直しのぬるいカレーという昼食を口にしながら、私はぼんやりそんなことを考えていた。
我が家にはまだ電子レンジがなかった。


   ・・・


 袋詰めの作業の時に音楽を聴きはじめた。仕事中に音楽が聴けるなんて素晴らしい職業じゃないかと思った。ipodに小さなスピーカーを接続して聴いた。家に帰ると、翌日の作業時に聴きたいプレイリストを作ってから眠りにつく。

 プレイリスト作りも楽しかったし、単調な袋詰めも気分が紛れたが、何しろ帰宅すると疲れ切っていることが多く、だんだんプレイリストを作る間もなく寝てしまうようになった。それに、いくら大好きな曲でも、一生色褪せることのない素敵な曲でも、毎日同じものを聴いていると飽きが来る。そもそも、自分は音楽よりも会話のようなものに飢えているのではないだろうかと気づき、母が聴いていた土曜日の昼を思い出した。

 乾電池で聴ける、小型のラジオを買って作業場に置いた。午前中から昼過ぎにかけて流れてくるラジオ番組の内容は、時事の話題を硬軟バランスよく織り交ぜてあり、何より番組の出演者同士、裏方のスタッフも含めた人たちが仲良さそうに笑いながら話しているのが救いとなった。なんだか自分もその仲間のひとりで、彼らのように軽快なおしゃべりができるようになった気がした。彼らとて仕事だから、様々なストレスや困難があるだろうに、流れてくる放送には微塵もそんな事を感じさせず、私を快く仲間に迎え入れてくれているように感じた。


   ・・・


 毎日昼前に必ず流れる長寿番組、「電話人生相談」《テレフォンじんせいそうだん》の時だけ、雰囲気が一変した。不倫、借金、病気、人間関係。問題はいくらでもあり、似ているようでそれぞれの人がそれぞれの悩み、思い込みに囚われていた。聴いているのが辛かった。しかし、心のどこかで他人が苦しんでいるのを喜んでいる自分がいた。恥ずかしかった。いくら自分が孤独で、経済的苦境に立たされているからといって、自分より不幸な人の話を聴いて安心していることに耐えられなくなった。
 ラジオを聴くのを辞めた。


   ・・・


 無音の、いや正確に言えば製材所の音や鳥の鳴き声は聞こえているが、それ以外はほぼ無音の作業場で袋詰めをしていると、自然に意識は自分の内側へ向かってゆく。
内省の時間が訪れる。

 認めよう。自分は人生最大の過ちを犯した。この農業経営スタイルでは、当初想定していたような経済的余裕は生まれない。余裕どころか、いつ行き詰まって廃業せざるを得ない状況になってもおかしくない。不順な天候に右往左往してばかりで、たとえ順当に季節が巡って栽培がうまくいってもぎりぎりの収入しか見込めない。
 
 同時に、自分は最良の選択をしたのだとも思っている。自らの手で、汗を流して播いた種が実ったその季節季節の野菜を家族で食す喜びは、何事にも代えがたい。体は絞られ、労働に必要な筋肉が付き、何の苦労もなく易々と眠りにつく。太陽が出てくるところから沈むところまで余さず見届け、気圧、風向きの変化を肌で感じ、夕暮れて心地よい疲労感に包まれる頃、山の木々がおこす風が体の中を通過して、私はこの世界と一体になっていると感じれば、その日の作業が終わりとなる。

 食べた人とおいしさを共有し、常に次はもっとおいしい野菜を作ろうと策を練る。季節が流れる。準備をする。種を播く。単調でいつもと同じ作業だが、一度として全く同じ条件にはならない。 
 その都度最良と思った行動で備える。思い通りに事が運ぶことはほとんどない。それでも、新しい種を手にすると、何故かわくわくする。気持ちが昂る。今度こそと力が湧く。
 この先どうなるのか分からない。不安も消えることはない。けれど、と思う。だから面白いのだ。だから情熱を持って生きていけるのだ。 
 
 作業場に戻ると、照明よりも扇風機よりもまず最初に、ラジオをつける。いつもの声が聴こえてくる。   
 
 再び、ラジオリスナーとなった。出演者たちは何の屈託もなく、私を迎え入れてくれた。仲間のような気分を再び味わうことができた。全国の、全世界のリスナーたちもきっと私と同じ気持ちで聴いていることだろう。

母も何かしら足りないものを感じてラジオを聴いていたのだろうか。夫は仕事で、こどもはあまり手がかからなくなってきた。不幸や不満とは違う、欠落。

 今ならわかる。思春期の自分に手一杯で、あまり見舞いにも行かず、結局感謝の気持ちも伝えられなかった私の事を、母は恨んだりしていなかっただろう。私が受け取ったものはそんな事で返せるようなちっぽけなものではなかった。
 母が発していた優しさや慈しみの光線は、存分に浴びるだけ浴びた私が、妻に、息子に、周囲の人々に、そう、全くの他人ではあるけれど、ラジオでつながっている人々にどんどん放射してゆけばいい。水、炭素、窒素と同じように循環して巡り巡ってゆけばいい。
お互いに与え合えばいい。

 「電話人生相談」《テレフォンじんせいそうだん》の時間も聴けるようになった。自分の苦境と、自分の過ち、自分の選択の全てを認められるようになった時、私は決して他人の不幸を喜んで聴いていたわけではないのだと気づいた。

 相談者たちは救われていった。他人に相談しようと決意した時から、彼らはあらかじめ救われているのだ。相談する人、相談に答える人、そのやりとりを聴いている人、番組のスタッフ。みんなが、同じ時を過ごし、同じ問題を共有し、それぞれの思いを抱き、この社会の鏡を見つめる。その先に何が待っているか分からないからこそ、進んでみたいと思えるのではないか。全ての囚われから解放されて、思うがままに生きよ、とラジオが教えてくれた。農業が教えてくれた。機会があれば私も誰かに伝えてゆきたい。この、ありふれた、かけがえのない日々を、思うがままに生きよと。
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