第5話

文字数 5,592文字

「因果応報」という(やまい)

 結婚後、一年して妻の胎内に命が宿り、出産を間近に控えた時期に、医師から告げられたのは胎児の心臓の音がおかしいということだった。出産後に検査をしないと詳しいことは分からないが、何らかの先天的な心臓疾患が考えられるという。

 当時、ようやく一般家庭でもインターネットで情報を得るのが当たり前、という時代になっていた。我が家もプロバイダと契約を結び、ネットを使える環境であったため、すぐに医師の情報をもとに心臓の病気について妻と調べた。軽めに考えると心室中隔欠損、心臓内の心室と呼ばれる部分の壁に穴が開いている病気だ。その穴が小さければ手術の必要がない場合もある。特に不都合なく、そのまま成長できる可能性もある。

 悪い方に考えるときりがなかった。

 私たちはきっと軽い病気だとお互いを励ましあいながら出産の時を待っていた。


   ・・・


 小学校の頃、運動会のはじめに教頭先生がするあの挨拶の、慣用的な一文が大嫌いだった。
 「皆さんの日頃の行いが良かったおかげで、本日は見事な秋晴れとなりました。」

 天気と日頃の行いに何の関係もないのは小学生にもわかることだった。荒天でその日を迎えた小学生たちはどんな悪行(あくぎょう)を働いていたというのか。
 不思議な、不気味な因果関係を持ち出して当たり前の事のように話すオトナが、それがたとえどんなに使い古された定型句だとしても、何故か許せなかった。


   ・・・


 「両大血管右室起始症」《りょうだいけっかんうしつきししょう》という難病診断が息子に下されると、なぜ私の身の周りにばかりこんな不幸が訪れるのだろうと、その原因を自分の過去の行いに求めずにはいられなかった。
 不真面目な生き方?いつ辞めようかなんて軽い気持ちで働いているから?まだ生きていた頃の母の見舞いに行く回数が少なったから?

 言い訳をさせて欲しかった。

 どうしても水原恵(めぐみ)と一緒になるために、ただ恵の両親を説得するために正社員になりたかっただけなんです。すぐに辞めてしまおうと思っていたのは本当ですが、いい加減に仕事をしていたわけではありません。思っていたよりも苦労なく社会に溶け込めたので少し安堵していただけで、間接的にでも、患者さんたちの治療に貢献できていると、やりがいを感じて病院職員として働いてきました。母の見舞いだって、可能な限り行っていたつもりです。中学生、高校生の身で母に代わって家事をこなし、大学に進学できる程度の勉強もしながらではあれで精一杯でした。あんなに早く亡くなると思っていなかったんです。もっと優しく接していればよかった。もっと感謝を伝えておけばよかった。

 稀な確率で起こる息子の先天性疾患。一万人にひとりの不運。

 なぜ、私たちのこどもなのですか。新生児室にころころと並んでいる隣の、いやその隣でもいい。なぜあの子ではなく、私たちのこどもがこんなに重い病を背負って生まれてこなくてはならないのですか。そう考える自分が嫌で堪らなかった。

 肉体で使用された酸素飽和度の少ない血液を、肺へ送る肺動脈がつながっているのが右心室。
 送られてきた血液は肺で酸素濃度十分になり、その綺麗な血液を全身へ送る大動脈がつながっているのが左心室。
 右心室、左心室の壁に穴があり、肺動脈・大動脈ともに右心室とつながってしまっているのがこの病。「両大血管右室起始症」《りょうだいけっかんうしつきししょう》。酸素飽和度の少ない血液が全身に送り込まれるため、様々な不都合が生じる。

 教頭先生の根拠のない因果応報の話をあれほど忌まわしく思っていたのに、息子の発病の原因を、私は自分の過去に探してしまっていた。
 何かの罰だと思い込んでしまっていた。
 私への罰なら、私の心臓に穴を開けてくれと言いたかった。言いたいが、この願いは一体誰に訴えればいい?

 私と妻には、やはり死の影がつきまとって離れることがないのか。

 
   ・・・


 妻と、自分の病気について知るはずもない生まれたばかりの息子と、三人で医師からその病名、今後可能な限りはやい段階で手術が必要なこと、ただし、まだ小さすぎて手術はできないので、なるべく健やかに体重を増やし、手術に耐えられる肉体に成長させるべきであること、などの説明を受け、その日は自宅に帰ることになった。

 息子は新鮮な血液が十分に体中に送られないため、体重が少なく、唇はいつも紫色だった。本来むちむちに張りがあるはずの顎もスリムで、一般的にイメージする赤ちゃんの姿とは大分違ったが、それ故に大人びて見えて、なにか大事なメッセージを告げる役目を負った生き物のようにも思えた。

 私はすっかりひとかどの社会人になりおおせたつもりだったが、医師からこの疾患の重篤さを聞かされると、一瞬にして素に戻り、社会的な行動をするのが苦痛になってしまった。社会不適合者の本領発揮だ。

 病院から自宅までは四キロほど。来るときはバスで十五分くらいだったが、自宅方面行きの乗り場でバスを待ち、整理券を取って乗車し、降りるときに小銭を用意するという単純な作業がやたらと面倒に感じられた。
 ではタクシーで、とも思ったが、運転手に行き先を告げるのさえ億劫だった。
 もう誰とも話したくないし、息子の病を認めるのも嫌だった。妻もショックで一言も発しない。私たちは何の相談をするでもなく、バス乗り場、タクシー乗り場を通り過ぎ、自然に自宅方面へ向かって歩き出した。
 息子は私が抱いていた。白いガーゼ生地のおくるみの肌触りは優しく、中には何の憂いもない寝顔があった。抱いたまま歩いて帰るとどのくらい時間がかかるのか、そんなに長い間抱き続けていられるのか、全く頭が働かず、考えられなかった。呆けたままひたすら歩いた。

 歩き出して一時間ほど経った頃、私のシャツの袖が濡れていることに気がついた。息子のおしっこで濡れたのだ。もちろんオムツをしていたが、足が細すぎて、隙間ができてしまっていた。
 無言の妻が柔らかな表情で替えのオムツをバッグから取り出す。ただ、住宅街の真ん中でオムツ替えをするのに適当な場所が見つからなかった。放心して周囲を見回す。知っているようで、よく知らなかった帰り道。いつもの景色が、他人行儀に私たちを突き放しているようだった。
 オムツなんて、濡れたシャツなんてどうでもよくなっていた。ただこの道をどこまでも歩いて行きたかった。この子を抱いて、ずっと歩き続けて全く知らない国の、全く知らない町まで歩いてゆけば、こんな病気など無視して生きてゆけるのではないか。すべて無かったことになるのではないか。
 はじめから全部やり直すというわけにはいかないだろうか。真面目に生きて、真剣に働くから、この子も、私の母も、妻の兄も、健康でいさせてくれないだろうか。私はこんなに酷い罰を受けるほどの罪を犯したのだろうか。


   ・・・


 生物は子孫繁栄の過程で遺伝子のコピーをするが、その際コピーミスを起こすことがある。ミスとは言え、それには意味があり、今までとやや違った個体が発生することで、それが進化につながったり、環境変化に対応できる種へと変わったりすることができる。

 先天性の病気で生まれてきた息子の、その原因をこんなふうに考えられるようになるまで十年かかった。
 それまでは折に触れ何度も何度も自分を責め続けていた。
 しかし、生まれてきた息子に対して、その病が、親である私への罰だと考えるのはあまりにも失礼なことだと気づいた。息子は独立したひとりの人間なのだ。私への罰でもないし、病があったからといって欠陥のある人間というわけではないのだ。

 息子は二歳になるまでに二度の心臓手術を経て、一般的な生活を送るのに不都合のない状態になった。

 退院の日、妻は、もう絶対に離さないと言わんばかりの表情で息子を抱き、見送りに病院玄関まで降りてきてくれた看護師さんたちに何度も頭を下げてお礼を言っていた。私はタクシーを呼んでこようと、入院中の荷物を両手に持ち直す。
 すると、妻の足元に目が行き、病棟で履き替えた病院のスリッパのまま玄関前まで出てきてしまっていることに気づいた。
 一刻もはやく、息子を家に連れて帰りたくて慌てていたのだろう。靴を履き替えに戻らなくてはと告げると、妻は「よかった」と微笑みながら涙をこぼした。
 タクシーに乗る前に気づいてよかった。「よかったねー」と息子にも同意を求めた。私は私の食べたもの

 こどもを持って一番に感じたのは、食べることの重要性だ。私の場合は特に息子が先天性の病を持ち、手術を乗り切るために少しでも健康体でいてもらわなくてはと思っていたからだが、病気のあるなしにかかわらず、すべての親はきっと同じ思いだろう。妻も、食事を作る者として、私以上に食材や調理法に関心を持つようになった。

 食べるものを作る。
 食材となるものを育てたり、収穫、捕獲したりする農業や漁業。それらを消費者との間に入ってやり取りする、市場関係者や運送業。お客さんに販売する商店やスーパーなどの小売。調理する、料理人や家庭。

 小学生が学習するようなことを、三十歳も間近になって、こどもを持ち、ようやく具体的に考えることができた。
 職業として当たり前のように認識していた人々の活動が、本当に尊い存在として理解できた。振り返れば、この頃から、なんとなく農業に興味を持つようになっていたのかも知れない。
 趣味が読書の完全インドア派の私が?コンタクトレンズで土埃に弱く、花粉症で春先から初夏まで何か月も外出を厭う私が?社会性のなさから、車の運転免許も持っていないない私が?
 きっと自分が踏み切ることはないだろうと思いながらも、運転免許取得のために教習所に通い始めたり、新聞記事の中で取り上げられる、「新規就農者」という言葉に惹かれたりし始めていた。

 ただ、意識のほとんどを息子の健康、成長へと向けなければならない生活をしていたため、サラリーマンをいつか辞めようと思っていたことも心の片隅にひっそりと影を潜めていたし、職場での役割もグループを取りまとめる中堅クラスになっていたため、大学病院での仕事を全うする生活に充実感を覚えていた。
 きっかけは、管理職を目前とした年齢になるまで訪れない。

 

    揚げた凧のおろし方

 勤続二十年。四十代になると、誰でも自分のキャリアについてあらためて考える機会が訪れるはずだ。
 人事部でずっと給与計算をしていた。毎日パソコン画面とにらめっこだった。幸いに妻も私も健康で、二度の心臓手術を乗り切った息子も高校生になる。
 数年のうちに管理職となり、早期退職の資格を得る年齢が訪れ、それを行使しなければ六十五歳で定年になる。その後は?退職金と、年金で暮らして行けるのだろうか。定年後の私は毎日、朝起きてから、昼、夕刻、夜、何をしているのだろう。妻は地域に根づき近所に友人もたくさんいるが、職場と家を往復しているだけの私には何もなかった。
 息子には日頃から挑戦することの大切さを伝えてきたつもりだが、自分自身は何の挑戦をしてきただろう。給料日までに正しく職員の給与計算をし、それが終わればまた次の月の給与計算、同じ業務に入る。いつも、締め切りまでをどうやり過ごすかばかり考えていて、その事に大した苦痛も疑問も感じずに過ごしてきた。

 
   ・・・


 小学生の頃、ゲイラカイトという凧が流行した。1970年代の話だ。私も正月に親に買ってもらい、よく遊んだ。
 それまでの奴凧タイプとは違い、誰でも簡単に揚げることができた。基本的に凧揚げは正月の遊びだが、友達のだれかがふと思い出したようにゲイラカイトを持ち出してくると、なぜ正月以外にやらなかったんだろうという雰囲気になって、にわかに凧揚げ合戦となった。
 初夏のある日も同じ雰囲気になって、私も気持ちよくゲイラカイトを揚げていると、持ち手に絡めてある凧糸が最後となり、これ以上高く、遠くまで飛ばせないという状態になった。
 それまでにも何度か同じことがあったのだが、その日はもっと高く飛ばしたいという欲求が湧き、そう思った瞬間に今まで気づかなかった名案を思い付いた。糸を足せばいいんじゃないか。
 すぐに弟に小遣いを渡し、近くの玩具店に凧糸を買いにいかせた。
 活きのいい魚のようにぐいぐいと空を泳ぐゲイラカイトにつながる糸の端をすこし余らせたところで力強く握り、持ち手の部分と切り離したあと、新しく買ってきた凧糸の端を固結びで繋げる。
 すると経験したことのない高さ、というより遠さまでゲイラカイトはすぐさま距離を伸ばし、友達たちのそれとはレベルの違う存在となった。
 私は得意になって遥か遠くの小さなゲイラカイトに風を孕ませ、右に左に操って至福の時を過ごしていた。
 楽しい時間の進み方は早い。

 あっという間に空が薄暗くなり、友達は凧揚げを切り上げるため、糸を巻き取り、どんどんゲイラカイトをしまってゆく。もちろん私も降ろそうとするのだが、なにしろ糸が長い。巻いても巻いても全然近づいてこない。そうなると暗さは余計に心細さを誘い、もう夕飯の時間なのではないか、帰ったら遅い帰宅を咎められるのではないかと心配になりながら、それでも一生懸命糸を巻き取っていた。
 
 「降ろし方まで考えてから、凧を揚げよう。」そんな教訓じみた習性が、この件から身についたのか、あるいはちょっとした困難に直面する度に、どうやり過ごして終わらせるかということばかり考えて生きてきた自分のルーツとして、このエピソードを結び付けたのか。
 何しろ私はいつでも首をすくめて嵐が過ぎるのを待つような、そんな腰の引けた生き方をしていたのだ。大きな(わざわい)が自分の身に起こらないまま最期の時を迎えたい、本気でそう思っていた。
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