第10話

文字数 3,003文字

     ☆


 越智が起きると、仰向けに寝ていたその目が捉えたものは、天井ではなく、越智をのぞき込む、いがぐり頭だった。
「童貞け? おめぇさ童貞け? どってどってどって。童貞け?」
 質問されている……。顔をのぞき込まれている越智は、いがぐり頭は小池さんだと、脳内をかき回してやっと認識する。しかし、頭は寝起きでぼぅっとしているので、とりあえず質問には答えられず、うぅ、唸って応じようとした。が、それに反応して、小池さんは更に口調を激しくした。
「おめさそんな若いのに童貞けッ!? 筋肉だるまけッ!?」
 小池さんは目を丸くした。
「童貞さおめぇさそんな若いのにさそんなにさ童貞けおめえさ! 童貞の息子さ棒さどってどってどって棒さ突き刺したことないんないんないんけあらやだ突き刺したことないんけあらやだこらたまげたたまさ棒さ突き刺したことないタマタマあらやだ筋肉だるまたまげた! タマタマたまげたけ息子さ童貞の童貞の童貞のたまさ!」
 エキサイトしている小池さんだが、残念ながらなにを言っているのか、越智には判読不可能だった。たぶん下ネタなのだろうというのだけは越智にはわかったが、しかし今は一体何時なのだろうと、未だにまくし立てる小池さんを無視して、廊下の壁、ちょうどトイレの上にある時計を見た。ここでは病室のドアは夜通し開けたままでと決められているのだ。すると、短針は四、長針十二をさしていた。つまり、これは四時で、どう考えても早朝の四時だった。ここは起床は六時だったはず。越智は二度寝しようと思った。が、廊下も騒がしいことに気づく。ここの住人はみな、早起きなのだった。越智はため息を吐き、小池さんと目を合わせる。小池さんはまた言葉のループに入っていて、もはや言語でもなんでもなくなって、完全に『言葉の意味をはぎ取られ』ているブロークンワードを叫んでいた。越智は掛け布団を頭からかぶった。夜中も頭からかぶって寝たはずなんだけどなぁ、と越智は目を瞑る。小池さんはまだまだループ遊びを楽しんでいた。


 朝ご飯が終わり、朝の薬の時間になる。朝の食事の時間は、夕飯の時と変わらない。黙々と食べ、号令をみんなで無視する。越智は朝は薬を飲まないので、部屋へ戻ろうとした。そこへヘルパーさんが来て、
「ご家族の方から、荷物を受け取りました。中身の確認はしましたので、部屋に置くものだけ取りに来て下さい」
 と言う。越智はナースステーションの前で待つと、おばちゃんヘルパーがプラスチックのラックに詰め込まれた服などを持って、六号室まで運んでくれた。そして、マジックを渡される。
「全ての衣類、下着も含めてですが、それらにこれで自分の名前を書いて下さいね」
 越智が不安そうにマジックを受け取ると、
「盗む人もいますからね。コップやシェーバー、歯ブラシなんかにも、名前の記入をお願いしますよ」
 と付け加えた。精神病院というのは、安全ではないのだな、と越智が思っていると、歩いていた患者が、歩きながら口を全開に開けて笑っていた。笑いながら歩き、飛び跳ねる。確かにここは……安全じゃない。


 病棟内に、トイレは三カ所ある。越智の住む六号室の向かい側に一カ所、そことロビーを隔てた反対側ともいうべき所、風呂場の近くに一カ所、そして、あとで知ることになるが、鉄柵の向こう側に職員用トイレが、ある。男子トイレと女子トイレが別れているタイプのトイレで、鏡付きの洗面所と、洗濯機が、トイレの中には設置されている。
 男子トイレには小用便器と個室があるが、個室には扉はなく、カーテンがあり、それを閉めて使用する。トイレットペーパーも個室にはなく、個室の外にトイレットペーパーが取り付けてあり、使用する前に、そこからぐるぐると引っ張り、ちぎりって個室へと持って行く。
 また、小用便器は、汚い。正確には、小用をするのが困難な精神状態の患者が多く、尿が便器からはみ出すことが多々あるため、小用便器の周辺の床は、びしょびしょなのだ。掃除が行き届いてないのではなく、そういうわけで使用されるとすぐ汚くなってしまうのだ。その水たまりは避けられるレベルではなく、仕方なく全員が、シューズを濡らしながら小用をすることになるのだ。そして精神薬を飲んでいる患者ばかりだから、独特の汚れが付着され、掃除してもその黄色い垢は取れない。精神薬は消化されず、尿と一緒に独特の形態で輩出される。その汚れが付着するのだ。トイレ内には、匂いも充満している。そんなトイレなのだが、鏡付きの洗面所がトイレにしかないため、ひげそりや歯磨きや洗濯などで、そのくさい空間は大賑わいであった。
 越智はトイレを使い、鏡を見る。自分の今の姿。自信のない、落ちくぼんだ目は充血している。口元はゆがみ、紫色でところどころ唇が切れて血が出ている。髪の毛は伸びきりぼさぼさで、肌は病的に浅黒い。これが、偽りのない、今の自分の姿なのだ……。
 沈鬱な気持ちでトイレを出て、ひげ剃りを借りに、ナースステーションに行こうと、歩く。トイレを出ると、いきなりの罵声。自分に向けられた罵声かと思って越智が怒鳴り声の方を向くと、それは、男性患者が六号室前のテレビに向かって怒鳴っていたのだった。気づけば罵声も、
「おい! 子供は堕ろせ! お前とはもうこれまでの関係だッ」
 という内容で、テレビではアメリカの映画で、女性が音声吹き替えでなにかしゃべっている。その女性の吹き替え音声と、患者は「話し合っている」のだった。患者はセンター分けのつやつやした髪をしていて、歯が一本もないので、その怒鳴り声も聞き取りづらい。コップで水を飲みながら、怒鳴っている。
 越智は無視して、ナースステーションを目指す。
 さっきのような怒鳴る患者や、対象もなく叫んでいたり、壁と対話したりしている患者もここには多いが、しかし自然とそれらの人々は棲み分けがなされていて、調和が取れている。問題のある人間だらけだが、暴力沙汰は起きそうになかった。狂気の博覧会のような場所だが、ラブ&ピースである。
 と、思っていたら、ナースステーションの近く、ロビーのソファで、隣に座る女性患者に小池さんが肩に腕を回しながら卑猥な言葉をぶつぶつとしゃべっていた。女性患者はおばちゃんで、しかし黙ってうつむいている。小池さんは腕を肩に回してしゃべっているのだが、その言葉はその女性を向いておらず、独り言に近かった。
「処女なんけ? ここさいるのは処女しかねぇ。処女しかここさねぇ。こんなとこさいるのは処女だべ。おらぁ大工さやって女郎小屋さいって出しちまった。だしだしだしだしちまった女郎小屋さ。きもきもきもちいい処女さここなんけ小屋女郎ここさけ処女なんけ?」
 女性患者をスタッフは助けない。スタッフは笑ってさえいる。たぶん、これらが彼らの日常なのだろう。

 越智がひげ剃りとコップを手にしてトイレに行くと、若い男がいた。水道水を入れてティーパックをコップの水に浸していた。
「君も飲む?」
「それ、お茶かい」
「うん」
 越智の返事を待たずに、若い男は越智のコップにティーパックを入れた。
「このティーパックは使い終わったらナースステーションの脇にあるゴミ箱に入れればいいから」
「ありがと」
「僕の名前は土方」
 土方は手を振ってトイレから出て行った。出がらしのお茶は、冷たくて、そして味はなかなかだった。


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