第7話

文字数 3,355文字




「消毒の時間ですよー」
 大きな声が廊下から聞こえてきて、越智はベッドから起き上がる。が、意味不明なので、また掛け布団をかぶり、睡眠を取ろうとする。なんだか、眠い。越智はここずっと、睡魔に身体を乗っ取られたかのように四六時中眠い状態なのだった。声を無視していると、アロハシャツの男が、越智の傍らに来て、もう一度「消毒ですよー」と言った。極彩色のアロハシャツの男は、越智の身体を揺さぶった。さすがにこれには越智も、起き上がらざるを得ない。キョトンとしていると、
「食事の前に、アルコールを手に拭きかけて、手を消毒するんです。今は二月でしょう。風邪を引かないように、みなさんに手を消毒してもらっているんです」
 と、説明してくれた。越智は、アロハシャツに連れられて、廊下に出た。
 廊下では、患者がみな、一列に並んで、アロハシャツの女性が持っている、シャンプーの容器のようなポンプ式のアルコールを、手に拭きかけられるのを待っていた。ひとりひとり、手を出して拭きかけられているのを見て、越智は驚く。さっきまで叫んでいたり、虚ろな目でぐるぐる歩いていたような患者さえも、黙って並んでいるのだ。どうも、ここのケモノに似た『住人』たちも、心がまったくの制御不能なほどダメージを受けているわけではないらしい。驚きながら、越智は列の最後尾に並んで、消毒を待った。窓の外はいつの間にか暗くなっている。夕飯、なのだろう。
 アロハの女性の服に目を向けていると、「ああ、この服を着ているのは、ヘルパーです」との説明を受けた。この病院では、服によって、役職がわかるシステムらしい。と、なると、白衣やネイビーブルーが、看護師か、と越智は理解した。白衣とネイビーブルーの違いもあるのだろうが、そこは越智にはわからなかったが。
 案内され、自分の名前がガムテープで貼ってあるテーブルの席に座り、待っていると、ぞろぞろと患者たちがやってくる。他の患者の名前も、ひとりひとりの席にガムテープが貼ってあって、そこに名前が書いてある。この席は長くて白いテーブルで、ガッコウなどの会議室っぽいところでよく見かけるタイプの、折りたたみ式の長テーブルだ。テーブルは入ってきたばかりの、入り口近くのロビーの奥の場所にある。ここにはざっと百人くらい、患者がいるようだ。テーブルも椅子も、数多くあり、しばらくすると、その椅子が全て埋まるのだ。患者たちは、たいがいが座ったら下を向いて、ぶつぶつと独り言をしゃべっている。ここには、会話など、全くない。押し黙るわけではなく、思い思いに独り言を楽しんでいる、といった風情だ。
 テレビの消されたロビーの、もっと入り口の近くには、シャッターが下ろされた場所が合って、みなが席に着いた頃合いで、シャッターがエプロン姿のおばちゃんたちの手により開かれる。どうも、そこは越智にはバーカウンターの調理場のように連想された。配膳室、という奴だろうか。
 鉄のドアの入り口が開かれ、小学校の給食のような台車が運び込まれてくる。その台車の中からドラム缶のようなものとアルミニウム製の食器類が取り出され、配膳室でおばちゃんたちが、器に料理を盛っていく。そして、それからおばちゃんたちが、一品づつ、料理を席に運ぶ。とはいえ、料理も、患者によってまちまちだ。老人や重度の患者っぽい人たちが多いからだろう。流動食や、料理を後で砕いたものなど、食べやすくしたものが運ばれてくる患者たちも多くいる。そうして、全員に料理が運ばれると、エプロンのおばちゃんの一人の「いただきます」の合図で、食事は始まった。配膳を眺めて腹が空いた越智は、ガツガツと、その味気ない料理を食べ、腹の中に飲み込んだ。

 シャッターの開いた配膳室で患者のニーズに合わせ固形の料理をおばちゃんたちが砕き、それらが運ばれ夕食がはじまり、その流動食モドキを啜る患者たちよりも先んじて、越智の食事は終了したのだが、ここでは全員がある程度まで食べ終わったのを見計らって、食事が終了で席を立つことが出来る。越智は、真向かいに腰を下ろしている、首によだれかけを巻いたじいさんが食べるさまを、ずっと見ていた。
 見ていると、久々に色々思い出す。越智が家の近所の新興住宅地に続く坂を、iPodで音楽を爆音で聴きながら歩いていると、小学生の男たちがゲラゲラ笑って、越智の周りを三人ほどでぐるぐる回りながら指を指して越智に挑発行為をしてきた。越智は怒り心頭になったが、まさか小学生を蹴り飛ばすわけにもいかない。黙って歩いて、どうにかやりすごそうと考え、坂道を歩く。しかし小学生たちは、越智の歩行のスピードに合わせ、ぐるぐる回りながら、指さし笑ってついてくる。気持ち悪かった。口角泡を飛ばしながら侮辱する言葉を吐く小学生たち。越智は走った。小学生は、越智の走りに追いつかない。小学生を引き離し、坂の頂上付近で立ち止まって呼吸の乱れを整え。……越智は泣き出した。この町に、越智をけなす者は溢れているが、慰める人間は誰一人として、いなかった。
 町の科学館には、プラネタリウムがある。辛い日常を送る越智は気晴らしに、プラネタリウムに一人で行った。科学館とプラネタリウムのチケットをセットで買い、科学館をひとりで覗く。科学館は寂れていて、客は越智一人だけであった。科学館の受付には男女の組み合わせの二人が座っていて、越智を不審そうな顔でじろじろ見ていた。気にせずに時間まで科学館の展示を堪能し、プラネタリウムの時間に、入り口まで行く。プラネタリウムの控えのベンチで越智がジュースを飲んでいると、二組のカップルが現れた。こいつらも、プラネタリウムを見に来たらしい。カップルの男は女に、
「おれもひとりでプラネタリウムを観に行こうかな。一人で。一人だってよ。一人きりでプラネタリウム」
 と、ゲラゲラ笑い出した。男に釣られ、女も笑い出す。越智は、耐えることが出来ず、泣きながらプラネタリウムを後に、急いで去ることにした。
 越智がそんな些細なエピソードを思い出していると、エプロンのおばちゃんが「ごちそうさまでした」と、号令を掛ける。誰もごちそうさまの復唱はしないまま、夕飯は終了した。食器を下げるのも、おばちゃんたちだった。おばちゃんたちの労働条件は、お世辞にも良いとは言えそうになかった。コミュニケーションが取れない人間相手の仕事はさぞかし辛いことだろう。
 気づけば誰も患者たちに新入りの越智を紹介することはなかった。いきなり夕飯の食卓にいてがつがつ飯を食べても、誰も不思議に思うこともない。気が楽だ、という考え方もあるが、この無関心に、越智は自分が堕ちてしまった世界に対する戸惑いを覚える。そういうもんだと割り切る必要性を、越智は感じるのだった。

 食事が終わると、歯磨きの時間が始まる。越智は歯磨きはお風呂のあとに、洗面所でするタイプなのだが、誰も風呂に入るそぶりもない。ここは病院。風呂があるわけないか、と越智は思ったが、じゃあ僕はここで何ヶ月も風呂に入らないのか、とちょっと不安になる。衛生上というより精神衛生上も、それはよくない気がするのだ。
 患者たちはトイレと一緒になった洗面所に向かって、歯を磨いている。それを越智が眺めていると、女のヘルパーさんが来た。
「越智さんは、明日荷物を持ってきてもらうから、ご家族に歯ブラシとコップの用意もするように伝えておきましたからね。今日は我慢してください」
 にこやかな笑顔に、越智は尋ねる。
「お風呂には、入れないんですか」
 ああ、と気づいたようにヘルパーさんは応える。
「お風呂は病棟内にありますよ。でも毎日は入れないんです。週に二日、水曜日と土曜日のお昼に、お風呂の時間があるんです。病棟内は見て回りましたか」
「いいえ」
「一度、ぐるりと歩いて見て回るといいですよ。ここに、しばらくいることになるのですから。もちろん、屋上を含め、立ち入り禁止の場所も、病棟内にはありますけどね」
 越智は「ありがとうございます」と頭を下げ、ヘルパーさんは去っていく。越智は、病棟を見て回ることにした。就寝の時間ってのもあるだろうし、それまで、うろちょろしよう、と。


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