第3話

文字数 3,251文字




 看護師を一人引き連れ、三十代前半と思われる若い医師が越智だけになった病室にやってくる。
「もうこんなことをしてはダメですよ」
 この前の医師とは違い、「なぜこんなことをしたのか」は尋ねない。ただその医師は、越智がオーバードゥーズ、睡眠薬の過剰摂取による自殺未遂によって危篤状態になり、その薬物の量が致死量に達しており、胃洗浄ではどうにもならないので、大静脈の中に管を通し応急措置をとり、それによってどうにかリカバリーをかけたということを話す。致死量だが、普段睡眠薬を多量に飲んでいるので、耐性ができていたので、死ななかったらしい。
 説明後医師は去り、残された看護師は、
「この病室の脇にトイレがあります。これからはそこに歩いていって自分で用を足して下さいね」
 と、越智に言って、それからあわてて付け加える。
「でも、まだ首と点滴のチューブはそのままですよ。気をつけて歩いてくださいね」
 越智は静かに頷いた。
 看護師さんが病室からいなくなった直後に、さっそくだから、と越智は歩いてトイレに行くことにする。ベッドから立ち上がると、久しぶりに足にかかった重力で倒れそうになる。人間の身体ってのは、丈夫なのか脆いのか。立ち上がってないと言ってもそれはここ数日のこと、……だとは思うのだが、その数日だけベッドに括り付けられていただけで、もう足腰は弱っている。人間の身体って脆い、と思う。でも、同時に、自分は何故か生きている、というこの状態を思うと、越智は、「人間ってしぶといな」と感じてしまうのだ。人間の身体は、強い。
 自殺未遂をした直後の人間というのは不思議なもので、未だに自分が生きているというのが確かめられると、力強い『なにか』を感じるものだ。たぶんこれこそは『生命力』を感じている、ということなのだろう。でも、越智はその生命力を感じつつも、死ねなかった自分に劣等感のようなものがわき上がるのを、隠せなかった。自分は自殺という行為を失敗した劣等生だ、と。
 立ち上がる。越智はフラフラする身体を、点滴がかけられている車輪のついた棒で支えながら、どうにか地面と仲良くなろうと立ちあがる。おぼつかない足取りで病室のスライド式のドアを開け、外に出ると、プレートが貼ってある。どうやら、左に曲がると、トイレらしい。右は、何度かの眠りの前まで自分がいた、あの『戦場』だった。廊下と言えば廊下なのだが、その救命病棟の大広間は部屋にはなっておらず、ここから右に十歩もあるけば、すぐに大広間の中に地続きで入り込んでしまうようなつくりになっている。
 越智のいた病室の左右を通る通路と、そして、目の前、真ん中にある壁の向こうには、ナースステーション。硝子張りになっていて、越智のいるところからも、ナースステーションの中が見渡せる。ナースステーションの中では、パソコンでなにかを打ち込んでいたり書類や計器類をいじる看護師以外はみな、忙しそうに小走りで行き来をしている。じっと観ていると、越智に向かって微笑みかけるナースもいたので、頭を下げて越智も挨拶を返した。でも、笑みを返すことは出来なかった。
 トイレに入り小用を足すと、どす黒い血が一緒に流れた。血尿、……ではない。さっき看護師さんが「カテーテル抜いた時、それによって尿道が傷つけられているので、血がでるかもしれません」とか言ったのを思い出し、たぶんそれだろう、と越智は見切る。血が流れるだけでなく小用をしていると尿道にそれに伴う激痛が走る。「これが生きる痛みって奴か」と理解することにした。
 トイレから通路に戻ると、例の大広間が見える。新しい患者が連れてこられたりして、騒がしくしている。新しい患者の方は騒がしくなっているのだが、たくさんあるベッドには、生き死にの境目をサヴァイヴしている人間がいるだけではない。ベッドの中には、顔に白い布をかぶせられた人間もいる。ここで死んだ患者だ。越智がその白い布をかぶせられた患者を眺めていると、その中の一人は、看護師ではない、屈強な男性たちがその骸をまさに今、運んでいくのが見える。自分も大広間に寝かされていた時、たくさん見かけたその景色。しかしこうやって病室をあてがってもらった今になって冷静に見てみると越智は、自分はよっぽど悪運が強いんだな、と息をのんで自分に引き寄せて考えてしまうのだ。が、自分に引き寄せるその考え方は死者を冒涜しているようにも感じられ、どうにもやるせない気分になってしまう。自分に引き寄せて考えるなんて、それはナルシズムだ、自分のことしか考えていない証拠だ。
 越智は、高校生の時の同級生の一人のことを思い出す。名前も知らない女の子。いや、名前すら「知らなかった」女の子。知らなかった、と過去形になる、女の子。
 越智が高校生の頃。いつものように高校に通う坂道を登っていると、よく声をかけてきてくれる女の子がいた。朝早くのその時間、夜更かしの寝ぼけ眼で、越智は「おはよう」と、声を返していた。どういう経緯からかは越智は忘れてしまったが、ある日からその同学年の女の子は、
「私、越智くんのお嫁さんになるー」
 と、言い始めた。女の子は言う。「越智くんのお父さんって会社の社長じゃん。嫁に行くには良い環境だよ」
 ああ、おれをからかっているのだな、と越智は判断し、お嫁さんになるー、という話に「ありがとありがと」とか軽くいなし、その『冗談』を毎回、スルーした。
 その女の子の名前も知らず、越智は高校を卒業し、その子のことは忘れてしまった。顔すら、うろ覚えになる。
 顔すら忘れかけはじめた、そんな頃。越智の元に、友人から電話がかかってきた。
「自殺したってさ」
「誰が?」
 名前を告げられても、全くわからない。友人は言う。
「あの子だよ。お前にいつも『越智くんのお嫁さんになるー』って言ってた、あの子が、自殺したんだよ」
 友人が言うには、恋愛絡みのことで、駅のホームから線路に飛び込み、電車に轢かれて死んだ、らしい。越智は、友人に言葉を返せなかった。
 越智は、遊びに来た恋人に、そのことを話す。自分のお嫁さんになりたいと言ってくれていた女の子が、自殺した、ということを。
 越智の恋人の恵は、
「あなたが殺したんだ。あなただったらその女の子のこと、救えた立場にいたじゃない!」
 と越智を責めた。
 恵はそれから、執拗に越智をなじった。思えばそれをきっかけにして、恵は越智に対する態度を、どんどん変えていったと越智は今になると思うのだ。元々恵はキツくて壊れた性格をした女の子だったが、段々と度を超えた言動をするようになった。
 ある日、越智に恵は電話をかけてきた。越智が耳をあてた電話のスピーカーからは、はぁはぁと荒い息づかいが聞こえてきた。
「越智先輩……。私が今、なにをしているか知ってる?」
 その問いかけのあとから、恵の吐息とあえぎ声。それから、男性の笑い声が聞こえてきた。
 恵は、浮気して他の男とセックスをしながら、その最中に電話を掛けてきたのだ。越智は、気が狂いそうになった……。

 自殺した女の子の担任の教師は、「自殺は自然淘汰なのだ」と、ガッコウの授業中に語っていた。果たして、その女の子は自然淘汰として死んだのだろうか。
 そして女の子の死とセットになって、越智には付き合っていた恵という女の子の、他の男とセックスしながらかけてきた電話のあえぎ声が、リフレインされてくる。恵とは別れてしまったが、別れる直前の恵は、あり得ないほどの罵倒を越智に浴びせかけた。あんな恋愛は、二度としたくない、と越智は思う。
 だがもう、恵と会うことは二度とないだろう。

「越智さん。どうしたんですか?」
 看護師に声をかけられた。どうやら越智は、しばらく廊下で立ち止まったままだったらしい。過去を思い出しながら、白い布を顔にかけられた人たちをじっと見つめていたのだ。越智は看護師に会釈してから、自分の病室に戻ることにした。


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