第8話

文字数 5,343文字




 第七病棟は、ナースステーションが真ん中に小島のように存在し、そこをぐるりと四角い円形で囲むように、廊下になっている。その廊下の外側に、病室がいくつも房のように点在していて、それがこの病棟のかたちであった。越智の部屋である六号室のある場所は入り口から見ると一番奥で、そこの窓からは病院の前を通る国道を見ることが出来た。しかし、その他の窓からは、外の世界を覗くことはできなかった。見えてもそれは病院の敷地内や、中庭だった。そういう意味では、越智の部屋は一番「外に通じていた」のである。また、この病棟には、テレビが二台存在している。一台は、ロビーのところ、そしてもうひとつは六号室の近くの空間だ。この病棟の奥側の空間は、トイレなど、病室以外の部屋があるので、少し広い空間になっているのだ。だから、人がテレビを観るために集まっても大丈夫な広さのため、ブラウン管が設置してあるのだと思われた。
 六号室の隣の部屋、その広い空間にある部屋のプレートには『図書室』との表記があり、越智はそれが気になった。また、図書室の向かい側には『喫茶』という手書きのプレートがあった。喫茶とは一体なんなのか。越智はそれも気になった。六号室前のテレビには、ぞろぞろと人が集まって、パイプ椅子に座ってバラエティ番組を観ている患者がいる。古いテレビのブラウン管からは、いわゆる『ガヤ』、つまり編集するときに付け足した音源で、笑い声の音声が入っていたりするのだが、それに釣られて笑う患者はいなかった。番組はお笑い芸人が司会になっていてギャグを飛ばして笑いを誘っているのだが、もちろんこの病棟に健全な笑いはないのだったし、越智自身も、テレビから聞こえてくるガヤの笑い声に神経をとがらせ、びくびくしてしまうのだ。こんなもの、心に毒だな、と越智は結論する。統合失調症は特に、「テレビがおれの個人情報を垂れ流しにしている」という妄想が起こることがある。だから、気をつけねばならない。そんな混乱した心の闇が襲ってきたらどうする気だ、と。
「テレビより、読書だな」
 越智は汗を拭って、鍵のかかった図書室を、開けてもらおうと思った。
 しかし図書室を開けて本を読むより先に、病棟探索だろう。越智は、歩く。どうやら、奥の方は男性患者の部屋で、手前の方は、女性患者の部屋であることがわかった。男女が同じ病棟でも、なにせ入っているのが老人ばかり、間違いが起ころうはずもないのだろう、そんな気が越智には、した。越智の部屋にはさっきから誰も寝ていなかったが、他の病室では、意外とみんな、ベッドに横になっている。そしてその姿は、なんとも痛々しい。病室を覗くと、千羽鶴が天井からぶら下がっていて、その鶴を見ながら「うーうー」唸っている老婆の姿があったりした。他にも、ベッドの横に『おまる』が設置されている病室もある。歩行がほぼ不可能なのだろう。
 ナースステーションの前には、ダイアル式の公衆電話が設置してある。十円玉や百円玉を入れるタイプの、ピンク色の電話だ。その電話の目と鼻の先には、のれんがある。『湯』と書いてある。ここが、浴場なのだ。浴場の向かいは、洗濯機。乾燥機は付いていない。そういえば、トイレの中にも、二台ほど洗濯機があったな、と越智は思い出す。これは、洗濯は自分で、ということなのだろうな、と想像する。そして、ナースステーションに沿って移動すると、一番手前から曲がって病室のない空間に出て、そこは行き止まりになっていた。そう、つまりナースステーションを中心に四角い病棟は、丸く一周できるはずなのだが、実際は『コの字型』になっていて、入れないスペースがあるのだ。ここには、鉄柵がはまっている。鉄柵の中にも、更に鉄の柵がはまった『檻』がある。鉄格子の部屋。そこは青くて薄暗い照明の空間で、越智は怖くなってすぐにそこから引き返す。出来れば、見なかったことにしたいくらいだった。
 図書室の鍵を開けてもらいに行くか、と越智は気分を入れ替えた。

 ナースステーションのドアを開けようとすると、鍵がかかっていた。よく見ると張り紙で「ご用の方は窓から」と書いてある。ここには出窓があるのだ。越智が出窓を開けると、中では看護師さんが二人がかりでなにやら作業をしていた。木の箱に、なにかを詰めている。木の箱は細かく仕切りがあり、患者の名前らしきものが書かれ、貼り付けてある。看護師の一人が越智に気づく。
「ああ、越智さん。なんでしょう? 図書室? それは明日ですね。図書室は大体いつも、お昼頃だけ開放させてあるんですよ。それも毎日というわけではないんですけどね。特に何日にだけ開放とかが決まっているわけじゃなくて……。だから、明日です、明日、体操の時間が終わったら、図書室に行ってみてください。……体操っていうのは…………ああ、そっか、越智さんはまだタイムスケジュールを知らないんですよね。失礼しました。それも、明日、誰か職員に訊いてみてください。誰でも大丈夫、教えてくれます。今日はこれから、お薬の時間です。夜のお薬の時間が八時。消灯が九時です。朝は、六時が起床の時間になっていて、歯磨きや顔を洗ってもらって、そして七時に朝食になっています」
 越智はナースステーションから、ロビーにある大きな時計を見る。時間は、七時四十五分を指していた。越智は看護師に頭を下げ、自分の部屋に戻ることにした。

 部屋には、頭部が禿げたやせ形の男が、腕組みしながら越智を待っていた。
「新人さんだね。僕は堀川。よろしく」
 コミュニケーションが取れる人物! 越智は驚いた。患者が、話しかけてきたことに。
 男は、自分はもう老境で、七十才であること、そして他の患者も大体老人で、だからこの六号室の人間も、四人が自分と同じ七十才前後で、越智と、あともう一人が若い人間だ、と説明した。
「若いと言っても、二十代の君と違って、おっさんだけどね」
 堀川は、病室の一番入り口近くのベッドで、越智とは向かい側だった。越智は左右みっつづつのベッドの真ん中で、堀川とは斜めの位置にある。堀川は腕組みを解除し、自分のベッドの横の荷物置きの棚から、トランプのようなものを取り出す。タロットカードだった。
「タロット。僕も『魔女』の真似事をしたくて、取り寄せた。トランプ占いの方が得意なんだけど、最初だからタロットで。さ、一枚カードを引きたまえ」
 カードを後ろ向きにして差し出されたそのタロットの束から、越智は一枚カードを引いた。堀川はそのカードを越智から奪うように取り返し、カードの表を向けて、越智に見せるようにした。
「タワーのカードだ。君はもしかして、疫病神なのかもな」
 ひひひ、と笑うその瞳は、越智にしゃべりかけつつ、越智の方を向いていなかった。他の患者と同じ、虚ろな目だった。「もうすぐ夜の薬の時間だよ。並ばないとね」
 そう言い残した堀川は、タロットカードをしまって、廊下に出ていってしまった。それと行き違いで看護師さんが入ってきた。紙コップを持っている。
「越智さん。お薬の時は、各々自分のコップに水を入れて列に並ぶんです。今日はまだ自分のコップがないでしょうからこの紙コップに水を入れて並んでくださいね」
 越智は紙コップを受け取り、薬の待機列に並ぶことにした。

 かなりの数の患者は、どうやら薬の自己管理能力がないらしかった。患者に口を開けてもらって、粉薬の粉末を看護師が口の中にさらさらと落とし込んだりする場面が、並んでいると多く見受けられた。また、カプセルを口の中に放り込んでもらい、水を飲むふりをして、あとでそのカプセルを吐き出す患者も多かった。吐き出す人間は大体決まっているから、カプセルを口から取り出して捨てようとするところを、看護師が叱る、という場面もあり、その光景はい「いつもと変わらない日常の一場面」として、越智の目に刻まれることとなる。
 薬の時間は、テレビが消される。ナースステーションの入り口付近に薬の木の箱を持ってきて、ロビーに続くように患者に並ばせる。患者に患者番号というものをしゃべらせ、それを言って貰ったあと、薬は貰える。コップを患者に持ってきてもらう、というのはどういうことかというと、看護師が見ているその目の前で、コップに汲んだ水で飲んで貰い、それが確認されてはじめて、この「行事」は達成される。とにかく、患者はみな、薬を毛嫌いしている風だった。だが、飲むのは嫌いだが、「並ぶ」というタスク自体は大好きなようで、薬の時間である八時の十分前には、長い列ができはじめているのである。
 越智は薬を紙コップで飲み、部屋に戻る。すると、さっき占いらしきものをしてくれた堀川さん以外に、ここの住人のうち二名が、ベッドに横になっていた。が、堀川さんはけらけらと笑うのみで、このひとたちを紹介する気はないようであったし、その二名も、先に薬を飲み、消灯の時間まであと一時間あるが、寝る気が万端なのであった。
 越智が挨拶を自分からするか迷っていると、金属音が鈍く聞こえ、音は近づいてきた。そして、音を出しているその車いすが、この六号室に入ってきた。車いすには、やせこけた眼鏡の男が乗っていた。腕も、今にも折れそうなほど細いのだが、その男はうまい具合に、車いすを操作していた。車いすの上から、男は越智に頭を下げ、挨拶した。
「君が今度入ってきた越智くんだね。僕は田村。よろしく」
 越智も、戸惑いながらも田村に頭を下げた。田村の声はか細く、今にも消え入りそうだったが、声の小ささとは対照的に、はきはきした口調だった。
 挨拶が終わると、田村は車いすをベッドの横にぴったりと寄せて駐め、身体を起こし、長い時間を掛けて、車いすからベッドに上がろうと、動き出した。ベッドは入り口から一番近く、堀川の向かい側の場所で、越智の隣だった。越智は黙って、その様子を見た。田村の手足は震えていた。唇の端からは泡をだしている。田村は、激しく息を吐きながら、ベッドに上手く上がり込んだ。上がり込んでから、隣のベッドである越智に話しかけた。
「若いね。君、何歳だい」
「二十三歳です」
「じゃあ、まだ未来があるわけだ」
 未来……。越智はどう応えていいかわからなかった。自殺未遂してこんなところにいる自分にはもう未来なんてないんじゃないか、と思ったから。越智は涙ぐんだ。
「僕の向かいの笑ってる人が堀川さん。で、部屋の奥で君の隣で、寝ている人が村上さん。君の向かい側の、真ん中でやっぱり寝ている人が、飛田さん。で、奥で村上さんの向かい側が、まだいないけど、小池さん」
 田村さんは親切に教えてくれた。しゃべっている内容からは常識人に思えたが、その声はかすかに震えているし、身体もベッドの上で震えていた。越智はただ「教えてくれてありがとうございます」と、頭を下げることだけをした。会話はそこで途切れた。誰も、なにも、話さなかった。
 どうしていいかわからず、眠るにもまだ夜八時で眠くないし、消灯にだってあと一時間あるしで、越智が時間のつぶし方を考えていると、リノリウムの床を蹴りながら地団駄を踏んで歩いているような不穏な音と、なにかを早口でまくし立てている声が近づいてきて、その音と声の元凶が、六号室までやってきた。それは消去法でいうと、小池さんという人だった。
「アラビア数字で言うと1、2、3、4、5、6、7、8、9、が自然数でペアノの公理系! つるかめつるかめつるかめつるかめ算!!」
 早口で小池さんはなにかしゃべっていた。小池さんは越智のベッドの目の前で、そのうるさい足音を止める。そして、しばらく黙り、ベッドの上で上半身だけ起こしていた越智を、じっと見据えた。そして越智に話しかけた。
「無理数なんてよく言うよ。無理強い無理難題無理が通れば道理が引っ込む分数で表すことができないのが無理数分数で表すことができるのが有理数!」
「は……はい」
「おめぇさ誰だおめこかおめぇはおめこおめこおめこおめこおまえおまおまおまえおまえおまえおまえおめおめおまおめおまおめおままままままま……」
 小池さんの言葉はループ状態に陥っていて、最初はなにかを越智にしゃべりかけてこようとしたのだろうが、その声は完全に、誰か相手に向かってしゃべる気が失せてしまい、ただ自分の内側に対し声を発するだけとなっていた。だが、小池さんは越智を見ているようにも思え、越智はどうしていいかわからなかった。そして誰も助け船は出さない。何分間経ったであろうか。小池さんはまだまだ「おまおめおままおまおめおめまままもめおまおめおまえおめこおまえおめこおまめええええめめめまままおまおめおめおめ」と、呪詛を唱えている。
 仕方ないので、越智は掛け布団で頭を覆い隠して、眠ったふりをした。それでも小池さんの声は止まなかったが、九時の消灯の時間の前に、男のヘルパーさんが点呼を取りにやってきた時、強制的に小池さんをベッドに押しやり、落ち着かせた。部屋の電気を消されると、越智は疲れがどっと出て、深い眠りに落ち込んだのだった。小池さんの声も止んでいた。


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