第19話

文字数 1,244文字




 六号室の雰囲気が変わったのは、越智が村松に熱い梅ジュースを頭から注がれた、その次の日からだった。目覚めが遅い越智が目覚めると、周りの空気が変わっていた。そう越智は感じた。気のせいだ、と自分に言い聞かせた。しかし、気のせいではなかった。
 田村さんが朝っぱらから参考書を開き、ノートになにか書いているのを見て越智がおはようございますの挨拶をしたが、無視されてしまった。聞こえなかったのかと思い、もう一度挨拶をすると、今度はベッドの上の身体の向きを変え、田村さんは越智から顔を見られないようにしてしまった。二人のやりとりを見て堀川さんが大きく口を開けて笑ったので、越智は説明を求めようと堀川さんのベッドの方を向いたが、堀川さんは顔を背け、哄笑し、腹を揺すった。越智は不愉快に感じたが、それを察知したのか、堀川さんは歯ブラシとコップを持って洗面所に出かけてしまった。部屋の外で堀川さんは口笛を吹いている。部屋の他の人間も無口だ。飛田さんも村上さんも、押し黙っているし、小池さんは体調が悪いのか沈黙している。部屋を沈黙が支配し、越智は気まずくなって部屋を出た。
 今日は、散髪の日だった。


 病院の外部から床屋を呼び、この病棟の三階にある散髪用の椅子や鏡や洗面台が設置してあるところで、髪を切ってもらう。代金は『お小遣い』から引かれる。散髪は二ヶ月に一回あるらしい。みんな、楽しみにしている日なのだと、土方はしばらく前に越智に語っていた。土方も大層楽しみにしているみたいだったから、床屋の話をしようと越智は土方の姿を探した。土方は、ロビーのテレビで、ワイドショーを観ていた。土方は咳を繰り返していたが、そこに挨拶して越智が話しかけると、土方は越智を無視し、露骨に顔を背けた。目はテレビに視線を合わせていて、越智の身体でテレビが見えない、とばかりに、身体を動かし、
「邪魔だ」
 と、言って、手で越智の身体を振り払った。
 笑顔で接すればどうにかなる、と越智は思い、もう一度朝の挨拶をした。すると、目線はテレビのまま、
「風邪を引いちまった。フカワ菌のせいで」
 と、呟いた。
「……え?」
「フカワ菌は、汚らしいばい菌だ。出て行け、病原体のフカワ菌」
 越智は戸惑った。今、土方はなんて言った? フカワ菌?
「秀さんは正しかった。フカワ菌は、汚い」

 フカワ菌は、汚い……?

 越智の頭の中が真っ白になり、それから、目の前で火花が飛び散るような映像が見え始める。脳内でシナプスが引きちぎられるような痛みが続いて越智を襲ってくる。越智は、その場でうずくまり、頭を両手で抱えた。泣きそうになる。僕は、フカワ菌じゃない。僕は、ばい菌じゃない。越智は、そう呻く。だがその声は、ロビーで叫んでいる患者たちの声にかき消される。越智は立ち上がり、ダッシュでその場から立ち去った。散髪には、行く気になれず、行かなかった。ベッドのシーツにくるまって、その日をやり過ごした。食べるご飯は、マズかった。


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