第1話

文字数 1,733文字

 永遠に続くはずだった昏睡から越智という男が目覚めると、彼には相変わらずの悪夢が待っていたのだった。首に穴を開けられ、チューブをそこに通されて、チューブから液体を注がれるその体中の痛みは、それ以上に痛い心の悲鳴にかき消される。睡眠薬のオーバードゥーズによる自殺未遂を、無理矢理生に蘇生させようと救命病棟の医師が試みたのは、越智の首に穴を開け、大静脈から心臓の根元までチューブを通し、そこにリカバリー用の液体薬を投入することだった。胃洗浄では間に合わなかったのだ。
 日本の一年間の自殺者の数は、約三万人。越智も、その三万人の中に入るはずだったが、彼が死ぬことはその運命から許されなかったのだった。『運命』というと、いかにも『選ばれた者』といった風だが、越智は『選ばれない人間』だからこそ、生き延びてしまった、と自分では思った。死に神から拒絶され、生き延びても、『選ばれた人間の選ばれた人生とはほど遠い』ありきたりな人生の再開を望まれたのだ。運命の女神の振ったダイスによって。
 ともあれ越智が目を覚ました場所は、救命病棟で、そこはさながら戦場だった。まさに『野戦病院』といったような。
 相変わらずの悪夢、その名を『現実』と呼ぶ。真剣に唾棄すべきものであり、悪い冗談のようでもあり、越智にとってみればそういった悪い夢と地続きの場所、それが現実だった。
「生きてる……のか」
 落胆。まだ死に神は迎えには来ない。まだ、現実と格闘せねばならない、この傷付いた身体で。
「お目覚めですか」
 横を向くと、そこにはナース服を着た女性がこっちを見ていた。看護師だった。清潔な風呂上がりのような香りが、その看護婦からは匂ってきたのを、越智は感じた。
 辺りを見回す。戦場。そのバトルのフィールドは広かった。そこが病院であるのは理解できたが、場所は普通の病院のような個室ではないのだ。いや、部屋ですらない。大広間、と形容できる場所だ。白くて広い空間に、無数のベッドが置いてあり、そこに救急患者たちが寝ていて、そのベッドの間を、何人ものナース服が歩いている。患者の呻き、看護師の足音、それらを、そこらで交わされるはきはきした伝令の声のような言葉が埋め尽くしている。戦争のことなど越智は知らないが、確かにここは野戦病院といった風だった。
「今、先生を呼んで来ますね」
 そう言うと看護師は靴音を鳴らして越智のそばを離れていった。
 越智は自分の姿を見る。病弱な痩身の身体に、浴衣みたいな前開きの患者服を着せられていて、下半身にはおむつを穿かされている。首の大静脈からはチューブ、それから腕にも点滴のチューブ。股間にもカテーテルのチューブが通されている。大病人である。
「ここがどこだかわかりますか」
「病院」
「あなたは自分がなにをしたか知ってますか」
「知ってる」
「もう少しで手遅れになるところだったんですよ」
「はぁ」
「無事で良かった」
 精力的な瞳をした医師が、越智に言い、越智は「はぁ。はい。はぁ」などと曖昧な返事で答えた。医師は忙しいらしく、越智とやりとりをしていると看護師が来てなにかを耳打ちし、それに頷くと、その場を去った。越智は長い間、この清潔なバトルフィールドを眺めていた。自分は負傷兵だ、と越智は思った。

 ここは四六時中明るい。だから時間を知ることは出来なかったし、時間を知る意味もないので越智は気にせず、ベッドで放心していた。悪夢が去らないならどうしたら良いか。しかし今は、それを考えるターンではなかった。
 どれだけ時間が経ったかはわからないが、目を覚ましてからもう一回寝て目覚めると、越智の見知った顔が訪ねてきた。
「おれだ! おれがわかるか!」
 訪ねてきた人物は自分の胸に握った手を音を立てて叩くと、そう言った。自己主張の強い奴だな、と越智は思った。
「友安、だな」
「ああ、そうだ。しゃべれるなら大丈夫だな」
 なにが大丈夫なのかはわからなかったが、まあ、自分は生きているのに間違いはない、と確認する越智。友安は言う。
「早く元気になれ」
「ああ」
 会話は長く続かず、友安も病人の手前、遠慮したのか、会話を早々に断ち切って「また来る」と言い残して帰っていった。越智は目で友安を見送るとまた眠りに落ちた。


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