第13話

文字数 2,477文字

     ☆


 この第七病棟は閉鎖病棟である。故に、外へ出かけられない患者の体力はどんどんすり減っていく。そこでここでは、朝、ラジオ体操の時間があり、また、午後一番に『行進』の時間がある。その日は『おやつ』の時間があり、越智も期待を膨らませていたのだが、その前に行進を済まさねばならず、イライラを募らせていた。越智だけでなく、「売店組」の患者は、みんな今か今かと待ちわび、普通に口に出して「おやつまだガーッ」と辺り構わず叫んでいた。越智も、出来ることなら叫びたかったのだが、自粛しておいた。
 行進。それは、つまりウォーキングである。この病棟は廊下が輪っかのようになっており、魔女のいる牢屋の前の鉄柵を解放すれば、ぐるりと一周することができる。そこで、この行進の時間はスピーカーから軽快な音楽を鳴らし、みんなで銘々歩きながら、足腰の筋力低下を防ぐのである。今日もいきなり、音楽がかかる。それもビートルズの初期の曲だ。これが、ビートルズでもメンバーがLSDを摂取しながらつくったアルバム『リボルバー』からの選曲であればこの病棟にジャストフィットなのだろうが、もちろんそうではなく、シングル曲を集めたアルバムの最初の方を流しているのだった。スピーカーは音割れしながら、ロックンロールを吐き出す。それに合わせて、渋々ながら、越智は行進に参加した。これはつまり『監獄ロック』の具現化である。
 しばらく歩いていると、ヘルパーさんの怒声が聞こえていた。越智が視線を向けると、ロビーのところで堀川さんと田村さんが、チェスをしていた。今では越智も知っているが、こういうゲーム類は全て、独房の魔女が教えたという。チェスににハマっているのだ、この二人は。あごに手をやりながら、堀川さんは唸って次の手を考えている。そこに口での挑発を仕掛けながら、田村さんが車いすを揺らして待っている。
「三秒ルール、三秒ルール。堀川さん。三秒ルールなんだから三秒以上考えたらダメだよ」
 あきらかに三秒ルールの使い方を間違えている。巷に伝わる三秒ルールとは、食べ物を落としても三秒以内なら拾って食べてもセーフ、というものではなかったか。唸りながら堀川さんがポーンを動かしたが、
「はい。チェックメイト」
 と言って、すぐにキングを田村さんが取って、ゲームは投了した。「じゃ、おやつのダースチョコレートは一個、僕がもらいますよ」
「ありゃぁ。参ったぁ」
 負けておやつも少し取られるのに堀川さんは笑顔だ。
「はい! ゲームは終わったでしょ! 行進よ、行進! はい、さっさと歩くの」
 おばちゃんヘルパーが堀川さんをせき立てる。堀川さんは田村さんに挨拶し、それから歩く集団に混じった。
 田村さんは、歩く姿をずっと見つめていた。震える声で、
「歩けるなら、歩けるうちに存分に歩いた方がいいよ!」
 と、堀川さんの背中に投げかけた。堀川さんは、手を上げて、左右に振って、それに応えた。


 お小遣い、そしてお小遣い帳、なるものが、『売店』に行ける患者にはあるのである。お小遣いとはお金のことであり、入院費に含まれていて、それが二週間にいっぺん、銀行から下ろされ、病棟に運ばれてくる。第七病棟にはないが、他の、開放病棟などには自動販売機が設置されており、お小遣いを使いジュースの購入が、出来るらしい。お小遣いは一人一人が自分で管理し、お小遣い帳に買った物とその代金を記入する。看護師長の判子を押され、チェックされ記入は完了する。第七病棟では、売店に行く時と、公衆電話の使用時に、お金が患者にも必要になるのだった。
 行進が終わり、息を切らせながら、越智は自室に戻る。土方なんかは、普通に歩いている患者の集団を何度も追い越し、早歩きをずっと続けていた。体力が有り余っているのだろう。行進終了後すぐに越智は、六号室に戻ると自分の棚に置かれたプラスティックケースから、鍵を取り出す。鍵とは、お小遣いとお小遣い帳をしまってある金庫を開けるものだ。越智は高揚した気分で、ロビーに行き、金庫の鍵を開ける。金庫は頑丈なもので、駅のワンコイン・ロッカーを強化したバージョンのような外観をしている。お小遣いは財布に入っている。これを持って、病院の敷地内、庭にある売店にヘルパーさん同伴で行くのだ。
 ヘルパーさんが号令を掛けると、売店に行くメンバーがぞろぞろと集まってくる。ほとんどは六号室のメンバーだった。越智からすると異様に見える六号室の面々だが、症状としては、この病棟の他の患者より軽いのであろう。もっとも、ヘルパーさんによると「この人たちは一生病室住まい」なのだそうだが。そこに自分も含まれているのかもしれない、と思うと越智はぞっとした。
 ヘルパーさんの手によって重い出入り口の扉が開く。階段もあるが、車いすの田村さんもいるし、なにぶん高齢者が多いので、エレベータを使うことになる。エレベータのボタンも、ふたを鍵で開け、押せるようになる。
 エレベータに乗り、降りる。鉄格子の外、裏庭のある通路に出た。越智の横にいた土方が「寒っ」とくしゃみをする。そう、今は冬なのだ。立ち止まり、越智は通路を眺め口を開いて感嘆を漏らした。雪だ。雪が降っている。通路から裏庭の芝生に降り積もる積雪に向かい、売店組は飛び出す。ヘルパーさんも最初は「コラッ!」と制するように怒っていたが、みんな降りかかる雪と白い景色、芝生の上の雪に興奮してそこらを駆け回るのを見て、怒るのをあきらめた様子だった。
 堀川さんは幼児が飛行機の真似をする仕草で「旋回」していた。飛田さんは身をかがめ、地面の雪を食っている。空を仰ぐ村上さんに、雪の上に寝転がってぐるぐる転げ回る土方は「寒っ、寒っ」と唸って笑っている。小池さんは、
「白粉白粉犯す白粉おら舞妓さんさ白粉の舞妓さんさ犯したんだあのおめこさも雪だったさ白粉白粉」
 と、念仏のごとく呟き、雪の上で足踏みし、円を描くように回っていた。
 越智はただ、外の世界がこんなに美しいとは今まで思ったことがなくて、雪の上に仰向けに、大の字で倒れた。


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