第20話

文字数 3,165文字




 風邪が広がっている、らしい。病棟では食事の前にアルコール消毒を行うが、それでも風邪は蔓延し始めているのが、実感として越智にもわかるほどである。
 風呂の日がやってきて、無言のまま、越智は浴場へ向かう。服を脱ぐ時も、みんなから距離を置かれている。風呂は狭いのに距離を置かれるというのは、他の人はスペースを圧迫されてしまうのにそうしてるわけで、越智には屈辱だった。そして、越智が浴槽に浸かると、突然飛田さんが金切り声で、
「フカワ菌でバッチィ! お風呂がブサイクフカワ菌で汚されたッ! もうこんなバッチィ風呂には入れない!」
 と叫び、風呂を出て行ってしまった。今まで飛田さんがしゃべったところをほとんど見たことがない越智だったが、そのほとんどないうちの一回がこんな形だったとは、越智にはショックが大きかった。越智は目に涙をためながら、浴槽を出た。

 風呂の日は洗濯がある。洗濯はいつでもいいのだが、基本は風呂の日なのだ。越智は洗濯機に服や下着を入れ、回す。ぐるぐる回るランドリー。洗濯機が止まったら、洗濯ばさみの物干しと洗った物を持って、屋上に上がる。屋上は、風呂のある日だけ、開放されているのだ。
 真冬のひまわりのように、鮮やかに揺れていたかったあの頃の記憶。結局季節外れの枯れたひまわりに振り向く者はいなかった。喩えるならそんな記憶。屋上に上り今が二月だというのを肌で感じると、生きているのがわかる。僕は生きている。越智は、しかし遠く思い焦がれても、外の世界は遠すぎて、手を伸ばそうとしても、見えない障壁で遮断されてしまって手は届かなかった。これじゃただ、死んでないだけだ。あまりに遠く、戻ってこない今まで積み重ねた物事。そして今度は、その思い焦がれているはずの外の世界から侵入した、悪い夢のような過去の亡霊たちから犯される。このディストピアに、いつから自分は落とされたのかを自問自答しても、そこに答えなんてないのだ。ただ、享受し、感じて、生きることだけが許されているのだ。この現実はなんなんだろう。
 越智は屋上で洗濯物を干すと、屋上を歩いた。空気がひんやりとして気持ちいい。ピアノの旋律が聞こえる。 図書室からの音色だ。村上さんが弾いているであろうその拙い旋律を聴きながら、越智は洗濯物がたくさん吊されている場所を、洗濯物をかき分けながら奥に進んだ。奥にあった給水塔の下で、トランプのゲームをしている二人の人物がいた。一人は看護師長で、もう一人は魔女だった。魔女が越智に気づき、手を上げて挨拶をする。越智も頭を下げて挨拶を返した。手招きするので、越智は給水塔の下のテーブルまで進んだ。
「見られちゃったね」
 看護師長はばつが悪そうに言って、舌を出した。「篠崎さんを独房から出して一緒にカードゲームをしてるなんてこと、みんなには内緒で頼むよ」
「わかりました」
 越智は頷いたが、そうするまでもなく、今の越智に、話をする相手なんていないのだ。
 看護師長と魔女がやっているのはポーカーだった。越智はゲームの様子をしばらく見ていたが、魔女がまもなく、ストレートフラッシュという手であがった。一体この役が出るのは、どのくらいの確率なんだろう、と越智は思った。魔女は自分の坊主頭を叩いて、ゲームに勝ったことを喜び、それから越智の方を向いた。
「自殺は闘争か? いや、違う。自殺は、体制に対する従順だ」
 越智は目頭が熱くなった。そう、今、越智の心は揺れているのだ。揺れている、というより、歪んでいる。正直なところ、フカワ菌と呼ばれて、耐えられなくなってきている。死にたいのだ、とても。屋上の奥まで進んでここまで来たのも、フェンスを跳び越えたい気分だからだった。ここには看護師長がいる。だから、言うべきなのだ、フカワ菌のせいで風邪が流行っている、といわれのないことを言われていることを。自分は、とても苦しいということを。死にたいのだ。でも、従順は嫌なのだ、ということを。
 だが、越智は看護師長になにも言えなかった。ここで言えるくらいならそもそも、越智はネズミ講を訴えることをしているだろう。越智という人間には、そんな簡単な、誰かになにかを訴えるなんてことはできないのだ。いじめらている時も、恋人が浮気して誰かとセックスしながら電話を掛けてきた時も、それに今だって……。
「どれ。ここにタロットカードもあるし」
 いたずらそうな笑みを浮かべて、魔女はトランプを束ねて片付けてから、テーブルの片隅に置いてあったタロットカードをケースから取り出した。
「タロットカードは七十八枚。うち、大アルカナは二十二枚。でも今回は、少年が堀川のじいさんから受けたのと同じ『スプレッド・ワン』で占おう。ホントは全部フルで使いたいところだけどね」
 看護師長は頬杖をついて、魔女を見ている。越智は、テーブルの前で直立不動になっている。冬の風は間違い間違い進むピアノの音を給水塔の下まで運んできている。
「タロットの手順は、シャッフル、カット、スプレッド、リーディング、即ち、混ぜて、山にし、並べて、読み取るの四工程。スプレッドは、展開、という意味で、一枚で占うのが『スプレッド・ワン』。これでなにがわかるって? ふふ。そりゃぁ、……雰囲気さ」
 魔女はタロットをテーブルに広げ、片手だけで混ぜていった。それから伏せたままのカードから、一枚選べと、越智に言った。
 越智がカードを引くと、魔女は笑った。
「なるほどね。君らしいよ」
 看護師長もそう言って笑った。それがなんのカードなのか、越智にはわからなかった。なぜなら、心がもう限界なのだ。頭にはもう、なにも入らない。ぐるぐると自問自答のスパイラルが精神にひしめいている。カードの絵柄さえ判別できない。
「私がなんで『魔女』と呼ばれているか知ってるかしら。人食いだから? 違う。ギャンブルが得意だから? 違う。珈琲をつくるのが上手いから? 違う。私が魔女と呼ばれるのは『ここ』が私の『生まれ故郷』だからなの。『私が帰る場所』は、いつもここ。ここでしかない。だから、ここに陣取っている。つまりは『呪われた存在』なのよ、少なくとも、ここから出たい人間にとってはね」
 魔女は越智の心の中に干渉するかのような染み渡る声でそう語った。
「僕も、呪われた存在だ」
「ううん、違う。タロットにも、君の顔にも、ここから出たいっていう欲求が滲み出てるわよ。『生きていたい』ってね。あなたが帰るべき場所は、ここじゃないわ」
「僕には帰る場所なんてない!」
「でも、ここにも居られそうにないじゃない。違うかしら」
 越智は息が詰まった。そうなのだ、ここにはいられない。僕は、ここが故郷になるような、何十年もここに閉じ込められていて、平穏に暮らすひとたちとは違う類いの人間なのだ。ここで和気藹々なんて、できない。そうなのだ、僕はここから、逃げ出したい。でも、どこへ逃げる?
 越智は看護師長を見る。看護師長は「なんだい?」と、尋ねてくる。しかし、越智は口から言葉が出なかった。喉元からでない声を腹の中にしまった越智は、後退りし、それから無言で、給水塔の下のこのテーブルのある場所から、頭を垂れて逃げ出すかのごとく立ち去った。一瞬だけ、吊された洗濯物の隙間から魔女と看護師長の方を向いたが、二人はもう越智のことは忘れたかのように、長い長いキスをしていた。越智は胸が張り裂けそうな気分になった。自分は魔女のことを、異性として意識していて。つまり……好きだったんだな。越智は自分の気持ちに今になって気づいた。が、それも胸の奥にしまっておこうと思った。
 ピアノはまだその演奏を続けている。越智は、嗚咽を漏らした。ピアノは、鳴り止まない。いつまでも。


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