第9話 おせんとお仙
文字数 2,144文字
佐吉と待ち合わせをした自身番に戻ろうとする真輔に、栄三郎は同道した。
「手下の平太を、おせんが働いていた両国の盛り場にやって、おせんの男を調べさせています。佐吉さんに会った後、私の店で平太を待ちませんか。何か聞きこんで来るかもしれません。」
栄三郎は、親の代からこの近くで仕出し屋を営んでいて、今は女房のおきぬが切り盛りしている。真輔と百合の婚礼でも、栄三郎の店の料理がふるまわれていた。
「商売の邪魔にならなければ、ぜひ。」
「今日は昼の弁当で終わってます。明日の仕込みもあらかた終わってる頃で。」
岡っ引きの仕事に没頭しているようで、栄三郎は店の仕事も把握している。自身番には、佐吉がすでに戻っていた。佐吉を家に帰してから、二人は栄三郎の仕出し屋に向かった。
栄三郎が言った通り、仕出し屋の仕事は終わり、片づけが進んでいた。栄三郎は女房のおきぬを真輔に紹介した。店は一階が調理場や奉公人の部屋になっていて、隅の急な階段を上った二階が、栄三郎とおきぬの住まいだった。栄三郎は川に面した居間に、真輔を案内した。
平太の帰りは早く、おきぬが二階に茶を持って来たのとほとんど同時であった。勢いこんだ平太の報告を、茶を出しながらおきぬも聞いていた。
「矢場でのおせんは、若いし、客にはそれなりに人気があったそうですが、仕事仲間の間では浮いていたようで。何でも、お高い、客を選り好みするとか…。」
「選り好みってのは、どういう風にするってんだい。」
おきぬが、言葉を挟んだ。栄三郎も平太も、おきぬが話に加わっても気にしていないようだった。真輔は、三人の会話を黙って聞いていた。
「へえ、何でも懐具合の良さそうな客が好みで、そういう客を仲間が相手をしていると平気で割り込んで来たとか、つましいこずかいで楽しもうって客の相手はろくすっぽしないとか。」
「玉の輿でも夢見てたってのか。」
「へえ。昔、水茶屋にいたお仙とか言う娘の名前を口にしていたそうで。」
お仙と聞いても、死んだ娘と同じ名前だという以外何も思い浮かばない真輔と栄三郎が顔を見合わせていると、おきぬだけが、わかったというような顔をした。そして、手鞠歌にある、美人で名を馳せた茶屋娘のことで、望まれて武家に嫁いだという逸話も残っていると説明してくれた。
「どこの水茶屋だ。」
思わず聞いた栄三郎に、おきぬは笑いながら答えた。
「大昔の話ですよ。有名な絵師が浮世絵に描いたそうですよ。」
「大昔の話なのに、若い娘が知ってるのか。」
「殿方に限らず、女も美人にあこがれるものですよ。お仙は美人の草分け、伝説みたいなもんですから。」
真輔も栄三郎も、なるほどと頷くしかなかった。
「しかし、矢場女じゃ、お武家様に見染められるってことはあるめえ。」
栄三郎が顔をしかめると、真輔も苦笑した。
「そうですね。矢場で遊ぶ武士は、それこそつましいこずかいで楽しもうという輩です。」
「お武家様に限らねえですよ。矢場は、商人にしても職人にしても、若い連中がたまの休みになけなしのこずかいを握って行くところだ。おせんの好みの客ってのは、どういう筋なんだ。」
答えは平太が、ちゃんと聞きこんでいた。おせんが好んで相手をしたのは、商用で江戸に出てきたような地方の商人だった。商売が上手く行き、懐が暖かくなったところで、江戸の盛り場を楽しもうとやってきた客を選んで近寄っていたそうだ。
今度はおきぬが顔をしかめた。
「続きゃしないだろうに。」
「へえ。おかみさんの言うとおりだったようです。」
栄三郎の胸のうちは、やはりおせんの相手を見つけるのは困難だという側に再び傾いていた。江戸者でないとしたら、おせんともんちゃくがあった後では、尻に帆をかけて江戸を発っているだろう。だが、真輔はまったく別のことを考えていた。真輔には、おせんの生前の話を聞けば聞くほど、目にした亡骸の印象とかけ離れてくるのだった。
考え込む真輔が結論を出すのを、栄三郎たちは待っていた。真輔は、おせんの姿を細部まで思い起こした。着ていた着物の色柄、崩れたまげに残っていた手絡、そして姉が買った下駄。
「矢場女には、見えなかったのです。」
真輔のつぶやきに、三人は顔を見合わせた。
「おせんのことですか。」
栄三郎が面食らったように聞いたが、聞いた瞬間、確かにそうだと納得していた。
「真輔様は、おせんが会った相手が、客じゃないとお考えですか。」
「私が見たおせんの姿と、話に聞くおせんとが一致しないのです。普通の町娘の晴れ着姿のように装っていたので。」
「確かに、着ていたのは、嫁入り前の娘にふさわしい物でしたな。」
おきぬが再び話に入ってきた。
「娘らしい格好で会いたい相手だったと言うことですね。本当に好いた相手だったんですよ。」
栄三郎の頭に一つの名前が浮かび、同時に喉元に苦いものがこみあげていた。真輔が栄三郎に向き直り、遠慮がちに聞いた。
「栄三郎さん、駿河屋の弥吉に会いたいのですが。」
「手下の平太を、おせんが働いていた両国の盛り場にやって、おせんの男を調べさせています。佐吉さんに会った後、私の店で平太を待ちませんか。何か聞きこんで来るかもしれません。」
栄三郎は、親の代からこの近くで仕出し屋を営んでいて、今は女房のおきぬが切り盛りしている。真輔と百合の婚礼でも、栄三郎の店の料理がふるまわれていた。
「商売の邪魔にならなければ、ぜひ。」
「今日は昼の弁当で終わってます。明日の仕込みもあらかた終わってる頃で。」
岡っ引きの仕事に没頭しているようで、栄三郎は店の仕事も把握している。自身番には、佐吉がすでに戻っていた。佐吉を家に帰してから、二人は栄三郎の仕出し屋に向かった。
栄三郎が言った通り、仕出し屋の仕事は終わり、片づけが進んでいた。栄三郎は女房のおきぬを真輔に紹介した。店は一階が調理場や奉公人の部屋になっていて、隅の急な階段を上った二階が、栄三郎とおきぬの住まいだった。栄三郎は川に面した居間に、真輔を案内した。
平太の帰りは早く、おきぬが二階に茶を持って来たのとほとんど同時であった。勢いこんだ平太の報告を、茶を出しながらおきぬも聞いていた。
「矢場でのおせんは、若いし、客にはそれなりに人気があったそうですが、仕事仲間の間では浮いていたようで。何でも、お高い、客を選り好みするとか…。」
「選り好みってのは、どういう風にするってんだい。」
おきぬが、言葉を挟んだ。栄三郎も平太も、おきぬが話に加わっても気にしていないようだった。真輔は、三人の会話を黙って聞いていた。
「へえ、何でも懐具合の良さそうな客が好みで、そういう客を仲間が相手をしていると平気で割り込んで来たとか、つましいこずかいで楽しもうって客の相手はろくすっぽしないとか。」
「玉の輿でも夢見てたってのか。」
「へえ。昔、水茶屋にいたお仙とか言う娘の名前を口にしていたそうで。」
お仙と聞いても、死んだ娘と同じ名前だという以外何も思い浮かばない真輔と栄三郎が顔を見合わせていると、おきぬだけが、わかったというような顔をした。そして、手鞠歌にある、美人で名を馳せた茶屋娘のことで、望まれて武家に嫁いだという逸話も残っていると説明してくれた。
「どこの水茶屋だ。」
思わず聞いた栄三郎に、おきぬは笑いながら答えた。
「大昔の話ですよ。有名な絵師が浮世絵に描いたそうですよ。」
「大昔の話なのに、若い娘が知ってるのか。」
「殿方に限らず、女も美人にあこがれるものですよ。お仙は美人の草分け、伝説みたいなもんですから。」
真輔も栄三郎も、なるほどと頷くしかなかった。
「しかし、矢場女じゃ、お武家様に見染められるってことはあるめえ。」
栄三郎が顔をしかめると、真輔も苦笑した。
「そうですね。矢場で遊ぶ武士は、それこそつましいこずかいで楽しもうという輩です。」
「お武家様に限らねえですよ。矢場は、商人にしても職人にしても、若い連中がたまの休みになけなしのこずかいを握って行くところだ。おせんの好みの客ってのは、どういう筋なんだ。」
答えは平太が、ちゃんと聞きこんでいた。おせんが好んで相手をしたのは、商用で江戸に出てきたような地方の商人だった。商売が上手く行き、懐が暖かくなったところで、江戸の盛り場を楽しもうとやってきた客を選んで近寄っていたそうだ。
今度はおきぬが顔をしかめた。
「続きゃしないだろうに。」
「へえ。おかみさんの言うとおりだったようです。」
栄三郎の胸のうちは、やはりおせんの相手を見つけるのは困難だという側に再び傾いていた。江戸者でないとしたら、おせんともんちゃくがあった後では、尻に帆をかけて江戸を発っているだろう。だが、真輔はまったく別のことを考えていた。真輔には、おせんの生前の話を聞けば聞くほど、目にした亡骸の印象とかけ離れてくるのだった。
考え込む真輔が結論を出すのを、栄三郎たちは待っていた。真輔は、おせんの姿を細部まで思い起こした。着ていた着物の色柄、崩れたまげに残っていた手絡、そして姉が買った下駄。
「矢場女には、見えなかったのです。」
真輔のつぶやきに、三人は顔を見合わせた。
「おせんのことですか。」
栄三郎が面食らったように聞いたが、聞いた瞬間、確かにそうだと納得していた。
「真輔様は、おせんが会った相手が、客じゃないとお考えですか。」
「私が見たおせんの姿と、話に聞くおせんとが一致しないのです。普通の町娘の晴れ着姿のように装っていたので。」
「確かに、着ていたのは、嫁入り前の娘にふさわしい物でしたな。」
おきぬが再び話に入ってきた。
「娘らしい格好で会いたい相手だったと言うことですね。本当に好いた相手だったんですよ。」
栄三郎の頭に一つの名前が浮かび、同時に喉元に苦いものがこみあげていた。真輔が栄三郎に向き直り、遠慮がちに聞いた。
「栄三郎さん、駿河屋の弥吉に会いたいのですが。」