第14話 長い夜

文字数 2,323文字

 土井家で名乗るとすぐに重蔵の居間に通された。真輔が遅くに訪ねたことを詫びようとすると、

 「挨拶は抜きでよい。役目のことでの相談とは、何なりと申せ。遠慮するな、そのための上司だ」

 重蔵から暖かいまなざしを向けられ、真輔は今朝方からの顛末を話した。腕組みをして黙って聞いていた重蔵は、話し終わった真輔の前の冷めた茶を取り換えさせた。話し終わってほっとしていた真輔は、目の前の新しい茶から漂う良い香りに気が付いた。話す前は緊張で茶の香りもわからなかった。ゆっくりと茶を押し頂いて落ち着きを取り戻すと、重蔵の言葉を待った。

 「その男が突き落としていないならば、何故すぐに放免してやらなんだ。すぐ放てば、駿河屋でも問題にせぬであろうに。おまえは、その男に仕置きが必要だと言うのか」
 「はい」
 「どんな罪があると考えるのか」
 「娘が川に落ちた時に、助けを求めませんでした。」
 「しかし、いずれにしても娘は助からなかった。そのぐらいなら、おまえが叱ってやればよい」
 「それでは足りないかと」

 自分の意見に異を唱える新米同心に重蔵は思わず眉を寄せたが、その反面興味も覚えた。

 「誰が足りないと言ったのだ」
 「弥吉の心がそう叫んでおります。公に裁いて、弥吉の罪を本人に納得させねば、母親一人を残して首をくくりかねません」
 「母一人子一人か。解き放したあげくに首をくくられてはかなわぬな。落としどころは、おまえの言う通り、吟味方からおしかりの裁決を受けるぐらいなものかな」
 「奉行所の裁決なら、弥吉も納得すると思います」

 真輔は手をついて、重蔵に深く頭を下げた。

 「だが、吟味方がおまえの意図に沿った裁決を出すかどうか、俺には何とも言えないぞ。下手をすれば突き落としと見なされ、重罪に問われるかもしれん。おまえが書き役に話してそれを吟味方が目にすれば、話の伝わり方が変わるしな」

 真輔が顔を上げ、不安そうな顔を重蔵に向けた。

 「どうすれば…」
 「おまえが記すしかあるまい。ただし、意見を書いてはならない。おまえが知ったことを、一つ残らず正確に伝わるように、かつ簡潔に記さねばならぬ。どうする」
 「承知しました」

 再び頭を下げる真輔に、やさしい眼差しを向けながら

 「この件に適した吟味方に話を通しておくから、出来上がったら見せに来なさい」

 土井家を辞した真輔は笠原の家に寄り、今宵は奉行所に泊まるので戸締りをして休むように百合に伝えると、あわてておまつが用意した握り飯を手に奉行所へ、はやる心と、不安の両方を抱えて向かって行った。奉行所では当番の同心が夜中に戻ってきた真輔に何事かと驚き、話を聞いてこの時間からやることもなかろうにとあきれた。頭を下げて灯りをもらうと机に向かい、とにかく自分の考えが辿った道筋を記そうとした。

 一番肝心のところで筆が止まる。弥吉の話を聞く前に、身投げでも、突き落としでもないと真輔が確証を得られた理由を文章だけで記すことが難しい。算学の解答なら図解を挿入すべきところだが、奉行所の公式な書式に図解は許されるのか、煩悶する時間が惜しい。夜明けは日々早くなっている。図を描くことを選び、覚書として記した処々の値を書き入れた図を完成させると、図にしたことで真輔の頭の中がすっきりとして、文章での説明も上手くいく。後は書式に合わせて清書しよう、というところで、腹が減りすぎて力が抜けた。

 仕事を始めた時に出された茶はすっかり冷めていたが、かまわず持ってきた握り飯を冷めた茶で流し込んだ。算学を学び始めた頃は、よく夜食の握り飯を頬張りながら夢中になって問題を解いていた。灯り代がかかるのに、何も言わずにやらせてくれた両親の愛情のおかげで身に着けることができた知識を、人の役に立てたいという思いを握り飯が思い出させてくれた。

 気合を入れなおし、書式の確認に書庫へ行き、参考になりそうな過去の記録をむさぼり読んだ。何度も書き直し、ようやく正確で無駄のない解答、いや記録が書けたと満足できたのは、次々と同僚が出仕しはじめた時間だった。結局、図解は資料として添付することにした。

 佐吉が着替えと朝飯の弁当を持ってきた。朝飯は後回しにして、とりあえず身だしなみを整え、土井につなぎを入れた。

 「寝ずに書いていたのか。」

 隈を作った真輔の顔を見た土井は、すぐに真輔の書いた書類に目を通した。

 「よかろう。」

 と言葉短く言うと、弥吉を奉行所に連れてくるように真輔に言った。真輔はほっとしたと同時に、自分の手を離れた不安を感じながら、自身番に向かった。

 昨日からの晴天続きで、朝からこの季節にしては少しばかり暑いようだが、乾いた風は心地良く、徹夜の頭をすっきりさせてくれた。自身番では、栄三郎たちがすでに朝飯を終えて待っていた。弥吉は心の重荷が少しは降ろせたのか、昨夜よりは落ち着いたようすで真輔を出迎えた。皆で奉行所に向かい、門前で栄三郎、平太と別れ、真輔と佐吉で捕り方に弥吉を引き渡す。弥吉についての真輔の仕事はここで終わる。ここからは吟味方に任せるしかない。最後に真輔に頭を下げた弥吉が連れて行かれた先をぼんやりと見つめていると、土井に肩をたたかれた。

 「心配するな。弥吉のことは、吟味方筆頭の池田殿が引き受けてくださった。おまえの添えた図に感心しておられたぞ。」
 「あ、ありがとうございます。」
 「今日は、もう上がれ。ひどく疲れた顔している。番屋廻りは他を頼むから気にせず休め。」

 土井は、隣でかしこまる佐吉にも、真輔を連れて帰れと促して忙しそうに奥へ消えた。大急ぎで帰り支度を整えた佐吉に背を押されるように奉行所を出た真輔は、ようやく長い夜を終えた。
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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をすることになった。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいる。

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