第12話 逢瀬

文字数 1,136文字

 会いたいと言われても奉公の身ではそう簡単に抜け出せない。弥吉は昨夜、一人で風呂に行けるように同輩より遅くまで仕事をした。仕舞い湯に間に合うように店を出ると、降り出した雨に慌てて傘を持ち、おせんの元へ湯屋とは反対方向へ駆け出した。

 おせんは橋の袂の店の軒先に雨宿りをして、わずかに残っている町の灯りの下に弥吉を見つけると嬉しそうに大きく手を振った。子供の頃もおせんは、手習いから帰る弥吉を長屋の入り口で待って、いつもこんな風に嬉しそうに大きく手を振っていた。弥吉が傘を差し出すと、おせんは傘を受け取り、弥吉の袖を握って橋に向かって歩き出した。

 「おせんちゃん、話って何だい。」

 弥吉の問いかけには答えず、おせんはずんずん橋を登ろうとする。下駄の足元が危なっかしく、弥吉は思わずおせんの腕をささえた。橋の真ん中まで登ると、自分の腕を離そうとする弥吉の手を握り、

 「私、あんたの子を身ごもったんだよ。」

とにっこりとしなを作りながら言った。

 こずかいをせびられるのか、嫁になりたいとせまられるのかと思っていた弥吉は、おせんの言葉に頭の中が真っ白になり言葉が出ない。黙ったままの弥吉に苛立ったように、おせんの声は大きくなった。

 「お腹の子は、駿河屋の手代の子だよ。あんたはそのうち番頭になって、暖簾分けされて、この子は呉服屋の跡取りになるんだよ。」

 おせんは何を言ってるのだろう。なりたての手代の分際で子供など作ったら、駿河屋から暇を出されてしまう。俺はお店をしくじっちまったんだ。弥吉が手を離そうとすると、おせんは弥吉の手首をきつく握って離さなかった。

 「逃げる気かい、弥吉っあん。」

 弥吉は力なく首を振った。子供ができたなら、おせんとすぐに一緒になるしかない。でも、それはおせんが夢見ている未来とは違うものになるだろう。更に苛立ってきたおせんは、腰が抜けたようになった弥吉を歩かせようと強く引いた。

 「さあ、一緒に駿河屋に行って、私と一緒になると旦那さんに言っておくれよ。」

 その言葉に弥吉は思わずへたり込んだ。それを力任せに引っ張ろうとしたおせんの手が、するりと抜け、弥吉は欄干に背中をしたたかに打った。痛みにしかめた顔を上げると、橋の上からおせんの姿は消えていた。這うように反対側の欄干まで行って、下の川を覗き込んだが、すでに町の灯りも消えた深い闇の中、川面の姿もつかめず、暗闇に雨と水の流れる音が聞こえるだけだった。

 どうやって店までもどったのか、記憶がなかった。びしょ濡れだった弥吉は、小僧の頃から世話になっている女中頭に手早く拭かれ、寝床にもぐりこんだ。布団の中で震えていたのは雨で冷えたせいばかりではなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をすることになった。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいる。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み