第6話 橋の上

文字数 2,827文字

  岡っ引きの栄三郎は娘の身元調べに向かい、医者の良庵は患者が待っていると、番屋から引き上げた。死体を見つけた大工から話を聞くと、真輔にはこれといってすることがなくなっていた。番屋のつっかい棒を再び手に取ると、娘のあざの位置に印をつけた。それを手に番屋を出た真輔は、娘が川に落ちた現場と思われる日本橋に向かった。真輔が町廻りの続きに向かうと思っていた佐吉は、戸惑いながらも付いて行った。

 橋の中央まで来るとと、川風が気持ちよく真輔の襟元を通り過ぎた。だいぶ陽が高くなり、番屋からここまでの早足だけで、額には薄っすらと汗が浮かんでいた。

 風上を向いて目を瞑った真輔は、欄干に手を置いて、今朝の百合の様子を思い出していた。いつも真輔の前では伏し目がちであった百合が、玄関先で真輔を見送る際に、まっすぐに顔を向けた。自分を見つめる百合の瞳が何を伝えようとしているのか、真輔には不安な想像しか浮かばなかった。祝言からの一ヶ月あまり、仕事を早く習得しようと毎日遅くまで奉行所に残っていた真輔と、百合の間には、会話らしい会話もなく、寝所も相変わらず別のままであった。

 「私は逃げている…。」

 縁談を受けて高揚した気持ちのまま祝言の席についた真輔は、その夜には、自分の考えの甘さに呆然としていた。笠原の家での生活は、百合とおまつが怠りなく世話をしてくれ、粗略に扱われるようなことは一つもなかった。それに答えるためにも一日も早く同心として一人前にならなくては、と勤めに励んでいたが、それを言い訳に自分からは百合との関係を変える行動を起こさずにいたのだ。

 「旦那様…。」

 佐吉がいぶかしげに声をかけた。真輔は、はっと目の前の仕事に意識を戻した。この橋の上で、昨夜、どんなことが起こって、娘が川にはまることになったのか…。真輔はその場に立って考えたかったのだ。日差しを浴びて、橋の上からは昨夜の雨の痕跡が消えかかっていた。

 手にしていた棒の印を欄干に当て、橋の中央に向かって棒を降ろした。斜めになった棒を見つめていた真輔が、「そうか。」とつぶやいた。

 「佐吉、あの娘は何を履いていたのだろうか。」
 「雨が降っていたなら、下駄でございましょう。」

 「履いていなかったな。」
 「それは、落ちた時に川に流されたのございましょう。」
 「うん、だが、下駄が川を流れていれば誰かが拾うかもしれない。下駄を探そう。」

 佐吉は、いまさら娘の履物を探し出してどうするのだろう、といぶかりながらも、橋を駆け降りる真輔の後を追った。

 「旦那様、川に流れた下駄を探すのは難しゅうございませんか。」

 橋を降りかけたところで佐吉に問われ、真輔は立ち止った。

 「確かに、そうだな…。下駄は軽いから娘の体よりも遠くへ流れてしまうか。」
 「下駄がそれほど大切でございますか。」
 「うん、下駄の高さで娘の体が欄干に当たった角度が変わる。」
 「角度…。」

 佐吉は、答えを聞いても何故下駄にこだわるのか理解できなかったが、真輔の初めて探索事の役に立ちたいと思った。

 「拾った下駄は、両方揃っていなければ役には立ちません。片方だけを拾った者は、下駄職人に材料として売ってしまいましょう。」
 「そうなのか。」

 慎ましい育ちとはいえ武士である真輔には、道端や川で拾った物を売るという考えは浮かばない。ならば、下駄職人はどこにいるのだろう…と辺りを見回している。

 「一番近くでは、その角を曲がったところに一件ございます。」

 日々、真輔の義父の玄衛門の町廻りについて歩いた佐吉は、町の隅々まで詳しい。真輔は素直に佐吉の案内に従った。佐吉の連れて行ったのは、工房と家が一緒になった小さな裏店であった。佐吉が声を掛け、真輔が工房に入ると、突然現れた同心に、一人だけの職人は手を止めて目を見張った。

 「なんぞ、ご用でしょうか…。」
 「仕事の邪魔をして申し訳ないが、今朝がた、ここに下駄を売りに来たものはいなかったか。」

 近眼鏡をかけた若い同心は、にこやかな顔で丁寧な問いかけをしてきた。思わず職人は、壁際の木箱に積んである古下駄の一番上を指差した。

 「へえ、あの赤い鼻緒の下駄を片方、橋の上で拾ったと善さんが持って来たんで。」

 そこまで言ってから、何か問題がある品だったのかと不安気な表情になる。

 「橋の上。そうか。」

 橋の上で脱げたのならば、橋から一番近いこの店に持ち込まれても不思議はない。下駄は、赤い鼻緒に歯も高く、娘のめかし込んだ衣装に合わせたようであった。その下駄を手に取ると、真輔は嬉しそうな顔で職人を振り返り、買った値段で引き取らせてくれと言った。とんでもない、お持ちください、と慌てる職人に真輔は金を受け取らせて店を出ると、下駄を持ったまま走るように橋の上に戻って行った。

 橋の上に戻ると、今度は下駄の高さをつっかい棒の印の上に足して、先ほどと同じように橋の上で斜めに置いた。次に自分の体を棒と同じ角度に傾けようとした。危なっかしい姿勢を見て、佐吉が慌てて真輔の体を押さえた。
 
 「何をなさっているのですか。」
 「すまぬ。娘はどんな角度で欄干に当たったのか、確かめようと。」
 「落ちたらどうします。」
 「すまぬ。」

佐吉がやれやれと思っていると、今度は橋の真ん中に立ち、変な動きを始めた。昼近くなって市場のにぎわいが終わり通る人は減っているが、それでも真輔の動きは人目を引いた。

 「旦那様、こんどは何でございますか。」
 「佐吉、すまぬ、私が手を引っ張るから、抵抗してくれ。」

 佐吉は困惑したが、真輔の言うとおり、人通りが途絶えたところで真輔と引っ張り合いをした。佐吉の手がすっぽ抜けると、佐吉は尻もちをつき、真輔の体が欄干にぶつかった。

 「危ない。」

 思わず佐吉が叫んだが、真輔は両手で欄干に抱きつくようにして踏みとどまっていた。振り返った真輔の顔には満足感が浮かんでいる。すぐに欄干から離れると、佐吉が立ちあがるのに手を貸した。佐吉には真輔の行動のわけはわからなかったが、とりあえず、危ないまねは終わりらしいとほっとしていた。

 この時、真輔の頭の中には、昨夜、雨の中で橋から落ちる娘の姿が、目の前で見たかのように再現されていた。再現できないのは、娘が引っ張っていた相手の姿形である。真輔はあらためて手にした下駄をじっくりと観察した。鼻緒も下駄本体も新しいものではないが、歯の減り、鼻緒の生地のすれ具合を見ると、あまり履いたことがないものでもあるようだった。

 「旦那様、これが本当にあの娘の下駄なのでしょうか。」
 「わからぬ。しかし、娘の身元がわかれば、この下駄が娘のものかどうかわかるだろう。」

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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をすることになった。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいる。

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