第4話 縁談

文字数 3,782文字

 元与力の宗井陣一郎は、笠原玄衛門の葬式の翌日から、百合の縁談をまとめるために動き出していた。まずは、百合の伯父で例繰方同心の庄司文太郎を訪ね、文太郎、瀬名夫婦に、笠原家の婿養子にと彼が心に留めていた人物の話をした。

 「宗井様、まことにありがたいお話ですが、旗本から格下の同心の家に婿に入って頂けるものでしょうか?」

 庄司文太郎は、生真面目に問い返した。

 宗井が百合の婿にと考えたのは、かねてから懇意の旗本、立花正行の次男の真輔であった。立花家は大番組の小身の旗本で、正行はすでに隠居し、家は長男の誠吾が継いでいた。同心の家格は御家人で、不浄役人として、更に一段下がった見られ方をする。

 「父親の立花正行殿と私は、古くからの囲碁仲間でね。なかなかの人物だし、家族のことも良く知っている。家格にこだわるような人達ではない。真輔にも、囲碁の相手をしてもらったことがある。頭が良いので、私が楽しめるように打ってくれる。勝たせてはくれんがね。」

 立花家の人々の顔を思い出すと、宗井は心が温かくなった。あの家の息子なら、玄衛門も喜んでくれるだろう。

 「そのようなご立派な方では、他に婿のお話がいくらもおありでしょうに、本当に笠原に入っていただいてよろしいのでしょうか?」

 さすがに奥方は縁談のことについては、鋭いと宗井はうなった。瀬名は、旗本同士の縁組が叶わないわけが何か真輔にあるのかと、疑問に思っているのだ。

 「実は、真輔は子供の頃からひどい近目で、眼鏡が手放せない。大番組は武官の家柄、近目は敬遠されるらしい。しかし、眼鏡をかけていれば何の支障もない。同心に遠目は必要なかろう。」

 膝をのり出して説明する宗井陣一郎に、文太郎は恐縮し、瀬名はおっとりとほほ笑んで、夫婦揃って、深々と頭を下げていた。

 「何卒よろしくお願い致します。」

 宗井は善は急げとばかり、庄司家からまっすぐ立花家の屋敷に向かった。
 
 「急な話で誠に申し訳がない。申し上げたようなわけがあり、笠原玄衛門の娘の縁談には時がない。ぜひにお受け頂きたく、重ねてお願い仕る。」

 深々と頭を下げる宗井陣一郎を前に、立花正行と妻の紗江は困惑していた。

 「宗井様、お手をお上げ下さい。まずは、笠原殿のことは、実に残念なことでした。お人柄もご立派で、奉行所にとってなくてはならない人材であったでしょうに。」
 「あなたは、笠原様にお会いになったことがあるのですか?」
 「うむ。私が隠居してすぐの頃かな。一度、囲碁の手合わせをさせて頂いた。」
 「そうそう、立花殿にお相手をして頂き、笠原は囲碁のおもしろさに目覚めておった。隠居したらじっくり取り組みたいと、楽しみにしていたのだ。」

 宗井は眼が潤み、天を仰いだ。

 しばし感傷に浸る二人の男たちをよそに、紗江の胸には解決しなければならない疑問がいくつも湧いていた。
 
 「宗井様、お聞きしてもよろしいでしょうか。宗井様は、何故、奉行所のお役目とは縁遠い真輔にお声をかけて下さったのですか。」
 「おお、これは事を急ぐあまり、言葉足らずが過ぎましたな。申し訳ない。」

 宗井は立花夫婦の方へ、ひとつ膝を進ませた。

 「笠原玄衛門の立ち回り先には、江戸を、いや、日の本を代表するような大店のある日本橋町の北と南が含まれているのです。自分の思い通りに事を運ぶためなら、千両箱を積むことのできるような商人ばかりだ。ここを治めるには、清廉潔白、公明正大、虚心坦懐、…」
 「まさか、真輔は家だけではなく、仕事も引き継ぐということなのですか。」

 さすがに、正行も驚いた。

 「その通り、だからこそ、真輔殿以外にはいない。」
 「息子を買って頂くのはありがたいことですが、真輔は素人ですよ。」

 町廻り同心と言えば、たくさんある同心の役目の中でも花形であり、それだけ難しい仕事である。同心の中でも、経験を積んだ優秀な者が選ばれるということは、八丁堀の人間でなくても知っている。

 「奉行所の同心の中には、玄衛門の器量に追いつく者は見当たりません。それに、礼金の小判一枚ももらわなかった玄衛門の後を継ごう名乗り出る者もおりません。しかし、江戸の経済を陰ながら支えると言ってもよい、大切な、大きな仕事。真輔殿の頭の良さ、お人柄、器量をぞんぶんに生かして頂けると思うのです。」
 
 宗井の熱心な言葉に正行の心は動かされた。部屋住みで算学塾や手習所で教えている真輔に、男としてやりがいのある仕事が与えられる。男親にとっては、何より嬉しいことであった。が、母親の紗江にはまだ心配事が残っていた。

 「笠原様を殺めた下手人は、まだわからないのでございましょう。お役目に係る遺恨となれば、後を継ぐ者も恨まれるのではないでしょうか…。」
 「紗江、やめなさい。」

 正之介がめずらしく強い口調で妻を止めた。

 「いや、奥方のご心配ももっともです。お役目の後を引き受ける者がいない理由には、それもあるやも知れません。」
 「逆に、お役目に疎い真輔が後釜となれば、下手人は安堵しよう。」

 正行が妻を安心させるように微笑んだ。

 「お話は、息子が帰宅しだい伝えます。決めるのは真輔だ、よいな紗江。宗井様、返事は今日、明日中に致します。よろしいでしょうか。」
 「むろん、真輔殿のお心しだい。話を通して頂けるだけでありがたい。」

 宗井は再び深々と頭を下げ、立花家を辞した。
 
 夕刻、仕事を終えて帰宅した真輔を、父母と既に話を聞いた当主の兄が待ち受けていた。父の話を黙って聞いていた真輔はしばらく俯いていたが、顔を上げると、

 「そのお話、お受けいたします。」

 とはっきりと答えた。まっすぐに両親を見つめた顔は、すこしばかり興奮しているようであった。母親の紗江も、息子の決断に何かを感じたのか、先ほどの杞憂を口にはしなかった。そこには、心配する親心とは別に、息子への信頼と尊重があった。


 笠原家の跡を継ぐための届けを出し、祝言を挙げるまでの数日の間、真輔は慌ただしく過ごしていた。部屋住みの次男坊とはいえ、真輔には勤めがあった。算学塾の指南役に、手習い塾の師匠と、日々忙しく過ごしながら、自立のために医学の勉強も始めていた。算学、医学の師にあいさつをして、塾の師匠を継いでくれる者を探して生徒たちに別れを伝え、その間に父と親戚回りもした。格下の家柄に縁づくことへのいやみを聞かされることもあったが、父は涼しい顔で聞き流していた。

 今まで真輔は、収入の全てを家長である兄の誠吾に一旦渡し、そこからこずかいを渡されていた。そして、そのほとんどは本に消えていた。こつこつと集めてきた算学、医学の本は、真輔の宝であった。高くて買えず、師に写本をさせてもらったものも少なくない。婿入りに際しその本の山をもっていくわけにはいかないであろう、と兄に相談すると、快く預かろうと言ってもらえた。

 年の離れた兄は、真輔にとって、幼い頃からやさしく、頼りになる存在であった。今回の縁談についても、両親同様に真輔を信じてくれていた。

 「おまえが生きて行きたいところで、生きて行けば良い。俺たちは、応援するだけだ。」

 祝言前夜、真輔の部屋に来た兄は、真輔の目の前にそっと袱紗に包まれた金子を置いた。

 「へそくりぐらい持っていけ。」

 躊躇する真輔に、俺も婚礼の前に父から貰った、と笑って真輔の膝に袱紗をのせてくれた。この時になって、実家を離れる寂しさが真輔の胸に湧いてきた。

 「おまえ、大人になった笠原家の娘に会ったのか。」

 真輔がはっとして顔を上げると、兄がにやにやと笑っている。

 「5,6年前にどこぞの寺へ真輔と一緒に萩の花見物に行って、偶然笠原親子に会ったことがあると父上が言っていた。まさか、それ以来ではないのであろう。」
 「まいったなぁ。兄上は何でもお見通しだ。昨年、朋輩と同じ寺に萩の花を観に行って、見かけました。あちらは私のことを覚えていないでしょうが…。」
 「想像していたとおりの美しい女子になっていたんだな。」

 兄は嬉しそうに笑い、弟は頬を染めながらもしかめ面を作っていた。

 「頑張れよ。」

 誠吾は、弟の照れた顔を見て、心からこの縁談を喜ぶことができた。

 その夜、誠吾が布団の中で

 「明日の祝言が楽しみだな。」
 
 とはずむ声で言うと、「子供みたいに。」と妻の佳苗に笑われた。

 当の真輔は眠れぬ夜を過ごしていた。後悔しているわけではなかったが、やはり、先のことが想像できない不安が次第に大きくなっていた。一番の不安は、妻となる百合が、自分のことをどう思ってくれるだろうかである。こればかりは、算学では解けない問題だ。真輔は、今までの生活に、家族や出会った人々に、努めて思いを馳せて心を落ち着かせようともがいていた。


 その頃、笠原家でも、百合が眠れぬ夜を過ごしていた。百合には、真輔とはまったく違う不安が、重く暗くのしかかっていたのであった。
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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をすることになった。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいる。

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