第3話 玄衛門の死

文字数 2,049文字

 ひと月半前の風の強い夜、定町廻り同心の笠原玄衛門が急逝した。

 その夜、玄衛門を見つけたのは、玄衛門に付いている中元の佐吉だった。奉行所で遅くまで仕事をしている父を案じた娘のゆりに頼まれた夜食を届けに、八丁堀から奉行所へ向かう途中で、刀の柄を掴んだまま倒れている玄衛門の亡骸に行き合った。

 「だ、旦那様…」

 この時の瞬間を、佐吉はこの後いつまでも、血が凍るようなここちまで、まざまざと思い出すのだった。しかし、その後、奉行所と八丁堀を走り回った時のことは、すっぽり記憶から抜けていた。気が付いたら、屋敷に戻った玄衛門の亡骸にすがりついいたゆりの慟哭と、座敷を右往左往する人々のざわめきを聞きながら、ぼんやりと土間に立ち尽くしていたのだった。

 土間の戸がこそりと控えめな音を立てて遠慮がちに開けられた。小さな隙間から、するりと音もなく土間に入り込んだのは、玄衛門が手札を渡している岡っ引きの栄三郎であった。日本橋の家から走って来たのであろう、荒い息を吐き、土間の灯りに汗が光っていた。見開いた眼で佐吉を見て、

 「ほんとうなのか…」

 聞くともなくつぶやくとがっくりと膝を折った。二人はそのまま、空が白々と明けるまで黙って土間に立っていた。

 知らせを受けた玄衛門の上司の与力や近しい同僚たちは、深夜、奉行所からの帰り道で何者かに襲われ命を落とした玄衛門を、探索事の遺恨で襲われたのではと推測した。月のない晩に暗闇で待ち伏せしての一太刀とはいえ、若い頃は八丁堀の道場でならした玄衛門に刀を抜く間を与えない腕は、相当のものであろうと推測された。

 しかし翌朝、新たに発見された物乞いの死体に同じ太刀筋が見つかり、奉行所内部での見方が変わってしまった。刀の試し切りの餌食になったという節が上役たちの間で囁かれ、それでは奉行所の威信に係るということになった。そしてあろうことか、その死の真相は隠ぺいされ、表向きは急な病ということになった。下手人の探索も公には行われなかった。

 八丁堀の人間は、総じて口が堅い。しかし、それは外に対してであり、八丁堀内では玄衛門の死因について、試し切りにあったという噂が口から口へ密やかに伝わっていた。そういう事情を受けて、玄衛門の通夜、葬式は、身内とごく近しい者だけでひっそりと行われたのだった。
 
 通夜の夜、栄三郎は一人、通夜の行われた玄衛門の家の台所で、故人を偲びながら通夜の席で出される燗の番をしていた。栄三郎は、先代の後を継いだ時から玄衛門に手札を与えられていた。彼の清廉潔白、謹厳実直でありながら、人情も心得た仕事ぶりに、心から信頼を寄せてきた。それだけに玄衛門の頓死は衝撃であり、表だっては行えない下手人捜しに歯噛みをしていた。

 そこへ、玄衛門の妻の兄である庄司文太郎の妻の瀬名が飲み干されたとっくりを盆に載せて現れた。玄衛門の妻は、一人娘の百合を生むと間も無く亡くなっていた。瀬名はゆりの母がわりになり、文太郎と瀬名の娘の初枝は百合と姉妹のように育っていた。

 「これは奥様、申し訳ありません。女中は何を…。」

 栄三郎は、慌てて盆を受け取った。

 「良いのですよ、台所に来るついでですから。栄三郎、おまえに聞きたいことがあってね。」
 「へぇ、何でございましょう。」
 「百合のことなのですが…おまえは、玄衛門殿から百合の婿について何か…心づもりがあるようなことを聞いていませんか。」
 「申し訳ありません。あっしは何も…。」
 「そうですか…。うちの旦那様は、笠原の家のことは、百合の望むようにすれば良いとおっしゃるのですが、私は、できればあの娘に婿養子を迎えて笠原の家を継がせたいと思うのです。笠原の家が絶えれば、玄衛門殿を殺めた下手人のことも忘れ去られてしまうようで…。」

 いつもは万事おっとりとやさしい風情の瀬名が、八丁堀育ちの女らしい気の強さを見せた言葉は、栄三郎とって嬉しいものであった。

 「奥様、あっしは絶対あきらめません。必ず、下手人を捜します。」

 とっくりの入った鉄瓶をにらみながら、栄三郎は静かに決意を口にした。その耳に、瀬名のしのび泣く声が聞こえた。

 早急に百合に婿を迎え、笠原の家を継がせて、いずれ玄衛門の死の真相を明らかにする。瀬名や栄三郎の知らないところで、そのためにすぐに動き出そうとしている人物がいた。かつて吟味方与力として辣腕をふるった宗井陣一郎であった。

 宗井は、既に隠居の身ながらまだ奉行所内につても多く、笠原家の存続については、すぐに人事を担当する年番方与力に話を通していた。実は、婿の候補についても前々から宗井の頭にはあった。それなのに、急ぐ話ではあるまいと、玄衛門に伝えないままこのようなことになり、今はひどく後悔していた。だからこそ、この話をまとめて百合と百合の婿に笠原の家を継がせることを、玄衛門の霊前で誓っていた。


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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をすることになった。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいる。

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