第17話 駿河屋
文字数 2,646文字
翌朝には真輔の熱はすっかり下がったが、良庵の指示は一日大人しくして、滋養のつく物を食べろというものだった。そこで、久しぶりに机に向かって算学書を開いた。すぐに集中して、天を仰いだり、筆を取って細かな字で書きつけたり、部屋の外から声をかけられても気が付かなった。
「真輔様、栄三郎がまいりました。」
部屋に入った百合は、庭に面した障子を大きく開いた。縁側の先で、栄三郎が小腰をかがめていた。真輔はすぐに筆を置いて縁側に出て座敷にあがるように促したが、栄三郎は固辞して話し出した。
「ご静養中にお邪魔致し、申し訳ありません。取り急ぎご報告にまいりました。今朝一番に、弥吉と母親、それに駿河屋の主人も同道して、おせんの実家に挨拶と線香をあげに行きまして。昨日、私から事情を話しておきましたが、姉のおかつも母親も弥吉を責めるどころか、逆に、おせんのしたことを謝っておりました。
母親同士は手を取り合って泣いていました。早くに亭主を亡くした同志、同じ長屋で助け合って生きてきた二人なのでしょう。」
「そうか…。駿河屋は主人が行ったのか。」
「はい、弥吉のことをたいそう心配しておりまして。おせんの母親に香典と、弥吉の今までの給金を貯めたものを渡しました。おかつは、香典は受け取っても、弥吉の給金は受け取れないと断ったのですが、ちょうど居合わせたおかつの主人が受け取らなくてはいけない、とおかつを諭して受け取れせました。
弥吉には、気持ちは十分受け取ったから、明日からはおせんのことは忘れて生きろと。」
「おかつの主人というと、紙問屋の女主人か。」
「はい、なかなかの器量で。」
小柄で小太り、童顔の温厚そうな姿だが、張りのある声には主人の威厳があった。勝気そうなおかつが主人には素直に従い、心から敬っている様子で、
「おかつの奉公は幸せなようで、あの親子は心配いりませんよ。」
だが、真輔にはまだ気がかりなことが残っていた。
「それで、弥吉は。」
「紙問屋の主人に言われた言葉で、少しは肩の荷がおりたようです。忘れろと言われても忘れられることではないでしょうが、自分のこれからを考える気持ちにはなれたようで。」
「駿河屋では、弥吉をどうするつもりなのか。」
「それについては、後程、駿河屋の主人がこちらに挨拶に伺いたいと申しておりましたが、よろしいでしょうか。弥吉のこれからについて、何か考えがあるようでした。」
「わかった。だが…。」
「ご心配はいりませんでしょう。あそこは、奉公人の面倒見が良いという評判のお店です。」
では、これで失礼します、と栄三郎は無駄口をたたかずに帰っていった。ぼんやりと縁側に座り続けていると、百合が茶を運んできた。
「栄三郎は帰ったぞ。」
見ると、盆の上には真輔の湯呑しかのっていない。
「いつも、お茶の一杯も飲まずに帰ってしまうんです。栄三郎が真輔様のお見舞いに、かれいの煮つけを持ってきてくれましたから、お昼に召し上がってください。滋養がありますから。」
湯呑を置くと、真輔の返事を待たずに部屋を出て行ってしまった。一人残された真輔は、仕方なくまた机の前に戻ったが、今度はまったく算学の問題に集中できなかった。
かれいは美味く、真輔は昼食をきれいに平らげて、百合とおまつをほっとさせた。部屋に戻った真輔は算学書に向かうのをあきらめ、縁側から庭に出ると、屋敷をしみじみと眺めた。ひと月あまり住んでいながら、家の造りをよく見たことがなかった。塀や軒先に、少々傷んだところがあるようなので、暇を見て修理しよう。この家に道具はあるのだろうか。ようやくここが、自分の家という気がしてきたようだとひとりで苦笑した。
しばらくして、百合が駿河屋の主人が来たと知らせてきた。座敷で向き合った駿河屋の主人はほっそりと小柄で、柔らかな動作で深々とお辞儀をした。呉服の大店の主人らしいやさしげな声音で丁寧な挨拶に、そういった店とは縁のなかった真輔は緊張した。
「まずは、この度の私共の奉公人の不始末、深くお詫びを致します。笠原様には、弥吉のことを寛大にお取り扱い頂き、弥吉の母親共々、感謝の言葉もありません。」
「手をあげてください。経験のない私が先走ったことをして、弥吉に理不尽な仕打ちをすることになったのでは…。駿河屋さんにもご迷惑をおかけ」
真輔が言い終わらないうちに、駿河屋が手で制した。
「決してそのようなことはありません。弥吉にとって最善の道筋をつけていただいたと、本当に感謝しております。あれは、真面目で頭もよい、私や番頭も目をかけておりましたが、少々気弱で人に流されやすいところがありました。やさしさも人一倍ですので、ほっておいたら、つぶれてしまったと思います。
弥吉には、自分のしたことを人様に裁いてもらう必要があったのです。それを見抜いていただき、お仕置きしていただいたことで、自分で自分をことさらにせめる必要がなくなりました。弥吉は立ち直ります、立ち直らせます。」
「ありがとうございます。」
真輔はかろうじて手をつくのをこらえたが、深く、深く頭を下げた。
「弥吉は、江戸を離れさせることに致しました。数年前に、里に帰った手代に暖簾分けをしております。里は常陸で、良い奉公人が見つからぬので、紹介して欲しいと頼まれておりました。弥吉をやるのは惜しいのですが、立ち直らせるためには、日本橋の見えないところに行くのがよかろうと思いました。
弥吉も承知しまして、親子で常陸に旅立つことになりました。」
「弥吉親子は幸せになれるでしょうか。」
「常陸の店の主は弥吉のことをよく知っております。昨日のうちに知らせを出しておきましたから、喜んで待っているでしょう。ご安心ください。
そして、この駿河屋、これからはいつでも笠原様のお力になりますので、お心に留めおいてくださいませ。」
真輔は、駿河屋が帰ると、傾きかけた陽を浴びている縁側にでて、またぼんやりと座っていた。世の中の英知というものは、書物の中だけにあるのものではないことを噛みしめていた。駿河屋にしても、栄三郎にしても、真輔の想像を超えたところで動いている。しかし、真輔は気を落としているわけではなかった。今の自分が無知、無力なのはあたりまえだ。それを知ることが大切なのだ。
誰に言われた言葉だったかな…。いや、いろんな人だ。何度も言われている。
真輔は苦笑いをしながら、こつこつと進むしかないと、自らを鼓舞した。
「真輔様、栄三郎がまいりました。」
部屋に入った百合は、庭に面した障子を大きく開いた。縁側の先で、栄三郎が小腰をかがめていた。真輔はすぐに筆を置いて縁側に出て座敷にあがるように促したが、栄三郎は固辞して話し出した。
「ご静養中にお邪魔致し、申し訳ありません。取り急ぎご報告にまいりました。今朝一番に、弥吉と母親、それに駿河屋の主人も同道して、おせんの実家に挨拶と線香をあげに行きまして。昨日、私から事情を話しておきましたが、姉のおかつも母親も弥吉を責めるどころか、逆に、おせんのしたことを謝っておりました。
母親同士は手を取り合って泣いていました。早くに亭主を亡くした同志、同じ長屋で助け合って生きてきた二人なのでしょう。」
「そうか…。駿河屋は主人が行ったのか。」
「はい、弥吉のことをたいそう心配しておりまして。おせんの母親に香典と、弥吉の今までの給金を貯めたものを渡しました。おかつは、香典は受け取っても、弥吉の給金は受け取れないと断ったのですが、ちょうど居合わせたおかつの主人が受け取らなくてはいけない、とおかつを諭して受け取れせました。
弥吉には、気持ちは十分受け取ったから、明日からはおせんのことは忘れて生きろと。」
「おかつの主人というと、紙問屋の女主人か。」
「はい、なかなかの器量で。」
小柄で小太り、童顔の温厚そうな姿だが、張りのある声には主人の威厳があった。勝気そうなおかつが主人には素直に従い、心から敬っている様子で、
「おかつの奉公は幸せなようで、あの親子は心配いりませんよ。」
だが、真輔にはまだ気がかりなことが残っていた。
「それで、弥吉は。」
「紙問屋の主人に言われた言葉で、少しは肩の荷がおりたようです。忘れろと言われても忘れられることではないでしょうが、自分のこれからを考える気持ちにはなれたようで。」
「駿河屋では、弥吉をどうするつもりなのか。」
「それについては、後程、駿河屋の主人がこちらに挨拶に伺いたいと申しておりましたが、よろしいでしょうか。弥吉のこれからについて、何か考えがあるようでした。」
「わかった。だが…。」
「ご心配はいりませんでしょう。あそこは、奉公人の面倒見が良いという評判のお店です。」
では、これで失礼します、と栄三郎は無駄口をたたかずに帰っていった。ぼんやりと縁側に座り続けていると、百合が茶を運んできた。
「栄三郎は帰ったぞ。」
見ると、盆の上には真輔の湯呑しかのっていない。
「いつも、お茶の一杯も飲まずに帰ってしまうんです。栄三郎が真輔様のお見舞いに、かれいの煮つけを持ってきてくれましたから、お昼に召し上がってください。滋養がありますから。」
湯呑を置くと、真輔の返事を待たずに部屋を出て行ってしまった。一人残された真輔は、仕方なくまた机の前に戻ったが、今度はまったく算学の問題に集中できなかった。
かれいは美味く、真輔は昼食をきれいに平らげて、百合とおまつをほっとさせた。部屋に戻った真輔は算学書に向かうのをあきらめ、縁側から庭に出ると、屋敷をしみじみと眺めた。ひと月あまり住んでいながら、家の造りをよく見たことがなかった。塀や軒先に、少々傷んだところがあるようなので、暇を見て修理しよう。この家に道具はあるのだろうか。ようやくここが、自分の家という気がしてきたようだとひとりで苦笑した。
しばらくして、百合が駿河屋の主人が来たと知らせてきた。座敷で向き合った駿河屋の主人はほっそりと小柄で、柔らかな動作で深々とお辞儀をした。呉服の大店の主人らしいやさしげな声音で丁寧な挨拶に、そういった店とは縁のなかった真輔は緊張した。
「まずは、この度の私共の奉公人の不始末、深くお詫びを致します。笠原様には、弥吉のことを寛大にお取り扱い頂き、弥吉の母親共々、感謝の言葉もありません。」
「手をあげてください。経験のない私が先走ったことをして、弥吉に理不尽な仕打ちをすることになったのでは…。駿河屋さんにもご迷惑をおかけ」
真輔が言い終わらないうちに、駿河屋が手で制した。
「決してそのようなことはありません。弥吉にとって最善の道筋をつけていただいたと、本当に感謝しております。あれは、真面目で頭もよい、私や番頭も目をかけておりましたが、少々気弱で人に流されやすいところがありました。やさしさも人一倍ですので、ほっておいたら、つぶれてしまったと思います。
弥吉には、自分のしたことを人様に裁いてもらう必要があったのです。それを見抜いていただき、お仕置きしていただいたことで、自分で自分をことさらにせめる必要がなくなりました。弥吉は立ち直ります、立ち直らせます。」
「ありがとうございます。」
真輔はかろうじて手をつくのをこらえたが、深く、深く頭を下げた。
「弥吉は、江戸を離れさせることに致しました。数年前に、里に帰った手代に暖簾分けをしております。里は常陸で、良い奉公人が見つからぬので、紹介して欲しいと頼まれておりました。弥吉をやるのは惜しいのですが、立ち直らせるためには、日本橋の見えないところに行くのがよかろうと思いました。
弥吉も承知しまして、親子で常陸に旅立つことになりました。」
「弥吉親子は幸せになれるでしょうか。」
「常陸の店の主は弥吉のことをよく知っております。昨日のうちに知らせを出しておきましたから、喜んで待っているでしょう。ご安心ください。
そして、この駿河屋、これからはいつでも笠原様のお力になりますので、お心に留めおいてくださいませ。」
真輔は、駿河屋が帰ると、傾きかけた陽を浴びている縁側にでて、またぼんやりと座っていた。世の中の英知というものは、書物の中だけにあるのものではないことを噛みしめていた。駿河屋にしても、栄三郎にしても、真輔の想像を超えたところで動いている。しかし、真輔は気を落としているわけではなかった。今の自分が無知、無力なのはあたりまえだ。それを知ることが大切なのだ。
誰に言われた言葉だったかな…。いや、いろんな人だ。何度も言われている。
真輔は苦笑いをしながら、こつこつと進むしかないと、自らを鼓舞した。