第18話 立夏
文字数 2,770文字
夕餉の善を前にして、真輔は、動いてもいないのに腹が減っていることに驚いた。目の前には、つましい武家の夕餉には不似合いとも言える品数の皿が並んでいた。高価な食材を使っているわけではないが、滋養にあふれた心づくしの品ばかりである。明日からの勤めのために、と病み上がりの体が求めるまま夕餉の皿を空けていった。
百合が淹れたての茶を運び、おまつが膳を下げていった。熱を出してから少しずつ会話が増えた百合との距離を更に縮めたいと思う真輔は、湯呑を手に素直に夕餉の礼を言った。
「ごちそうさまでした。美味しかったです。滋養が体に行き渡った気がします。
心配をかけてしまったと思いますが、弥吉のこれからの奉公先も、駿河屋の主人が万事面倒を見てくれました。」
「それは、ようございました。昨日、栄三郎から少し事情を聞きましたが、亡くなった娘さんは、弥吉という人をだまそうとしたのでしょうか。」
「今となっては、だまそうとしたのか、そうではないかはわかりません。」
百合は黙り込んでしまい、二人の会話は途切れてしまった。沈黙が続き、真輔はあせった。と、百合が両手を畳について静かに頭を下げた。そして、ゆっくりと顔を上げて真輔をまっすぐに見つめた。
「今日はどうしても、申し上げなければならないことがあります。」
語尾が震えている。ただならぬ様子に、真輔も湯呑を置き、居ずまいを正す。
「私は、おいとまさせていただきとうございます。」
百合はそれだけ言うと、再び額が畳に触れんばかりに頭を下げた。真輔の頭の中は真っ白になった。言葉が出ないまま、二人の間でまた沈黙が続いた。激しく脈打つ心の臓を落ち着かせようと、湯呑を手に取って、一口飲み、ゆっくりと置いた。深くお辞儀をしている百合の肩も背中も、いや全身が震えていた。
「(やはり、私が嫌なのか…)手を上げてください。ここは、あなたの家だ。あなたが私を夫として迎えられないなら、この家から出ていくのは私でなければならない。」
しかし、真輔の言葉に、百合は激しく首を振った。
「家を出ていくべきなのは私です。真輔様には、ぜひ笠原の家を継いでいただきたいのです。私があなたの妻にふさわしくない、その資格がないのです。」
百合の声は泣き声になった。当惑しきった真輔だったが、手習い所で泣く子供にわけを聞いていたときのように、ゆっくりとやさしい声音で問うだけの落ち着きは取り戻していた。
「何故、そのようなことを言われるのか、わけを聞かせてもらえますか。」
百合は、このまま真輔の側に、この家にいるわけにはいかないと考え続けていたが、どうすれば真輔の心が一番傷つかないかの答えは見つかっていなかった。
「お聞きにならないでいただけませんか…。」
「それは…酷…ですね。」
真輔の声が傷ついたように小さくなり、百合の胸をえぐった。先日のおまつの言った言葉が胸の中によみがえる。
(まっすぐに真輔様と向き合ってください。)
打ち明けて軽蔑されたくない。でも、黙っていることがより目の前の人を傷つけるならば、それは罪を重ねることになる。百合は勇気を振り絞った。
「私は亡くなった娘と同じことを、あなたをだまそうとしたのです。」
真輔は驚いて、思わず百合の方へ膝を進めた。
「み、身籠っているのですか…」
「いいえ、身籠ってはありませんでした。でも…」
「やはり、お好きな方がいらしたのですね。その方と約束をかわされていた…」
「違います。」
百合は、髷が崩れそうな勢いで首を振った。あの時のくやしさがよみがえり、百合の口をついて出て行った。
「父の葬儀の後、旧知の人から表立っては行けないが私に悔みを伝えたいので、出てきてほしい、という手紙をもらいました。真に受けて、昼日中とはいえ、人気のない場所に出かけた私が悪いのです。慰められるつもりが、慰みものに…」
膝の上で固く握りしめられていた百合の手を、真輔の両手が包み込んだ。
「もう、いい…」
真輔に手を握られたことにも気づかない様子で、百合は話し続けた。
「手紙を見つけたおまつが探しに来て、屍のように一人で横たわる私を見つけ、家に連れて帰りました。このことは、私とおまつだけの秘密になりました。そして、私は、縁談を断りもせず、月のものが遅れているのに祝言を挙げ、万が一身籠ってしまったらそのまま…」
言葉の止まらない百合を、真輔が抱きしめた。
「もう、いい…。辛いことを話させてすまなかった。」
「ごめんなさい…。」
百合はたまらず真輔に抱きしめられたまま、その胸に顔を埋めて泣き出した。真輔の手がしゃくりあげる百合の背を、やさしくなでた。
「あなたは何も悪くないし、ましてや私をだまそうとなどしてない。何故なら、私とは寝所を別にしてきた。だから、だからそんな理由で私から離れないでください。
あなたは覚えていないかもしれないが、私は、何年も前にお父上と一緒のあなたに、萩寺で会っているのです。」
真輔の腕の中で、百合が小声で答えた。
「覚えております。」
「実は二年前にも、同じ場所で見かけました。」
「私も気づいておりました。」
「それは、本当ですか。私はそのころから、ずっとあなたのことが好きだったのです。」
腕の中で、百合が体を固くした。真輔が抱きしめていた腕をそっと離すと、百合はうつむいたまま動かなかった。
「私のことが嫌でなければ、あらためて、私の妻となってはもらえないだろうか。」
「私のことを許していただけるのですか…」
「許してもらわねばねらないのは、私の方です。あなたと縁があるとは夢にも思わず、最初からあきらめていた。もっと早く、あなたの側にいれれば…」
心の中の固い重しが溶けてしまったようで、百合の肩から力が抜けた。真輔の口から妻にと望まれて、恥ずかしくなるほど、嬉しさがこみあげていた。うつむいていた百合から、嬉し涙がぽとりと落ちた。今度は遠慮がちに真輔の腕が百合の肩に回り、百合の頭が遠慮がちに傾いた。
「昨日、あなたからお父上の話が聞けて嬉しかった。これからも、少しでも私がお父上に近づけるように助けてもらえませんか。私にも、あなたの力がいるのです。」
「本当に、私で良いのですか…」
「あなたでなければ、だめです。」
百合はもう返事をしなかった。代わりに真輔の袖をきつく握った。真輔ももう問わなかった。
百合と共に迎えた翌朝の、障子の隙間から覗いた庭の新緑が、眼鏡をかけていないのにもかかかわらず、真輔の目に朝日に映えて殊の外つややかに見えた。
百合が淹れたての茶を運び、おまつが膳を下げていった。熱を出してから少しずつ会話が増えた百合との距離を更に縮めたいと思う真輔は、湯呑を手に素直に夕餉の礼を言った。
「ごちそうさまでした。美味しかったです。滋養が体に行き渡った気がします。
心配をかけてしまったと思いますが、弥吉のこれからの奉公先も、駿河屋の主人が万事面倒を見てくれました。」
「それは、ようございました。昨日、栄三郎から少し事情を聞きましたが、亡くなった娘さんは、弥吉という人をだまそうとしたのでしょうか。」
「今となっては、だまそうとしたのか、そうではないかはわかりません。」
百合は黙り込んでしまい、二人の会話は途切れてしまった。沈黙が続き、真輔はあせった。と、百合が両手を畳について静かに頭を下げた。そして、ゆっくりと顔を上げて真輔をまっすぐに見つめた。
「今日はどうしても、申し上げなければならないことがあります。」
語尾が震えている。ただならぬ様子に、真輔も湯呑を置き、居ずまいを正す。
「私は、おいとまさせていただきとうございます。」
百合はそれだけ言うと、再び額が畳に触れんばかりに頭を下げた。真輔の頭の中は真っ白になった。言葉が出ないまま、二人の間でまた沈黙が続いた。激しく脈打つ心の臓を落ち着かせようと、湯呑を手に取って、一口飲み、ゆっくりと置いた。深くお辞儀をしている百合の肩も背中も、いや全身が震えていた。
「(やはり、私が嫌なのか…)手を上げてください。ここは、あなたの家だ。あなたが私を夫として迎えられないなら、この家から出ていくのは私でなければならない。」
しかし、真輔の言葉に、百合は激しく首を振った。
「家を出ていくべきなのは私です。真輔様には、ぜひ笠原の家を継いでいただきたいのです。私があなたの妻にふさわしくない、その資格がないのです。」
百合の声は泣き声になった。当惑しきった真輔だったが、手習い所で泣く子供にわけを聞いていたときのように、ゆっくりとやさしい声音で問うだけの落ち着きは取り戻していた。
「何故、そのようなことを言われるのか、わけを聞かせてもらえますか。」
百合は、このまま真輔の側に、この家にいるわけにはいかないと考え続けていたが、どうすれば真輔の心が一番傷つかないかの答えは見つかっていなかった。
「お聞きにならないでいただけませんか…。」
「それは…酷…ですね。」
真輔の声が傷ついたように小さくなり、百合の胸をえぐった。先日のおまつの言った言葉が胸の中によみがえる。
(まっすぐに真輔様と向き合ってください。)
打ち明けて軽蔑されたくない。でも、黙っていることがより目の前の人を傷つけるならば、それは罪を重ねることになる。百合は勇気を振り絞った。
「私は亡くなった娘と同じことを、あなたをだまそうとしたのです。」
真輔は驚いて、思わず百合の方へ膝を進めた。
「み、身籠っているのですか…」
「いいえ、身籠ってはありませんでした。でも…」
「やはり、お好きな方がいらしたのですね。その方と約束をかわされていた…」
「違います。」
百合は、髷が崩れそうな勢いで首を振った。あの時のくやしさがよみがえり、百合の口をついて出て行った。
「父の葬儀の後、旧知の人から表立っては行けないが私に悔みを伝えたいので、出てきてほしい、という手紙をもらいました。真に受けて、昼日中とはいえ、人気のない場所に出かけた私が悪いのです。慰められるつもりが、慰みものに…」
膝の上で固く握りしめられていた百合の手を、真輔の両手が包み込んだ。
「もう、いい…」
真輔に手を握られたことにも気づかない様子で、百合は話し続けた。
「手紙を見つけたおまつが探しに来て、屍のように一人で横たわる私を見つけ、家に連れて帰りました。このことは、私とおまつだけの秘密になりました。そして、私は、縁談を断りもせず、月のものが遅れているのに祝言を挙げ、万が一身籠ってしまったらそのまま…」
言葉の止まらない百合を、真輔が抱きしめた。
「もう、いい…。辛いことを話させてすまなかった。」
「ごめんなさい…。」
百合はたまらず真輔に抱きしめられたまま、その胸に顔を埋めて泣き出した。真輔の手がしゃくりあげる百合の背を、やさしくなでた。
「あなたは何も悪くないし、ましてや私をだまそうとなどしてない。何故なら、私とは寝所を別にしてきた。だから、だからそんな理由で私から離れないでください。
あなたは覚えていないかもしれないが、私は、何年も前にお父上と一緒のあなたに、萩寺で会っているのです。」
真輔の腕の中で、百合が小声で答えた。
「覚えております。」
「実は二年前にも、同じ場所で見かけました。」
「私も気づいておりました。」
「それは、本当ですか。私はそのころから、ずっとあなたのことが好きだったのです。」
腕の中で、百合が体を固くした。真輔が抱きしめていた腕をそっと離すと、百合はうつむいたまま動かなかった。
「私のことが嫌でなければ、あらためて、私の妻となってはもらえないだろうか。」
「私のことを許していただけるのですか…」
「許してもらわねばねらないのは、私の方です。あなたと縁があるとは夢にも思わず、最初からあきらめていた。もっと早く、あなたの側にいれれば…」
心の中の固い重しが溶けてしまったようで、百合の肩から力が抜けた。真輔の口から妻にと望まれて、恥ずかしくなるほど、嬉しさがこみあげていた。うつむいていた百合から、嬉し涙がぽとりと落ちた。今度は遠慮がちに真輔の腕が百合の肩に回り、百合の頭が遠慮がちに傾いた。
「昨日、あなたからお父上の話が聞けて嬉しかった。これからも、少しでも私がお父上に近づけるように助けてもらえませんか。私にも、あなたの力がいるのです。」
「本当に、私で良いのですか…」
「あなたでなければ、だめです。」
百合はもう返事をしなかった。代わりに真輔の袖をきつく握った。真輔ももう問わなかった。
百合と共に迎えた翌朝の、障子の隙間から覗いた庭の新緑が、眼鏡をかけていないのにもかかかわらず、真輔の目に朝日に映えて殊の外つややかに見えた。