第6話 蜘蛛の巣

文字数 3,714文字

「私は、市民の森で遭難しかけたことがあるんですよ」
 群さんがそう口を開くと、かみ殺した笑い声があちこちであがった。
 市民の森とは、k市立森林公園を指し、住宅地に隣接する公園には週末ともなると親子連れで賑わう、近隣住民の憩いの場所だ。ここいら一帯は山間の谷に造成された住宅地で、周囲には森に覆われた山々が連なる。市民の森は山裾に設けられた公園で、手つかずの自然に親しむをテーマに、トイレといった必要最低限の施設のみ設備されているだけの場所だ。夏には小川の水面を舞う蛍の姿を目にすることができる。野鳥も多く存在し、バードウォッチャーには天国のような場所、森を歩くハイキングコースは中年夫婦に人気の散歩道となっている。
 人の手があまり入っていないとはいえ、近所の住民が気軽に足をむける場所であって、それなりに鬱蒼とした木々の生い茂る森の中を歩くハイキングコースにしても、道はふみかためられ、標識も整備されているので、迷うことはまずありえない。遭難などと群さんは大袈裟なと、市民の森に一度でも行ったことのある人間たちは私を含めて苦笑した。
「そうです。私も今の皆さんと同じように遭難など考えずに、少し体を動かしてくるかなといった程度に考え、簡単な格好でハイキングコースに入りました。
 確か、平日の昼過ぎだったと思います。その日は仮病で会社を休んでいました。夕飯までには十分間に合って家に戻れるだろうと踏んで出かけたのです。その頃、仕事のことで少し悩んでいて、無心に山でも歩いて頭をすっきりさせたかったのです。
 初めのうちこそ、山をおりてくる人々とすれ違い、挨拶を交わしていましたが、深く進んでいくにつれ、人気も次第に薄れていきました。そうなると大胆になるもので、私は大声をあけて地面を蹴り上げたり、拾った枝で葉を打つなどしてむしゃくしゃした気分を晴らしていました。
 しかし気分は晴れるどころか、苛立った感情は仕事とは関係のない事柄にまでむかっていき、あれもこれも何もかもが嫌になり、葉を打ちすえる力は強くなり、地面は蹴るというより削り取るという勢いにまでなっていったのです。
 これでもか、これでもかと、土ぼこりをたてながら爪先で地面を蹴り上げていたわけですが、ふとした拍子に拳ほどの大きさの石が目に飛び込んできました。黒いその石は、乾いた地面の上で目立っていました。ひとつ石を思い切り宙に蹴り上げてやろう、そう思い、私は近づいていきました。爪先をあてがおうとしたその時になって、それは石ではなく、何かにたかっている蟻たちなのだと気づきました。
 蟻に襲われていたのは蜘蛛でした。親指の先程もあろうかという大きさの蜘蛛でしたが、小さな蟻とはいえ、大勢によってたかって襲われたとあっては手も足も――蜘蛛は足だけですが――出ないとみえ、いかに脚が八本あるといってもかなわないらしく、じたばたしながら地面に伏しているほかはないようでした。
 放っておけば数時間のうちに蜘蛛は脚をもがれて死んでしまうでしょう。私が通りがかった時、すでに蜘蛛は一本の脚を失っていました。たがか蜘蛛一匹生きようが死のうが知ったことか、私はその場を立ち去ろうとしました。しかしできませんでした。
 むしゃくしゃしているからといって、蜘蛛を見殺しにしていいはずがない。
 もがいていたのが蜘蛛ではなくて上司ならあるいは見捨てて通り過ぎていたかもしれませんが、蜘蛛は私の苛立ちとは全く無関係です。それに、無力で蟻に抵抗できずにいる蜘蛛が、仕事で孤軍奮闘している自分の姿と重なってみえたのです。
 私は、私自身にも授かりますようにと祈りながら、天祐を授けるがごとく、蜘蛛の体から蟻を払ってやりました。二度と蟻に襲われないようにと木の葉の上に放してやると、七本になってしまったおぼつかない足取りながら、蜘蛛はどこかへと姿を消していってしまいました。
 蜘蛛を助けてから三十分ほど歩いた頃でしょうか、私は様子のおかしい事に気づきました。ハイキングコースはゆっくり歩いても一時間ほどで近所の小学校に隣接する山に抜け出ます。山の頂上から小学校の校庭にむかって手摺のついた階段が備えつけられ、百段は優にあるこの階段は運動部の格好の鍛錬場になっているのでした。
 私がハイキングコースに入った時間から考えて、そろそろその階段が見えてきてもいい頃でした。しかし、階段と共に視界にはいってきていいはずの住宅地の屋根並みも全く見当たりません。それどころか、鬱蒼とした木々の隙間を埋めているものは葉に次ぐ葉でしかないのです。
 どうやら、むしゃくしゃした気分で歩いていたもので、注意力散漫になり、ハイキングコースから外れてしまっていたようでした。
 しかし、この時の私は、たかが市民の森のハイキングコースで遭難などとあり得ないだろうと、状況を楽観視していました。日もまだ高かったですし、森に迷いこんだといってもハイキングコースからはそれほど逸れてはいないだろうと見込んでいました。
 私は、適当な長さの枝を拾い、地面に突き立てました。それからしばらくの間、枝が投げかける影を追いました。ハイキングコースの入り口は西、私は小学校の裏山、東にむかって歩いてきましたから、太陽が傾いていく方向と逆に歩いていけばいずれ裏山にたどり着くはずです。影の行く先から太陽の動きをつかみ、私は再び裏山目指して歩き始めました。
 しかし、どういうわけか、出発した場所に戻ってきてしまいました。にかかる木漏れ日から太陽の位置を確認しながら歩いていたつもりでしたが、途中で方向を間違えてしまったのかもしれません。
 私は、今度はよくよく気をつけてみようと再び歩き始めました。どうやら生い茂る木々の影に日の光がさえぎられると、太陽の傾いていく方向を見誤ってしまうようでした。何度か同じ場所に戻ってきてしまう失敗を繰り返した後、私はふとこう思いました。
 先に進めないのなら、戻ればいい。来た道を引き返すほうが楽なのではないか。迷い込んだとはいえ、一度は通った道なら知らない先を探るより簡単だ。そう考え、私は来た道を引き返し始めました。それでもやはり元の場所に戻ってきてしまうのでした。
 何故同じ場所に戻ってきてしまったとわかったかといいますと、太陽の動きを知ろうと突き立てた木の枝が不自然に直立しているからでした。
 疲れ切った私は、しばし近くの茂みの陰に腰を下ろしました。丁度、視線の高さの茂みに蜘蛛の巣があり、中央に陣取った蜘蛛は獲物がかかるのをじっと待ち構えていました。しかし蜘蛛の巣は所々破けていて、どう頑張っても獲物がかかるような代物ではありません。きっと巣をつくるのが下手な不器用な蜘蛛なのでしょう。
 蜘蛛として巣作りがうまくないというのは生き辛かろうと、私は蜘蛛に自分の姿を重ねてじっと巣をみつめていました。
 そうしているうちに、ふと不思議なことに気づいたのです。
 蜘蛛の巣は破れているのではありませんでした。その部分だけ網目が飛んでいるため隣の糸との間隔が広がってしまって破れているように見えるだけなのです。そうして網目の飛んでいる部分の近くには砂粒だとか木の葉だとかがはりついているのでした。
 まるで地図ではないか、天啓がひらめいたのです。
 破れ目の部分は蜘蛛の巣を抜ける道のようで、たどっていくと巣の外へと出るのです。そうして抜けた先には細かい網目が編み込まれていて、小学校の校庭へと降りていく階段を彷彿とさせます。
 これはもう地図でしかない。
 私は、蜘蛛のいる場所を現在地として破れ目の部分めがけて歩き始めました。
 しばらくすると、大きな栃の木が見えてきました。蜘蛛の巣にひっかかっていた木の葉は栃の木の目印だったのでしょう。私は頭に叩き込んだ地図を思い返しながら、先を進みました。
 またしばらく行くと、今度は小さな沼にぶつかりました。蜘蛛の巣の地図でいうと水滴のついていたあたりです。網目は沼の脇から右の方向で飛んでいました。私は右へと曲がりました。
 膝下まで生える下草をかき分けながら歩いていくと、ふいに足元が軽くなりました。踏み固められた地面は獣道ではなく、見知ったハイキングコースでした。私は闇雲に駆け出しました。息が切れる頃になると視界が開け、木々の間から階段の手すりが投げかける光が目に飛び込んできました。校庭にいる子供たちの声も聞こえてきます。私は転がるようにして階段を一気に駆け下りていきました。
 後から聞いた話ですと、前々日に降った大雨の影響で、ハイキングコースのあちこちで土砂崩れが発生していたそうなのです。迷った時、やたらめったらに歩きまわっていたとしたら、あるいは私は土砂に埋もれていたかもしれません。進もうとして何度も同じ場所に戻ってくるたび、まるで何かにたぐりよせられたような感覚があったのですが、それは蜘蛛が、私が誤って崩れた崖の下に落ちないように糸でひっぱっていてくれたのかもしれません。そして巣を地図に見立てて、帰り道を示してくれたのでしょう。私を助けてくれたその蜘蛛は一本脚が欠けていました。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み