第8話 犬の子

文字数 5,166文字

「私は犬に育てられたんですよ」
 笑顔を浮かべながら、乾さんが言った。
 くりっとした目、小ぶりながらも通った鼻筋はいわれてみれば柴犬を思い起こさせる。
「父方の家に伝わる習慣でして、跡継ぎとなる男の子は生まれてすぐに犬小屋に捨てられるのです。捨てられるといっても名ばかりで、寝起きを犬とともにするだけ、実際の世話は家の人間がします。三日ほど犬と過ごした後、ようやく家の中に入れてもらえます。
 男の子が生まれたら、犬小屋に捨てて犬に育てさせ、その後、犬の子を拾った体裁で育てるように、私は祖母からそう言い聞かされて育ちました。そうしないと家が途絶えてしまう、自分の目の黒いうちにそんなことになってはご先祖様に申し訳がない、祖母はことあるごとにそう言っていました。
 父方の家はそれなりに由緒のある家柄でして、先祖は戦国時代の武将だという話です。とは言いましても、名前こそ、その武将のものを名乗っていますが、実は直接の先祖ではありません。血のつながりはまったくないのです。もとの武将の家系はとうの昔に途絶えてしまっているのです。私と血のつながった遠い祖先が家督を継いで今に至るのです。
 継いだ、と言いましたが、これは正しくありません。奪った、乗っ取った、という方がふさわしいでしょうか。代々、跡継ぎが犬に育てられる習慣は、このことと深く関わっています。
 お前は犬の子として育てられなかったから、きっとよくないことが起こる、祖母はそう言って私を脅かしました。祖母はまた怯えて、怒ってもいました。
 祖母の怒りの矛先は母でした。
 男の子は生まれてすぐに犬に育てさせるのが家のしきたりなのに、そうしなかった。きっといまによくないことが起きる、そうなったらあなたのせいだ。祖母は執拗に母を責めたてました。
 先程、私は犬に育てられたといいましたが、それは物心ついてからのことです。
 若いうちに家を出ていた父は勝手に母と結婚し、私を連れて家に戻ってきました。
 初孫の顔を見て喜ぶどころか、祖母は恐ろしい形相で私を引き立て、犬小屋に押し込めました。白髪を振り乱し、血走った目の祖母に取って食われるような心地で私は泣き喚いたのを覚えています。母は母で、幼い子どもを犬小屋に閉じ込めるなんてといきり立ち、私を犬小屋から引きずり出そうとします。祖母と母との格闘、泣き叫ぶ私とに興奮して、犬も激しく吠え立てました。当時、家で飼われていたのは秋田犬でして、子どもでなくても牙をむいている大型犬というのは恐ろしいものです。子ども心に化け物にも思えるその犬のもとに送られようというのですから、私は必死に抵抗しました。
 結局、父が間に入り、男子は犬小屋に一定期間預けられるしきたりがあるのだと母に伝えました。しかし、母はそんな馬鹿げたしきたりになど従わないと譲りません。幼い頃、自身も犬に育てられたとはいえ、父もふざけたしきたりだと思っているようで、母に無理強いはしませんでした。何より、子供が怖がっているからという理屈で、私の犬小屋行きはまぬかれました。
 その場では折れたものの、祖母は諦めようとはしませんでした。私を犬に育てさせろと父と母に毎日のように迫りました。隙あらば私の手を引いて犬小屋へ連れていこうとするので、母は常に私をそばに置いて気の休まる暇もなかったようでした。家の中はこうして絶えず、母と祖母とが諍いを繰り広げていました。
 優しい母が、祖母と相対する時には夜叉のように声を荒げるのに耐えきれず、私は祖母の姿を見かけると姿を隠すようになりました。庭の隅で膝を抱えて泣いている私を慰めてくれたのは、庭で放し飼いにされていた犬でした。大福餅を彷彿とさせる見事な白い毛並から、福と呼ばれていたその犬は、私の頬に伝う涙を舌で拭い、おとなしく私に寄り添ってくれました。福のぬくもりに癒された私は、自ら進んで犬小屋に身を隠し、福と寝起きをともにしました。犬とはいえ、何事かを感じとったような福は、自分の子のように(福はメス犬でした)私を可愛がってくれました。
 私としてはずっと犬小屋で生活していってもよかったのですが、むしろその方がよかったのですが、そういうわけにもいかず、一週間とたたずに家の中に戻されました。
 形ばかりは、こうして犬に育てられたという格好になったわけですが、祖母は納得せず、しきたりを守らなかったからいまによくないことが起きると、母を責めたて続けました。責められ疲れたのでしょう、母は私を連れて家を出てしまいました。
 父もまた母を追って家を出てきました。夫婦仲が悪いわけではなかったので、また親子三人の暮らしが始まりました。人づてに私たちの居所を聞いたのでしょう、そのうちに祖母がしばしば訪ねてくるようになりました。祖母は、父に家に戻るようにと促していました。母とは離婚し、再婚して跡取りとなる男児を得、今度こそその子を犬の子として育てろの一点張りで、父は怒りを通りこして呆れているようでした。
 そうこうしているうちに、酒の飲み過ぎで肝臓を傷めた父が若死にしてしまいました。私は小学校にあがったばかりでした。
 父の葬儀の席で、祖母は私を引き取ると言い出しました。父は一人っ子でしたので、私しか後を継ぐ人間はいないと言うのです。祖母の頭の中は家の存続の事だけで、母の存在は眼中にありませんでした。
 女手一つで私を育てていく不安があったのでしょう、結局、母は祖母の申し出を受け入れざるを得ませんでした。私は、母も一緒にと強情をはり、私たちは祖母の世話になることとなりました。
 最初の結婚は二十五の時でした。相手は高校の同級生でした。
 子供にもすぐに恵まれました。初めての子は祖母の望んだ通り、男の子でした。男の子ならきっと犬に育てさせろと祖母は口うるさく言っていましたが、私たち夫婦はその言いつけを守りませんでした。生まれたばかりの子を犬小屋に放置したくはなかったですし、祖母は出産の少し前に亡くなっていたので、そもそもしきたりの事など頭からすり抜けてしまっていたのです。
 しかし、嫌でも祖母の言っていたことを思い出す時がやってきました。
 長男がわずか三歳でその命を落としてしまったのです。病気でした。私たちはひどく落胆しましたが、すぐにまた妻は子を身ごもりました。しかしその子は生きて生まれてきてはくれませんでした。死産だったのです。男の子でした。
 立て続けに子供を失い、私はふと祖母の口癖を思い出していました。「お前は犬に育てられなかったから、今によくないことが起こる」、生前の祖母はそう繰り返していました。まさにその「よくないこと」が起きたのです。
 跡継ぎには恵まれない、この家は私で終わるのだ。ならば一世一代、面白おかしく生きてやろうじゃないか。私は妻と離婚し、 勝手気ままな日々を送るようになりました。家庭といった暖かいものは望むべくもないと諦めていました。
 しかし、今の妻に出会ってしまった……。
 若い彼女は子供を望みました。私はそれは叶えられないと知りながら、何も告げずに彼女と結婚しました。
 はたして、子供は出来ませんでした。出来てもすぐにダメになってしまうのです。妻は悲嘆にくれて、病院に通いましたが、原因はわかりません。
 私にはわかっていました。
 しきたりを守らなかったからなのだと。私が犬の子として育てられなかったものだから、家は私の代で終わりを告げる。私には子供ができないか、出来たとしても、祖母の言葉を借りるなら、「取られて」しまうのだ。
 私はひそかに、生前祖母が絶大の信頼をおいていた占い師のもとを訪ねました。
 呪いなど信じていませんでしたが、こうも不幸が続くと目には見えぬものの力を感じずにはいられません。目には見えぬものの力を断ち切るにはやはり目には見えぬものの助けを借りるしかない。私は占い師にどうにか子供を授けてもらえる方法はないかと相談しました。
「あんたが二代目当主である限り、それは無理な話だ」
 占い師の老婆はそっけなく言い放ちました。
「あんたの家は三代と続かない。続かないはずなのにこれまで続いてきたのはだ、代々の跡取りに『犬の子』をすえてきたからさ。一度捨てて、犬の子を拾ってきた体裁で跡継ぎとする。そうやって、一代限りで続いているように見せかけてきたんだ。ところがだ。あんたは犬の子としてではなく、実子として家に入っちまった。あんたの親父を初代として、あんたは二代目になっちまった。三代と続かない家だから、あんたが二代目である限り、三代目、自分の子供は諦めるしかないね」
 老婆は、祖母から預かったという家系図を取り出して見せながら、家が三代と続かない理由を語ってくれました。
「あんたはx家を名乗っているが、血筋はまるで違う。遠い昔、家系図でいうとこの辺り、代変わりが細かくなっている時代があるだろう? この辺りで血が変わった。要するに、あんたの祖先がx家を乗っ取んだんだな。それをよく思わない本来の家の先祖が、ならば血筋を絶やしてやるとばかりに祟った。それで三代と続かなくなった――」
 占い師の話は郷土資料からも確かめられました。先祖の呪い云々という話は置いておくとして、確かに直系の血筋は耐え、その後を継いだのは――いえ、正しくは乗っ取ったというべきでしょう――家の家来筋にあたる人間、血でいえば私の遠いご先祖でした。
 その人物は若い主君の後見を任されていたのですが、主君の幼いのをいいことに自らが当主になりかわってしまいました。そして跡継ぎに自分の孫をすえたのです。しかし天は主君への裏切りともいえるこの行為を赦さず、跡を継いだ孫はわずか一年後に亡くなります。その後、改心して本来の主に家を戻すかと思いきや、三代目として今度は息子、死んだ孫の父親をすえたのです。しかし、悪いことは続くもので、この息子も早世してしまいます。
 今度こそ家を戻してもらえるだろうという本来の主の望みも虚しく、その人物は姉の息子を後継としました。一度手にいれた家柄をどうやっても手放さないつもりでいたようです。
 この姉の息子の身には何事もなく、やがて家を乗っ取った張本人も亡くなります。家を乗っ取られた憤怒にかられながら後継者争いを繰り広げている間に幼かった本来の跡継ぎは子供を残すこともなく夭折してしまいます。こうしてx家の名前だけは、血縁のないものが継いでいくことになりました。
 さて、姉の息子を初代として、その息子、二代目も寿命をまっとうしたのですが、三代目が続かなかった。
「血が続かないものだから、どこの馬の骨とも牛の骨ともわからない人間に継がせた体で、本来の先祖の祟りをまぬかれようとしたんだろう。生まれた子を一度捨て、犬に育てさせて犬の子を拾ってきたとして家に入れるようになった。大方、あたしのような婆に入れ知恵されたんだろう」
 私は『犬の子』として家に入らなかったため二代目とみなされ、それで私の子、三代目は本来の主の祖先に命を「取られる」のだと、占い師は言いました。
 どうにかならないのかと泣きついても、犬の子として拾われなかった過去は変えられない、乗っ取った人物の血筋の三代目はどうやっても得られないとの一点張りでした。
 過去を変えることはできないという占い師の言葉に、私は気持ちがすさみました。我が子を抱くことは永遠にかなわないのだ。かつての自暴自棄な感情がまた舞い戻ってきてしまいました。
 しかし、ある時、ふと気づいたのです。
 二代目である限り、三代目に恵まれないというのなら、二代目でなくなればよいのではないか。
 過去は確かに変えられないが、現在の状況なら変えることができる。
 私は妻の家に養子に入りました。乾という姓は妻の実家のものなのです。
 養子に入るという話をした時、親戚一同からは猛反対をうけました。
 家を途絶えさせてはご先祖に申し訳がたたないというのです。しかし彼らのいう「家」とは、主君のものであったのを乗っ取って手にしたものです。私としては、直系は無理としても傍系の子孫にでも継いでもらえたらと考えていましたが、ずい分と昔の話ですので、そういう方がいるかもわかりませんでした。
 結局、家も土地もすべて本来のx家の永代供養の心づもりで寺に寄付してしまいました。これについても反対されましたが、売って利益でも得ようものならさらなる不幸にみまわれそうな気がして、私としてはとにかく縁を切るようにして手放してしまいたかった――。
 妻の家に入ってすぐに子供ができました。男の子です。
 居間、五歳になりますが、何事もなくすくすくと育っています。
 実は妻は妊娠中でして――ええ、今はとても幸せです――。
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