第5話 蟻

文字数 3,420文字

「蟻は悪食でしてね」
 広間の食べ物の匂いにつられて出てきたのだろう、畳の上を這っていた蟻を、益子さんは親指でつぶした。
「しかもあっという間に増えてしまうんだから厄介なもんです。
 いつだったか、子ども時分に我が家で蟻が大量に発生したことがありましてね。真夏とあって、蟻の方も活発に動き回っていて、縁側に食べ物を置いておこうものならすぐさま蟻がたかる。昼夜問わず家の中に入ってくるので、母は蟻退治にやっきになっていましたが、私と弟とは面白がって、庭先の蟻を観察していました。
 夏だと、庭先に干からびたミミズだとか、虫の死骸だとかが転がっているんですが、必ずといっていいほど蟻がたかっているんです。まるで磁石にまとわりつく砂鉄のようでしたね。そうして大勢で集まっておいて獲物を解体するんです。ミミズなどは柔らかいので蟻ほ顎の力程度でも引きちぎれそうだとわかるんですが、ゴキブリだのセミだとのといったみるからに硬そうな虫の脚だの翅なども簡単に噛み千切ってしまうんです。そして、自分の何倍もの大きさの翅をまるでヨットの帆のように高々と掲げて巣へと持ち帰っていく。半日もあれば、小さい昆虫などはあっという間にあとかたもなくなります。
 私と弟とは、蟻の解体作業を見るのが楽しくて、家の中で見つけたゴキブリの死骸を庭先に放ってやっていたものです。
『兄ちゃん、蟻がどこへいくのかついていってみようや』
 ある日、弟がそう言うので、私たちは蟻の行列をたどってみることにしました。
 我が家の庭を出て行った蟻たちは列を乱すことなく、どこかへとむかっていきます。背を縮こめながら蟻の隊列を追ってたどりついたのは隣の家でした。隣とはいっても田舎のことですから、この町内ですと二、三軒先ぐらいの距離でしょうか。蟻たちはどうやらその家の庭を目指しているようでした。隣といっても、境を隔てるような柵があるわけでなし、門もありませんから、私たちは蟻に導かれるようにして庭先へと足を踏み入れました。
『こら、お前たち! ひとんちに勝手に入って来ちゃいかん!』
 蟻を追って、腰をかがめ、地面に額をつけるようにしていたものですから気づきませんでしたが、縁側には男が胡坐をかいておりました。小太りの中年男で、アンダーシャツからはみでている腕や脚は日に焼けていました。
『蟻を追いかけてきた!』
 弟が無邪気に言うと、男は途端に相好を崩しました。
『坊主、蟻が好きか』
『うん、虫をバラバラにするところが観ていておもしろい』
 弟がそういうと男は腹を抱えて笑い転げました。
『そうか、そうか。それなら毎日うちに遊びにおいで』
 こうして私たちは男の家に毎日のように遊びにいくようになりました。
 男は自分も蟻を観ているのが楽しいんだと言って、わざと蟻がたかりそうなものを庭先にまいては蟻を寄せていると言っていました。
 蟻は悪食だと言いましたが、実感したのはこの時が初めてでした。
 私たち兄弟は主に虫を放っていましたが、男はいろいろなものを庭先に投げていました。虫の死骸はもちろん、野菜の切りくず、残飯だの、その中には肉の脂身や魚の骨なども含まれていました。
 それらが庭先に放り投げられると、あっという間に蟻たちがどこからともなく姿を現し、たちまちたかります。その様子は我が家の庭で見たものとまったく同じでしたが、何しろ、数がすごい。男が庭先に残飯などを放り投げてしばらくの間は足の踏み場もなくなるほど、庭が蟻で埋め尽くされたものでした。たまに道をそれた蟻が縁側にのぼってきては私たち兄弟の裸足を噛んだりしましたが、男はそんな蟻をやさしくつまみあげては、庭に戻してやっていました。
 男にとって、蟻は唯一の友達だったようです。友達を家に招いて、ごちそうしてやる、そんな感覚で残りものなどを与えていたのですが、男の妻にとっては、庭先にゴミを投げ散らかすとしかうつっていなかったようです。
『よしてよ、蟻がよってくるじゃないの』
 いつものように、男が食べ物を庭先に放りなげ始めると、家の奥から女がぬらりと姿を現しました。小柄で小太り、抜ける様に肌の白い女で、派手な柄のワンピースを着ていました。
『ったく、蟻相手に油売る暇があるなら、働きゃいいのにさ』
 忌々し気にそう言い捨て、女は蟻を踏みつけるようにして出かけていきました。男は黙って、その後も残飯を投げ続けていました。女を見かけたのはこれきりでした。
 私たち兄弟は男から蟻についてのあれこれを教えてもらいました。
 我々が普段目にする蟻はすべてメスであること、外に出歩いているものは年老いた蟻であること、働き蟻とは別に兵隊蟻と呼ばれる体の少し大きな蟻が解体作業を専任で行っていること、新天地を求めての蟻の婚礼飛行について――。
『女が働きもんなんは人間も蟻も同じだな』
 男は自嘲気味によくそうこぼしていました。
『おっちゃん、蟻の退治方法を教えてよ。うちの母ちゃんが困ってるんだ』
『今は夏だからたくさんいるだけだ。秋になったら落ち着く。来年の夏には全部いなくなるから』
 男はそういうって蟻の駆除方法についてだけは最後まで教えてくれませんでした。
 ある日のことです。私たち兄弟はいつものように男の家に遊びにいきました。しかし、いつもなら縁側に腰かけて庭先に残飯を投げている男の姿が見当たりません。トイレにでもいったのかと特に気にするわけでもなく、私たちは縁側に腰を下ろし、足をぶらつかせて男が出てくるのを待っていました。しかし、男は一向に姿をみせません。どうやら外出したようでした。
 男が返ってくるのを待っているうち、私は奇妙なことに気づきました。
 庭に蟻がいないのです。いつもなら、どこかしらにある黒山の“蟻”だかりが、その日に限ってひとつも見当たらない。どこにいったのだろう、強い日差しをさけてどこかに隠れているんだろうかと、私たち兄弟は縁側の下を覗き込んでみました。
 はたして、蟻たちは縁側の下にひそんでいました。蟻たちは隊列を組んで一心不乱に家の奥を目指していました。
『ついていってみようや』
 私と弟とは蟻の後を追って縁側の下にもぐりこみました。
 砂埃に咳き込みながらほふく前進で進んでいくと、視界に黒い巨大な塊が入ってきました。私は初め、人がいると思って、思わず身構えました。黒い巨大な塊はちょうど私たちが寝ころんでいるのと変わらない大きさだったからです。
 縁側の下のほの暗さのもと、目を凝らして見ると、その黒い物体の表面は騒がしく震えていました。近寄ってみるまでもなくそれが蟻たちだと判った瞬間、わたしは縁側の下にいるのを忘れて身を起こし、激しく頭を床下に打ち付けました。ふと、弟をふりかえると、後ろにいるはずの弟は慌てて後ずさりしていくところでした。その目は、黒い巨大な塊を見据えていました。私もまた、いつその巨大な塊が動き出すかもしない恐怖から目を離すことができず、膝をすりながら床下を這って出て行きました。
 庭先に出るなり、私たちは無我夢中で走り出し、我が家に帰りつきました。
 その日以来、私たち兄弟はとちらからということもなく、男の家に遊びに行かなくなりました。夏は終わりを告げようとしていましたし、夏の間にしておかなければならないことは子どもたちには他にもたくさんありました。川遊びなどに興じているうち、夏はあっという間に終わりを告げました。
 開きの始まりとともに、男の言った通り、蟻の姿を見かけなくなりました。同時に男も家を出ていきました。男の妻は別の男と駆け落ちしたという大人の話でした。
 あの日、私たちが見た物は何だったのか。人間の死体にたかっていた蟻だったのか、犬猫の死骸に群がる蟻が寝ころんだ人の形に見えたものなのか。今となってはわかりません――。

 *

 蟻を駆除するには巣に熱湯を流し込むとよいという益子さんの話はもう僕の耳には入ってこなかった。
 この春から僕たちは蟻に悩まされている。どうやら裏の家から来ているらしい。裏の家はゴミを庭に出すものだから蟻が寄ってくるのだと雪絵は文句を言っていた。姑と嫁の折り合いが悪いらしく、時折、大きな声が聞こえてきたものだが、そういえばこの頃ではきかなくなった。そして最近、姑の姿を見かけていない……。
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