第1話 庚申講

文字数 3,058文字

 昔は庚申講(こうしんこう)なるものが盛んだったらしい。

 講(こう)は集まりの意、庚申は十干十二支の組み合わせの一つである。六十を周期とするので、庚申の組み合わせは、年なら六十年、日なら六十日ごとにめぐってくる。

 道教によると、人の体にはそれぞれ頭、腹、足に虫がいるんだそうだ。いわゆる腹の虫といわれる、その「虫」である。この虫たち(三尸(さんし))は、庚申の日の夜になると、寝ている人の体からこっそり抜け出し、天帝に宿主の犯した悪事を告げるのだという。

 天帝に悪事が露見したら寿命が縮まるというので、虫が体を抜け出せないよう、人々は庚申の日の夜は寝ないでいることにした。かといって、一晩中ひとりで寝ずに過ごすのはつまらない。そこで、集まって夜通し騒ぐようになった。庚申講のはじまりである。

 江戸時代に隆盛を誇ったこの庚申講をやろうと言い出した人物は、町内会長の河原崎老人だ。河原崎老人が子供の頃はまだ盛んだったらしく、実のところ、現在も細々とではあるが庚申の夜の集まりは続いているのだとか。
「町内会の親睦を兼ねてやりましょう」――河原崎老人の鶴の一声で庚申講が決まった。

 町内会で徹夜の集まりがあると言うと、妻の雪絵は眉をひそめた。
「徹夜って……。他の人は構わないかもしれないけど、あなたはサラリーマンなのよ。次の日には会社があるじゃないの」

 町内会の人間のほとんどがリタイヤ組だ。若い世代もいるにはいるが、自営業か、働いていない身分、たとえば専業主婦といった立場の人間で、働き盛りの三十代、男性、サラリーマンというのは僕しかいない。

「金曜の集まりだから」
 今回は庚申の日が金曜日になったが、次回以降は平日になるだろうとわかっていながら、僕は金曜日だから徹夜の集まりがあるのだと取れる言い方をした。

「随分と町内会にいれこんでいるのね」
 雪絵はいぶかしげな表情を浮かべた。町内会で徹夜の集まりがあるといって家を空け、その実女の所にでも行こうというのじゃないかと疑っているらしい。

 自分でも、こんなに町内会の活動に熱心になるとは思ってもいなかった。
 そもそも、町内会に入れとうるさく言っていたのは雪絵の方だった。町内会に入っていれば何かと都合がいい、雪絵はそう熱弁を振った。

 その頃、僕らは隣人トラブルを抱えていた。
 都心の郊外に中古のマイホームを購入して数か月が経った頃だった。左隣に若い男が引っ越してきた。若い男と言ったが、実の所、今もって誰が住んでいるかはっきりしない。引っ越しの挨拶はなかったし、常に人の出入りがあって、誰が客で誰が住人なのか区別がつかないのだ。

 雪絵が近所から聞きこんできた情報によると、その家とその家の裏とは親類同士、裏の家には祖父母が住み、僕らの隣家には孫にあたる兄妹が住んでいるという話だった。

 僕らの隣家は祖父母の持ち家で、しばらくは人に貸していたらしい。僕らが引っ越しの挨拶に行った時に会った若い男女の夫婦は賃貸人だったというわけだ。特に付き合いはなかったが、会えば挨拶をするし、特に問題はなかった。

 しかし新しい隣人たちにはほとほと困らせられた。
 友人を呼んで、平日だというのに夜中まで騒ぐ。その友人たちは僕らの家の前に無断で車を停める、ゴミも平気で僕らの家の前に置くといった傍若無人ぶりである。注意したいと思うのだが、昨今の隣人トラブルがもとで殺人事件に発展などというニュースを耳にするにつけ、文句を言うのも怖い気がする。

 悶々とした日々を過ごしていると、直接注意すると角がたつというのなら町内会から注意してもらってはどうかと雪絵が言い出した。人付き合いは面倒だといって町内会への参加を渋っていた雪絵が妙なことを言い出すと思ったら、どうやら隣近所の奥方連中に吹き込まれたらしい。そういう訳で、僕らはおくればせながら町内会に参加した。

 件の隣人については町内会でも問題になっていた。河原崎老人が何度か注意して、駐車と騒音には悩まされなくなった。この結果に、僕らは組織の力というものをいやというほど思い知らされた。

 町内会の集まりは平日の夜にある。働いている人に考慮してというが、平日の午後六時に帰宅しているサラリーマンなどいない。第一に定時にあがれないのだし、二時間の通勤時間ではたとえ定時に退社できたとしても六時には間に合わない。雪絵もパート勤めをしている。

 二人で話し合いをし、平日の集まりには雪絵が、週末の集まりやイベントには僕が参加するとなった。

 宇佐美と名乗るその女性を初めて見かけたのは二度目の草むしりの時だった。
 年は三十を少し過ぎたくらいだろうか。腰近くまである長い髪を無造作に束ね、化粧っ気もなかったが、ほどよい大きさとバランスの目鼻立ちでかなりの美人だ。腰にほどよくのった脂がなまめかしく、若い女にはない柔らかみとまろみがあった。

 表札に「宇佐美」とだけある彼女はどうやら一人暮らしをしているらしかった。かといって働きに出ている様子もない。囲い者ではないかというのが近所のもっぱらの噂だった。

 彼女に会えるかもしれないという下心で、僕は仕事を調節してまで平日の集まりにも積極的に参加するようになった。煩わしさから解放され、最初は喜んでいた雪絵だったが、そのうち怪しむようになった。かといって、特に何かあるわけでもないから、疑うそぶりはみせても口には出さない。

 庚申講に彼女もくるかもしれない。僕にはそんな淡い期待があった。
 別に、浮気をしようだとか、そういう意思はない。誘われたら考えなくもないが、まず誘われないだろう。誘われたらと考えているうちが楽しい。男のスケベ心なんてそんなものだ。
 


 夜通しの集まりというから、食べて飲んで、カラオケでもするのかと思っていたら、話好きの河原崎老人主催の集まりということで、飲んで食べて夜通しで話をする催しとなった。場所は河原崎老人の自宅、食べ物と飲み物は各自の持ち寄りで、集合時間は夜の十一時と決まった。

 このあたり一帯の地主であったという河原崎老人の家は、広大な敷地にぽつんと立つ瓦葺の平屋だ。前庭には手入れの行き届いた柘植の大木が植えられている。砂利の敷き詰められた玄関先には先客の車が何台もすでに停められてあった。

 怪しむような表情の雪絵に見送られながら、僕は玄関の引き戸を開け、いそいそと中へと入っていった。とたんにはじめた笑い声が耳にとびこんできた。すでにたいぶ酒がまわっているらしい。

 声のする方へとむかっていくと、十畳はあろうかという和室にたどりついた。床の間を背にした河原崎老人をとり囲むようにして全員が車座に座っていた。

「鈴木さん、こっち、こっち」

 僕は招かれ、野末さんの隣に腰をおろした。普段の集まりでもそうだが、座席は何となく家の位置と同じものになってしまう。野末さんは僕らの右隣に住む五十代の子供のいない夫婦だ。

「みなさん揃いましたので、それでは始めましょうか」
 河原崎老人はぐるりと見渡した。
「お一人ずつ、話をしてもらいます。おもしろくなくても構いません。ただし、実際にあった話とさせていただきましょう。ご自分の体験でも、人から聞いた話でも結構です。まずは、辰吉さんから――」

 名指しをうけた辰吉さんは、コホンと軽く咳払いをし、居ずまいを正した。
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