第9話 虫が届けてくれた手紙

文字数 2,010文字

「先日、七十七の誕生日を迎えたんですが、その時に女房から手紙が届きまして」
 その場にいた全員が驚いた表情で三好さんを見やった。三好さんは何を驚くことがあるのかといった風に泰然としてにこやかな笑みを浮かべている。
 三好さんの奥さんは二年前に亡くなった。その奥さんから手紙が届くはずがない。どういうことだろうかとみんなして話の続きを待った。

 *

 女房は庭いじりが好きでした。一年中花の咲いている庭にしたいと言って、気が付くと庭にいた気がします。そんなに広い庭ではないけれども、広くないからこそ隅々にまで手が行き届いて、私が言うのも何ですが、いつでも花の咲いている美しい庭でした。私たちには子供がなく、私も出張が多く、女房にとって庭は世話をやける存在だったのでしょう。
 私が定年退職してからは、花より団子とばかりに野菜を中心に育てるようになりました。私も暇になりましたから、力仕事を中心によく手伝わされました。
 簡単な堆肥づくり、トマトやキュウリの支柱立て、草むしりなど、やることは多いものです。それだけに収穫の時は嬉しさもひとしお、味もスーパーで売っている野菜とは違うように感じましたね。二人きりでは食べられないほど収穫できたものはみなさんに食べていただいて。
 おすそ分けした野菜はどれも不格好だったでしょう? ニンジンはなかなか真っすぐにはならないもので、女房に言わせると作る人間の根性が曲がっているからだって。今になってはその女房の憎まれ口も恋しいですよ……。葉物野菜なんか、食べられるところなんてないぐらい虫に食われてぼろぼろになってしまうんですが、女房は頑として農薬を使いたがりませんでした。虫が食べられるものでないと口に入れたくないと言っていましてね。自分たちが食べられる分だけあればいいと言って、虫に食われるままでした。そんな女房の優しさに付け込んだのか、虫の方では畑を荒らし放題でしたね。
 女房が心臓発作であっけなくあの世にいってしまってからは、私は何も手がつかなくなってしまいました。庭の手入れもやる気が起きませんでした。野菜を作っても、おいしいねと言って一緒に食べてくれる女房がいませんからね……。
 そんなわけで、庭は荒れていきました。あの頃の庭の荒れ様はひどかったと思いますが、家の中も私の心も似たようなものでしたよ。
 それでも春が来てみれば、花が咲きます。雑草の花であっても私の心は慰められました。私は久々に庭に出てみました。女房が大事にしていた庭を荒れ放題にしてしまって申し訳ない、そんな気持ちから私は庭いじりを再び始めました。
 まずは草むしりからです。
 雑草の葉ですら虫に食われている有様でした。葉という葉の表面には虫が這った筋が幾つも走っていました。どうやら葉の中に虫が潜り込み、中から葉を食っている道筋が這ったように見えるのでした。ホウレンソウやチンゲンサイが被害にあったのならがっかりしたでしょうが、雑草ですから、気にもせずに引っこ抜いていきました。
 無心になって雑草を引き抜きながら、私は奇妙なことに気づきました。葉の表に浮かびあがる筋はうねっていて、まるで字のようだと思っていたのですが、見る方向を変えると字そのものにしか見えない。どう見ても字にしか見えない虫食いは全部で五つ、すべてひらがなで「あ」「と」「が」「う」「り」と読めました。並び変えると「ありがとう」と読めました。女房でした。女房の筆跡です。
 私たちは若いころ、文通というものをしていました。お若い方にはわからないでしょうか。今のように簡単にやり取りできる時代ではなかった。
 手紙にかける時間、かかる時間すら愛おしかった。女房からの返事が待ち遠しくて、女房の筆跡を見ると心が躍ったものです。字がうまいわけではないけれど、女房の癖というか、無邪気な明るさが字画の丸みに表れているようで、私は女房の字が好きでした。
 葉の表に浮かんでいた模様はまさに女房の筆跡でした。
 庭の手入れをしてくれて「ありがとう」と言ってくれたのでしょう。
 それからというもの、私は女房からの手紙を虫から受け取るようになりました。虫にしてみれば、女房への恩返しのつもりもあるのかもしれません。私から手紙は送れませんが、庭に出て独り言ちてみれば、数日後には返事がありました。女房からの手紙も来ます。お盆につい酒を飲みすぎた翌日には、「のみすぎ」と注意されてしまいました。そういうわけでして、誕生日にも「おめでとう」と手紙をもらったのです」

 奥さんから手紙をもらったと喜ぶ三好さんは本当にうれしそうだった。奥さんが存命だったころは僕らも野菜を分けてもらった。奥さんが亡くなって荒れ放題になっていた庭だが、再び庭いじりに励む三好さんをよく見かけるようになった。庭にいる三好さんが何ともうれしそうな表情をしているのは、奥さんからの手紙を読んでいるからなのだろう。
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