第4話

文字数 2,790文字

 一日は、とても長い。特に学校は長い。
 なにしろ、半日以上も学校にいる。ほとんど永遠といっていいと思う。
 空を漂う雲がずいぶんゆったり動いているように見える。しかし実は、あの雲では浮力と重力のせめぎあいが常に起きていて、相当忙しいらしい。向こうからみれば、むしろ私のほうが太平楽に映るかもしれない。けれど、もちろん私も実際はそれほどお気楽ではない。

 帰りの会が終わった私は、すぐに教室を飛び出した。全速力で廊下を走り、階段を何段飛ばしかで駆け下りる。
 そのおかげで、昇降口はまだ空っぽだった。靴をするりと履き替えて、校門まで走り切る。校門を出たら、学校の前のひらけた通りをびゅぅっと風が通り抜けていった。私は足を止めて、校舎を振り返った。
 誰もいない。近くの教室はまだどこも終わっていないようで、まるで廃校になったみたいに静かだった。とうに緑色になった桜の木が、ざわざわと風に揺れている。わたしはしばらくその様子を眺めていたが、急にはっとして、眺めているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。校舎なんか見てたってしょうがない。早く帰らなくちゃ、佳奈ちゃんが追い付いてきてしまう。
 信号が赤に変わる前に、急いで通りを横断する。ぱちっと赤色がついたのを見て、私はもう後ろを振り返るのはやめた。とぼとぼと歩き出す。

 その日は結局、風呂に浸かりながら考えたような、退屈な一日だった。どうせこのあともそうだろう。家に帰ってからの自分の運命について、思いを巡らせる。さすがに、今日は妹も大人しくしているだろうから、静かに過ごせるだろう。無事平穏に、何事もなく、静かに、一人で……。
 それから、夕食は肉じゃがだろう。そろそろハンバーグだとか、野菜炒めだとか、そういう味が欲しくなる。シチューの翌日に肉じゃがって、お母さんの献立はおかしい。きっと冷蔵庫に減らしたい食材でもあるんだろう。しかしこうつまらない料理ばかり続くと、精神的に良くない。毎日ごろごろしたじゃがいもと出くわしていたら息が詰まる。
 私はシチューならシチューで、スープに溶けるぐらいの細かいのが好きだ。肉じゃがはその点も具合が悪いから好かない。カレーのじゃがいもも、溶けてなくなってくれればだが、あれはまぁ例外にしていいぐらいには美味しいからかまわない。ハンバーグなら何の文句もない……。

 そんなことを考えながら、ふと、顔をあげた。先のほうに見える商店街から、なにか黒々とした一団がこっちの通りに曲がって来たのが見える。なんだろうと思ってよく見たら、その黒いのは第二小学校の制服だとすぐにわかった。
 わっと思って、しばらくわたわた慌てた後、すぐそばの車の影に身を隠す。
 第二小学校の人たちは、とにかくたちが悪いから、私たち湖中小学校の子どもの多くは関わらないようにしている。しかも私の場合、彼らのうちの一番ぐらいにたちが悪い人たちと、ちょっとした因縁があって、余計に見つかりたくない。

 向こうが通り過ぎてから、やれやれとばかりに再び歩き出すと、いきなり後ろから頭をがつんと殴られた。
 まさかと思って振り返ると、ケンちゃんが立っている。走って来たのか、少し息が切れていた。何が不満なのか、彼は鬱陶しそうな目つきをしている。
 私は自分がなにかしたかと、胸のうちを探ったが、特に何も覚えがない。仕方がないので「どうしたの」と訊いたら、ケンちゃんはこう言った。

「そら見ろ。帰りの会が終わったら、すぐに一人で帰るじゃねえか」

 まるで犯罪の証拠を突き付けるみたいに、私を威圧してくる。彼は相手を威圧しないと会話が始められないような人だ。もう随分慣れたが、知り合ったときはいつもびくびくさせられた。どうやら、ケンちゃんはどうしても、私と佳奈ちゃんの間に問題があったのだと認めさせたいらしかった。
 私からは、何も言うことはない。アハハとともかく笑っておく。逃げようと思って歩き出すと、向こうもついてくるので、一緒に並んで帰るみたいになってしまった。しかしともかく早く帰らないといけない。第二小学校の人たちから身を隠していたこともあって、少しずつ他のみんなの下校が始まっている。立ち止まってはいられない。

「お前さ、弱っちいんだからさぁ」ケンちゃんがつまらなそうに唇を尖らせて言う。「いい加減相田と一緒に帰らねえと、酷い目に遭うぞ。さっき第二小のやつらがいただろ」

 まるで彼から説教されている気分だ。毎日暴力を振るってくる人から説教されるいわれはない。ちょっと言い返してやろうと思って、

「隠れればいいから」
 と短く言ってやった。すると、

「そりゃあ隠れたっていいけど、鉢合わせたらどうすんだよ」

 などと言ってくる。言っていることは、まぁ正しい。さっきだって、私がもう少し早く商店街についていたら、鉢合わせていた。
 黙り込む私を見て、ケンちゃんは追撃してくる。

「相田がいれば、なんかあっても全員ボコボコにしてくれるよ。六年生にだって負けねえって。だから、多少気に食わなくても、用心棒がわりにおいときゃいいんだよ。あいつに何をされたか知らねえけど……」

 その言葉に、私はかちんと来てしまった。

「佳奈ちゃんは何もしてない」

 と、少し不機嫌に言う。悪いのは佳奈ちゃんじゃない。全部私が悪いんだ。
 ケンちゃんは、人から言い返されるのが好きじゃない。彼は不愉快そうにふんと鼻を鳴らした。

「お前はあいつらに見つかって痛い目に遭わねえとわからねえのかもな」

 と捨て台詞を吐き、私の頭を強めにぼかんと殴ってから、どこかに走り去ってしまった。
 彼は佳奈ちゃんと同じで、大概のことは一日寝れば忘れるたちだからその点は心配ないが、恨めしいという感情だけは覚えているからちょっと困った。私はふぅとため息をついて、殴られた頭をさする。

「実里ちゃん。今のって」

 私が歩き出そうとすると、そんなか細い声が聞こえた。佳奈ちゃんでは、絶対ない。誰だと思って見てみると、見知った女の子がそこにいた。隣のクラスの二組にいる子で、先崎真奈という子だ。二組にはこの頃毎日行って、毎日顔を見ているが、話すこと自体はとても久しぶりだった。

「真奈ちゃん。そういえば帰り道こっちだったね」

 と話しかける。真奈ちゃんはもごもごと何か呟いて、もじもじする。ともかく一緒に歩き出したが、ずっともじもじしていた。
 百メートルぐらい歩いてから、真奈ちゃんはようやく口をひらいた。

「実里ちゃんって、小田原くんと仲良いの?」

 と言う。小田原くんとは、ケンちゃんのことだ。普段下の名前で呼んでいるから、つい忘れそうになる。

「仲が良いって、そりゃあそこそこ話したりはするけど」

と答える。ケンちゃんにとって私はただのサンドバッグだから仲が良いとは違うなぁと考えた。
 真奈ちゃんは何故か動揺した風に「へ、へぇ」と言う。妙な雰囲気だった。
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