第10話
文字数 2,674文字
ケンちゃんはびっくりした顔になった。良子ちゃんが、引き下がらなかったからだ。
「さあはやく」
と良子ちゃんが彼を急かした。壁時計をちらりと見て「はやくはやく」と何度も繰り返した。
わけのわからなくなったケンちゃんは、まるで催眠術にでもかかったみたいに、ふらふらと良子ちゃんのあとをついていく。
「誰か盗み聞きして来いよ」
と男子たちがお互いに顔を見合わせはじめた。私もついていこうかと思ったが「盗み聞き」というワードに、ちょっと気が引けてしまう。そういえば、今自分がやっていることは盗み聞きだ。それに、もう自分は恋愛とは関わらないと決めたんだから、これ以上深入りするのも良くない。
男子のうちの数人が、二人を追って教室を出て行った。私は澄まして文庫本を読み進める。けれど、内心はどきどきしていた。
やがて、男子を押さえつけながら、ケンちゃんが戻って来た。私はサッと文庫本に顔を隠す。良子ちゃんはもういない。もう話はついたようだった。
「なんの話だったんだよ」
と訊かれたケンちゃんはふんと鼻を鳴らした。そして、どこか誇らしげにこう言った。
「なにかと思ったら、あいつら、第二小のやつらにビビってやがる。やっぱり女は女だ。気が小さい」
「えっ、それじゃあなんだよ。頼みってのはボディーガードのこと?」
「用心棒と言え、ハハハ」とケンちゃん。
彼は自分の力を頼られるのが嬉しいらしかった。単純なものだ。彼の性分についてはわかっているつもりだったが、こう利用すればいいとは知らなかった。
「第二小のやつら、うろうろしてるらしいもんな」
と、不安そうに言う男子にケンちゃんは、
「なんだ、お前もビビってるのか。それじゃあ女子とおんなじだ。男じゃない。気に入らなけりゃ殴ればいいんだ。簡単な話だ」
と言う。一応これでも、ケンちゃんは男子のうちからは一定の人気がある。ただし、女子からの人気はまったくない。
それにしても、良子ちゃんはやっぱり策士だと感心した。ケンちゃんをよく見ているし、誘い方がわかっている。彼を相手にするなら恋愛だとか湿っぽい話は駄目だ。用心棒を頼むといえば喜んでついてくる。
良子ちゃんが私にした依頼の意味を、ようやく呑み込めた気がした。全部、一緒に帰るためだったのだ。すごい作戦だ。
私は帰りの会のあいだじゅう、ずっと感心していた。そんな風に悠長でいられたのは、その日は急いで帰る必要がなかったからだった。帰りの会が終わってすぐ佳奈ちゃんが真っ先に教室を飛び出していくのを、私は知っていた。アニメの再放送があるからだ。
佳奈ちゃんが先に帰るなら、別に急ぐ必要もない。私はみんなに混じって、のんびりと帰る。ケンちゃんはいつも通り、さっさと出て行ってしまった。これから良子ちゃんと一緒に帰るんだろう、手のひらの上で転がされてるな、と内心面白く思った。
ところが昇降口まで出て、ふと外に目をやった私は、ぎょっとした。昇降口の前にある桜の木のところに、ケンちゃんが立っている。しかも、その横にいるのは良子ちゃんではなく、真奈ちゃんだった。私はびっくりして、ぴたりと足が止まってしまった。
真奈ちゃんは、ケンちゃんと二人きりになって恥ずかしそうに俯いている。隣のケンちゃんのほうは、さすが用心棒という具合で、腕をがっしり組んで周囲を威圧していた。
良子ちゃんの姿がない。
私はおかしいなと、混乱した。良子ちゃんの作戦と少しシナリオが違うように思った。二人きりで帰るのが目的なんだから、真奈ちゃんは邪魔なはずだ。なのにどうして……。
そこまで考えて、はっと思いついた。
そういえば、二人は何かを待っているようにも見える。多分、良子ちゃんを待っているんだろう。
良子ちゃんは、友達を出し抜くのが嫌になったに違いない。それで、仲良く三人で帰ることにしたんだ。
そりゃあそうだと私は納得した。恋愛なんか、友達に比べたら大したことじゃない。良子ちゃんが寸前でそれに気が付いてくれてよかった。
私は安心して、靴箱の下履きに手をかける。取り出しつつ、ちらと二人のほうを見て、私はまた驚いた。真奈ちゃんがケンちゃんの服の裾をつまんで、引っ張っている。見る限り、早く行こうと急かしているようだ。それだけでも驚くのに、もっと驚いたことに、ケンちゃんが歩き出してしまった。「エエッ」と思わず声が出る。
私はわけがわからなくなって、そばを通った二組の子をつかまえて、良子ちゃんはどこかと訊いた。まだ教室にいるという。日直だそうだ。
私は階段を駆け上った。
真奈ちゃんが良子ちゃんを裏切ったのだと思った。これでは話が違う。こんな話があっていいはずがない。友達を裏切るなんて……。私は泣きそうになった。良子ちゃんのことを思うと、胸が痛んだ。真奈ちゃんに対しては、がっかりを通り越して怒りすら湧いてくる。
「良子ちゃん!」
と二組に駆け込む。
彼女は机で何かを書いていた。慌てている私を見て、不思議そうな顔をする。
「大変だよ、真奈ちゃんが先に帰ったよ」
私は急いでそれを伝えた。良子ちゃんは一瞬きょとんとして、それからおもしろそうに笑い始めた。「わざわざ教えに来てくれたの」と楽しそうに笑っている。
私はますます混乱した。何がおかしいのかまったく理解できない。
「いいの? 行っちゃったんだよ?」
「いいんだよ。小田原くんと真奈が一緒に帰ったんでしょ。それなら別に」
「エッ……いや、でも……」
やっぱりわけがわからない。
良子ちゃんはぱたんと学級日誌を閉じた。そして教壇に置きに行く。
私はウンウンと頭を悩ませた。これが作戦なら、まさか通学路の途中に罠でも仕掛けてあるんだろうか。それとも、同盟関係を破った罪を着せて、今後の交渉を有利に運ばせるつもりだろうか。いや、それとも……。
良子ちゃんが戻ってきて、こう言った。
「だいたいさ、私の家って逆方向だよ。小田原くんとは帰る方向が違う」
良子ちゃんは人差し指で、方角を示した。
あれ、と思った。そういえば前に真奈ちゃんと下校途中に会ったとき、横に良子ちゃんはいなかった。
道が違うなら、一緒には帰れない。だがそうすると、用心棒を依頼するのは良くない手だ。いくらケンちゃんが単純でも、帰り道と反対に行くほど親切じゃない。ならば、良子ちゃんはもともと一緒には帰るつもりがなかったことになる。それとも、ケンちゃんの親切さに賭けて、それが裏目に出てしまったのだろうか。色々考えるが、なにかおかしい。
「ねぇ、中庭、寄って行かない?」
と、良子ちゃんが言った。
「さあはやく」
と良子ちゃんが彼を急かした。壁時計をちらりと見て「はやくはやく」と何度も繰り返した。
わけのわからなくなったケンちゃんは、まるで催眠術にでもかかったみたいに、ふらふらと良子ちゃんのあとをついていく。
「誰か盗み聞きして来いよ」
と男子たちがお互いに顔を見合わせはじめた。私もついていこうかと思ったが「盗み聞き」というワードに、ちょっと気が引けてしまう。そういえば、今自分がやっていることは盗み聞きだ。それに、もう自分は恋愛とは関わらないと決めたんだから、これ以上深入りするのも良くない。
男子のうちの数人が、二人を追って教室を出て行った。私は澄まして文庫本を読み進める。けれど、内心はどきどきしていた。
やがて、男子を押さえつけながら、ケンちゃんが戻って来た。私はサッと文庫本に顔を隠す。良子ちゃんはもういない。もう話はついたようだった。
「なんの話だったんだよ」
と訊かれたケンちゃんはふんと鼻を鳴らした。そして、どこか誇らしげにこう言った。
「なにかと思ったら、あいつら、第二小のやつらにビビってやがる。やっぱり女は女だ。気が小さい」
「えっ、それじゃあなんだよ。頼みってのはボディーガードのこと?」
「用心棒と言え、ハハハ」とケンちゃん。
彼は自分の力を頼られるのが嬉しいらしかった。単純なものだ。彼の性分についてはわかっているつもりだったが、こう利用すればいいとは知らなかった。
「第二小のやつら、うろうろしてるらしいもんな」
と、不安そうに言う男子にケンちゃんは、
「なんだ、お前もビビってるのか。それじゃあ女子とおんなじだ。男じゃない。気に入らなけりゃ殴ればいいんだ。簡単な話だ」
と言う。一応これでも、ケンちゃんは男子のうちからは一定の人気がある。ただし、女子からの人気はまったくない。
それにしても、良子ちゃんはやっぱり策士だと感心した。ケンちゃんをよく見ているし、誘い方がわかっている。彼を相手にするなら恋愛だとか湿っぽい話は駄目だ。用心棒を頼むといえば喜んでついてくる。
良子ちゃんが私にした依頼の意味を、ようやく呑み込めた気がした。全部、一緒に帰るためだったのだ。すごい作戦だ。
私は帰りの会のあいだじゅう、ずっと感心していた。そんな風に悠長でいられたのは、その日は急いで帰る必要がなかったからだった。帰りの会が終わってすぐ佳奈ちゃんが真っ先に教室を飛び出していくのを、私は知っていた。アニメの再放送があるからだ。
佳奈ちゃんが先に帰るなら、別に急ぐ必要もない。私はみんなに混じって、のんびりと帰る。ケンちゃんはいつも通り、さっさと出て行ってしまった。これから良子ちゃんと一緒に帰るんだろう、手のひらの上で転がされてるな、と内心面白く思った。
ところが昇降口まで出て、ふと外に目をやった私は、ぎょっとした。昇降口の前にある桜の木のところに、ケンちゃんが立っている。しかも、その横にいるのは良子ちゃんではなく、真奈ちゃんだった。私はびっくりして、ぴたりと足が止まってしまった。
真奈ちゃんは、ケンちゃんと二人きりになって恥ずかしそうに俯いている。隣のケンちゃんのほうは、さすが用心棒という具合で、腕をがっしり組んで周囲を威圧していた。
良子ちゃんの姿がない。
私はおかしいなと、混乱した。良子ちゃんの作戦と少しシナリオが違うように思った。二人きりで帰るのが目的なんだから、真奈ちゃんは邪魔なはずだ。なのにどうして……。
そこまで考えて、はっと思いついた。
そういえば、二人は何かを待っているようにも見える。多分、良子ちゃんを待っているんだろう。
良子ちゃんは、友達を出し抜くのが嫌になったに違いない。それで、仲良く三人で帰ることにしたんだ。
そりゃあそうだと私は納得した。恋愛なんか、友達に比べたら大したことじゃない。良子ちゃんが寸前でそれに気が付いてくれてよかった。
私は安心して、靴箱の下履きに手をかける。取り出しつつ、ちらと二人のほうを見て、私はまた驚いた。真奈ちゃんがケンちゃんの服の裾をつまんで、引っ張っている。見る限り、早く行こうと急かしているようだ。それだけでも驚くのに、もっと驚いたことに、ケンちゃんが歩き出してしまった。「エエッ」と思わず声が出る。
私はわけがわからなくなって、そばを通った二組の子をつかまえて、良子ちゃんはどこかと訊いた。まだ教室にいるという。日直だそうだ。
私は階段を駆け上った。
真奈ちゃんが良子ちゃんを裏切ったのだと思った。これでは話が違う。こんな話があっていいはずがない。友達を裏切るなんて……。私は泣きそうになった。良子ちゃんのことを思うと、胸が痛んだ。真奈ちゃんに対しては、がっかりを通り越して怒りすら湧いてくる。
「良子ちゃん!」
と二組に駆け込む。
彼女は机で何かを書いていた。慌てている私を見て、不思議そうな顔をする。
「大変だよ、真奈ちゃんが先に帰ったよ」
私は急いでそれを伝えた。良子ちゃんは一瞬きょとんとして、それからおもしろそうに笑い始めた。「わざわざ教えに来てくれたの」と楽しそうに笑っている。
私はますます混乱した。何がおかしいのかまったく理解できない。
「いいの? 行っちゃったんだよ?」
「いいんだよ。小田原くんと真奈が一緒に帰ったんでしょ。それなら別に」
「エッ……いや、でも……」
やっぱりわけがわからない。
良子ちゃんはぱたんと学級日誌を閉じた。そして教壇に置きに行く。
私はウンウンと頭を悩ませた。これが作戦なら、まさか通学路の途中に罠でも仕掛けてあるんだろうか。それとも、同盟関係を破った罪を着せて、今後の交渉を有利に運ばせるつもりだろうか。いや、それとも……。
良子ちゃんが戻ってきて、こう言った。
「だいたいさ、私の家って逆方向だよ。小田原くんとは帰る方向が違う」
良子ちゃんは人差し指で、方角を示した。
あれ、と思った。そういえば前に真奈ちゃんと下校途中に会ったとき、横に良子ちゃんはいなかった。
道が違うなら、一緒には帰れない。だがそうすると、用心棒を依頼するのは良くない手だ。いくらケンちゃんが単純でも、帰り道と反対に行くほど親切じゃない。ならば、良子ちゃんはもともと一緒には帰るつもりがなかったことになる。それとも、ケンちゃんの親切さに賭けて、それが裏目に出てしまったのだろうか。色々考えるが、なにかおかしい。
「ねぇ、中庭、寄って行かない?」
と、良子ちゃんが言った。