第6話
文字数 2,596文字
それから二日ほどは、なんということもなかった。私は相変わらず風呂場で考えた一日を繰り返していた。
朝起きてランドセルを背負って班登校をして、適当に過ごして、二組に逃げ込んで、帰りの会が終わるのと一緒に飛び出して、家に帰って宿題をやってご飯を食べて、風呂に入って本を読んで寝る。この繰り返し。
結局図書館にも行っていない。かんぴが話していた新しい返本バイトの人の、名前どころか性別まで忘れてしまった。もちろん、良子ちゃんと真奈ちゃんの恋心も意識にのぼらなかった。すべてが色褪せて見える。中身が空っぽの毎日の繰り返し。円の縁を、ただなぞって走るだけ。
妹はあの日以来、大人しくなった。お母さんも説教じみたことは何も言わない。お父さんは今日も仕事へ行く。ケンちゃんはやっぱり私の頭を叩く。かんぴはまだ貸した本を返さない。授業もほとんど上の空で、白昼夢ばかり見るようになった。もしかすると、私はあの日の風呂場で意識を失って、夢の中をさまよっているんじゃないだろうか、と思うほど、現実感もなく、足元もどこかふわふわしていた。
白昼夢の題材は、色々だ。たとえば、授業中の教室に第二小学校の不良たちが押しかけてくる夢を見る。机を蹴飛ばしたり、乱暴をするところを、佳奈ちゃんが飛び掛かって、ぎたぎたに叩きのめしてしまう筋書きが多い。
それから、佳奈ちゃんと二人きりで旅行に行ったりお祭りに行ったりする夢も見る。あるいは、これまでの思い出を追体験するような夢も見たりする。「また来ようね」という彼女の言葉を、なんの疑問もなく信じられていたあの頃は、本当に夢のようだったと思う。
足元がふわふわする、と私は先ほど言った。実は良子ちゃんと真奈ちゃんの恋愛について知ったあの日から、私は頭痛を感じていた。風邪でも引いたのかと思ったが、体温ははからず、ただ体育を休む口実にした。発熱しているかどうか知ってしまったら、嘘をつくことになってしまうと、子供心に考えを巡らせたんだろう。
そうこうしているうちに、休日が来た。二日も休めると安心していたが、思いのほか、あっという間に月曜日が訪れた。
しかしあっという間というのは思い返しての感想で、実際過ごしているうちは、よほど時間の流れは遅かったと思う。一時間は経っただろうと顔を上げて、まだ十分も経っていないという塩梅で、退屈過ぎて死にそうだった。
それが月曜日の朝になって振り返ってみると「あっという間だった」と感じるんだから、やっぱり時間というのはどうかしている。この世の箍【たが】は、とうに外れているらしい。
通学路の途中で、例の十字路にさしかかった。私は副班長で、班の最後尾を歩いているから、こっそり曲がってもバレないかもしれなかった。私は無性に、十字路を曲がってみたくなった。
しかし小心者の私は、結局そうしなかった。班長に迷惑がかかると考え、次いで、班長に相談しようと考え直し、それから、十字路を曲がりたい理由が相手にうまく説明できないことに悩んでいるうちに、十字路をまっすぐ進んでしまった。こんな人間だから、こんな毎日なんだと、自分に失望した。
頭が、ずーんずーんと響くように痛んだ。それが昼休み前になって、だんだんひどくなってきた。ご飯を食べるのさえ苦しかった。
到底人と話せる状態じゃないと、その日は二組へ行くのをあきらめた。かといって、一組にいるわけにもいかない。保健室に行くのもなんだか大げさな気がして、私は一人、中庭に出ることにした。昼休みになると、大抵の人はグラウンドに出てしまうから、中庭はしんとしている。一人で過ごしていれば、頭痛も良くなるだろう。ともかく、人と会わなければなんでもいい。
適当なベンチに腰掛けて、目の前に植わった花を見た。初めは色を見てきれいだと思っていたが、だんだんつまらなくなってきた。意識は次第に薄くなって、空想の中へと没入する。
昔授業で、中庭に連れ出されたことがあった。「虫を見つけてみよう」という授業だったと思う。
私と佳奈ちゃんは水場の近くにある土をスコップで掘っていた。するとミミズがうじゃうじゃと姿を見せた。佳奈ちゃんは一匹をつまんで「ぐっちょん、見つけたよ」と叫んだ。ぐっちょんとは、その当時の担任のあだ名だ。四年生の終わりに転勤になって、もうここにはいない。四年間一緒にいたが、先生というよりみんなのお姉さんのような、優しい人だった。
「わぁ、すごいね」と先生は言った。
自分から「虫を探してみよう」と言ったわりに、実際ミミズを前にすると先生はどこか気持ち悪そうだった。それもそうだろう。私たちの足元にはミミズがたくさん積み上げられて、蠢いている。先生はさっさと会話を切り上げて、近くにいる子たちを集めてミミズの説明をした。
なんでも、ミミズというのは土を良くしてくれるんだそうだ。だから、良い土ならだいたい彼らが埋まっている。良い土では作物がよく育つ。ありがたいありがたい……ということらしい。土を掘り返してみてようやく彼らの仕事が知れるんだから、たしかにありがたい話だ。
私が感心していたら佳奈ちゃんが「びゃー」と言って、そのありがたいミミズを先生に投げつけた。先生は「ひゃー」と言って逃げていく。それを見ていたみんなは大笑いした。怯える先生が面白くて、ミミズだけじゃなくダンゴムシやらバッタやらを掴んで追い回す人たちまで現れた。先生は災難だっただろうが、私はお腹が痛くなるほど笑ったものだ。
そこまで考えて、意識は現実へ戻った。じゃり、と砂を踏むような音がしたせいだ。
誰か来たんだなと振り向くと、驚いたことに良子ちゃんがいる。一人きりだ。こっちに向かってくる。私はちょっと厄介なことになったなと思った。相変わらず頭は痛いし、今はできれば一人にしておいてほしかった。
「今日はどうしたの、一人で」
と良子ちゃんが訊く。そして私の横へ座った。この様子だと、長居するつもりかもしれない。私は「頭が痛くって」と正直に言った。本当に体調不良だから、向こうで察してどこかへ行ってくれるかもしれないと期待した。
しかしそうはならなかった。
良子ちゃんは「ふうん」と体調不良の件を軽く流した。それから周りをきょろきょろ見て、こう言う。
「実は、実里ちゃんに頼みたいことがあるの」
頭がずきんずきんと、余計に痛み始めた。
朝起きてランドセルを背負って班登校をして、適当に過ごして、二組に逃げ込んで、帰りの会が終わるのと一緒に飛び出して、家に帰って宿題をやってご飯を食べて、風呂に入って本を読んで寝る。この繰り返し。
結局図書館にも行っていない。かんぴが話していた新しい返本バイトの人の、名前どころか性別まで忘れてしまった。もちろん、良子ちゃんと真奈ちゃんの恋心も意識にのぼらなかった。すべてが色褪せて見える。中身が空っぽの毎日の繰り返し。円の縁を、ただなぞって走るだけ。
妹はあの日以来、大人しくなった。お母さんも説教じみたことは何も言わない。お父さんは今日も仕事へ行く。ケンちゃんはやっぱり私の頭を叩く。かんぴはまだ貸した本を返さない。授業もほとんど上の空で、白昼夢ばかり見るようになった。もしかすると、私はあの日の風呂場で意識を失って、夢の中をさまよっているんじゃないだろうか、と思うほど、現実感もなく、足元もどこかふわふわしていた。
白昼夢の題材は、色々だ。たとえば、授業中の教室に第二小学校の不良たちが押しかけてくる夢を見る。机を蹴飛ばしたり、乱暴をするところを、佳奈ちゃんが飛び掛かって、ぎたぎたに叩きのめしてしまう筋書きが多い。
それから、佳奈ちゃんと二人きりで旅行に行ったりお祭りに行ったりする夢も見る。あるいは、これまでの思い出を追体験するような夢も見たりする。「また来ようね」という彼女の言葉を、なんの疑問もなく信じられていたあの頃は、本当に夢のようだったと思う。
足元がふわふわする、と私は先ほど言った。実は良子ちゃんと真奈ちゃんの恋愛について知ったあの日から、私は頭痛を感じていた。風邪でも引いたのかと思ったが、体温ははからず、ただ体育を休む口実にした。発熱しているかどうか知ってしまったら、嘘をつくことになってしまうと、子供心に考えを巡らせたんだろう。
そうこうしているうちに、休日が来た。二日も休めると安心していたが、思いのほか、あっという間に月曜日が訪れた。
しかしあっという間というのは思い返しての感想で、実際過ごしているうちは、よほど時間の流れは遅かったと思う。一時間は経っただろうと顔を上げて、まだ十分も経っていないという塩梅で、退屈過ぎて死にそうだった。
それが月曜日の朝になって振り返ってみると「あっという間だった」と感じるんだから、やっぱり時間というのはどうかしている。この世の箍【たが】は、とうに外れているらしい。
通学路の途中で、例の十字路にさしかかった。私は副班長で、班の最後尾を歩いているから、こっそり曲がってもバレないかもしれなかった。私は無性に、十字路を曲がってみたくなった。
しかし小心者の私は、結局そうしなかった。班長に迷惑がかかると考え、次いで、班長に相談しようと考え直し、それから、十字路を曲がりたい理由が相手にうまく説明できないことに悩んでいるうちに、十字路をまっすぐ進んでしまった。こんな人間だから、こんな毎日なんだと、自分に失望した。
頭が、ずーんずーんと響くように痛んだ。それが昼休み前になって、だんだんひどくなってきた。ご飯を食べるのさえ苦しかった。
到底人と話せる状態じゃないと、その日は二組へ行くのをあきらめた。かといって、一組にいるわけにもいかない。保健室に行くのもなんだか大げさな気がして、私は一人、中庭に出ることにした。昼休みになると、大抵の人はグラウンドに出てしまうから、中庭はしんとしている。一人で過ごしていれば、頭痛も良くなるだろう。ともかく、人と会わなければなんでもいい。
適当なベンチに腰掛けて、目の前に植わった花を見た。初めは色を見てきれいだと思っていたが、だんだんつまらなくなってきた。意識は次第に薄くなって、空想の中へと没入する。
昔授業で、中庭に連れ出されたことがあった。「虫を見つけてみよう」という授業だったと思う。
私と佳奈ちゃんは水場の近くにある土をスコップで掘っていた。するとミミズがうじゃうじゃと姿を見せた。佳奈ちゃんは一匹をつまんで「ぐっちょん、見つけたよ」と叫んだ。ぐっちょんとは、その当時の担任のあだ名だ。四年生の終わりに転勤になって、もうここにはいない。四年間一緒にいたが、先生というよりみんなのお姉さんのような、優しい人だった。
「わぁ、すごいね」と先生は言った。
自分から「虫を探してみよう」と言ったわりに、実際ミミズを前にすると先生はどこか気持ち悪そうだった。それもそうだろう。私たちの足元にはミミズがたくさん積み上げられて、蠢いている。先生はさっさと会話を切り上げて、近くにいる子たちを集めてミミズの説明をした。
なんでも、ミミズというのは土を良くしてくれるんだそうだ。だから、良い土ならだいたい彼らが埋まっている。良い土では作物がよく育つ。ありがたいありがたい……ということらしい。土を掘り返してみてようやく彼らの仕事が知れるんだから、たしかにありがたい話だ。
私が感心していたら佳奈ちゃんが「びゃー」と言って、そのありがたいミミズを先生に投げつけた。先生は「ひゃー」と言って逃げていく。それを見ていたみんなは大笑いした。怯える先生が面白くて、ミミズだけじゃなくダンゴムシやらバッタやらを掴んで追い回す人たちまで現れた。先生は災難だっただろうが、私はお腹が痛くなるほど笑ったものだ。
そこまで考えて、意識は現実へ戻った。じゃり、と砂を踏むような音がしたせいだ。
誰か来たんだなと振り向くと、驚いたことに良子ちゃんがいる。一人きりだ。こっちに向かってくる。私はちょっと厄介なことになったなと思った。相変わらず頭は痛いし、今はできれば一人にしておいてほしかった。
「今日はどうしたの、一人で」
と良子ちゃんが訊く。そして私の横へ座った。この様子だと、長居するつもりかもしれない。私は「頭が痛くって」と正直に言った。本当に体調不良だから、向こうで察してどこかへ行ってくれるかもしれないと期待した。
しかしそうはならなかった。
良子ちゃんは「ふうん」と体調不良の件を軽く流した。それから周りをきょろきょろ見て、こう言う。
「実は、実里ちゃんに頼みたいことがあるの」
頭がずきんずきんと、余計に痛み始めた。