第1話

文字数 2,942文字

 部屋で宿題を片づけていたら邪魔が入った。階段を駆け上がりながら、私のことを大声で呼んでいる――妹だ。

 私はすぐに立ち上がった。声が近づくより先に、ドアの鍵を閉める。すぐにがちゃがちゃとドアノブがひねられ、向こうからほとんど叫ぶように「姉ちゃんあけて。あけて」と声が聞こえてきた。それを無視して、私は机に戻り、鉛筆を手に取る。
 妹の声はやがて止み、静かになった。最後に聞こえた甘えるような響きを思うと、自然と鉛筆を握る手に力がこもってしまう。人がいらいらしてるときに限って、ああやって邪魔をしてくるんだ。

 しばらくしたら、お母さんの声がした。階段の下からわたしを呼んでいるんだろう。はあい、とお母さんに伝わるぐらいの大声を出した。大方、夕飯だろう。案の定、リビングに行くと、食卓に料理が並んでいた。
 席につくと、妹がちらちらと私を見てくる。ただし、見るばかりで何も言ってこない。私はやっぱり、それを無視した。別に反応してやる義理もない。ただ黙々と、ご飯を口に放り込む。

 その日はシチューだった。やれやれだ。私はあんまりシチューが好きではない。カレーのほうが良かった。色が違うだけで随分な差だと思う。すくって口に入れてみたら、変に甘いから嫌だ。
「明日の晩御飯ってなに」
 とわたしが訊いたら、お母さんが嫌な顔をした。わたしのほうも負けずに不満な顔を返す。ため息をつかれたから、こっちもし返してやった。
「明日は肉じゃが」
 お母さんはそう言って澄ました。なにか文句があるかという態度だった。

 私はその献立を聞いて、大いに失望した。なんだつまらない、肉じゃがだなんて……けれどなんともいわず、ただ黙ってご飯を腹に入れる。ないよりましだ。

 夕食を食べたら、次は風呂に入った。肩まで浸かる。はーっと息をついて、じゃぶじゃぶ顔を洗った。
 考えてみれば退屈なものだ。風呂を上がったらまた宿題をやり、本を読むんだろう。そうしたら寝る時間になって、寝たら朝日がのぼるんだろう。朝日がのぼったら、学校だ。机のわきにさがっているランドセルを背負って玄関を出て、集団登校とやらをこなす。副班長という役割を背負わされたものだから、最後尾で下級生を見張らないといけない。学校に着いたら夕方までそこで過ごし、帰ってきたら宿題をし、明日は肉じゃがを食べる。そしてまた、風呂に入る……。
 私は鼻までお湯につけて、ぶくぶくと泡をたてた。その泡がはじけるのを見ながら、さらにこう考える――世の中のことというのは、もうたいてい決まっているんじゃないのか。何をしたって、もう数億年前から決まってたんじゃないのか。ああ、つまらない。

 と、そこへ、
「お姉ちゃん、一緒に入ってもいい?」
 と声がした。また妹だ。擦りガラスの向こうでうねうねと影が動いている。「もう上がるから」と立ち上がり、浴室のドアをあけた。バスタオルでさっさと体を拭く。
 わたしがバスタオルを洗濯機に放り込むころ、妹は服を脱ぎ終えていた。全裸のまま、満面の笑みでこっちを見ている。恥じらいがないんだろう。

 私はやっぱりそんな妹を無視して脱衣所を出ようとした。けれど出ようとしたとき、洗濯機のなかに入れられた妹の服が目に留まった。「また!」と私は怒った。下着とシャツが重なり、靴下が裏返っていた。さらにスカートのポケットをまさぐると、紙くずが出てくる。私はかーっと頭に血がのぼった。

「これ、前にやめてって言われたでしょ。お母さんに。何度も。覚えてないの?」

 私はそう言いながら、妹の洗濯物を分けていく。
 妹は最初おどおどしていたが、私の手からこぼれ落ちた自分のパンツを見て、それを意気揚々と拾い上げた。それから「よし!」と言って、それを洗濯機に放り込み、ふーっと息をつく。まるで一仕事終えたようなふぜいだ。

 私はさらに腹が立って、残りの服を投げつけるように洗濯機に放り込み、脱衣所を出た。ああくそ、もう、と階段に足をかけたら、脱衣所のほうでまた私を呼ぶ声が聞こえてくる。「お姉ちゃーん、バスタオルがないよー」

 私はリビングに行って、取り入れたばかりでまだたたまれていないバスタオルを掴んで戻って来た。そして、風呂場で立ち尽くしていた妹に、思い切りそれを投げつける。

「いい加減にしてよ!」

 私は脱衣所のドアを、バンと閉めて、階段を駆け上がった。
 別にバスタオルをとってやったのは妹のためなんかじゃない。妹のために何かしてやらないと、何故か私が怒られるからだ。洗濯物をより分けてやったのだって同じこと。妹の行動に私が絡むと、一切合切が私の責任になる。姉として生まれた天罰かもしれないと思うほど、お母さんやお父さんは妹に対する姉の義務を強調するけれど、姉の権利については未だに聞いたことがない。こんな不平等があるもんか。くそう、やめたい、やめたい、お姉さんなんて今すぐにでもやめてやりたい……。

 自分の部屋に入って、ふっと息をつく。
 もう考えるのはやめよう。考えたって、嫌なものがますます嫌になるばかりだ。がちゃりと部屋の鍵を閉めて、それと一緒にこの問題も忘れることにした。

 椅子に座って、宿題にとりかかる。漢字を書き写すのはさっき済んだが、算数ドリルがまだ残っていた。何も考えず、さっさとやってしまおう。
 しゃっしゃっ、と静かな部屋に鉛筆の滑る音だけが響いている。五に六を掛け合わせると三十になるそうだ、めでたい話だ。それから次は四に六を掛けるらしい。ありがたいことこの上ない……まったく、私は何をやらされてるんだろう。だから何だというのか。

 解き進めるうちに、今度は多少骨のある問題にぶつかった。ある体積をもった容器に、ごつごつとした石を放り込む問題だ。石を放り込むと、水かさが二センチ上がったという。さて、この石の体積はいくつでしょう?

 私はすぐに、相田佳奈という子のことを考えた。

 この問題は、多分彼女には解けない。「全然わかんなかったよ」と言って、私のところに助けを求めてくるに決まってる。それで私はこう返事をするだろう。「水かさが増えたのは、石を入れたからだよね。だから、その増えた分が、石の体積になるんだよ」
 すると彼女はこう言う。「難しすぎ」
 それに私はこう返事する。「タテ掛けるヨコが計算できないような複雑なものでも、これからは何でも体積が求められるって考えたら、ちょっと面白くない?」
 佳奈ちゃんは、決して馬鹿じゃない。私がそう言ったら、目をきらきら輝かせるだろう。その次は「じゃあ地球はどうやって測るの」とか、とんでもないことを言って、わたしを笑わせてくれる。「地球は難しそうだね」なんて私は言って、そうしたら佳奈ちゃんが……と、そんなことを考えているうちに、口元が緩んできてしまった。

 そんな私を現実に引き戻したのは、またあの妹だった。「姉ちゃん!」と言って、ガンとドアを叩く。「姉ちゃん姉ちゃん!」と言って、猛烈にドアを叩いてくる。
「姉ちゃん、お菓子だよ、お菓子だよ」
 私はうんざりして、無視しようかとも思った。でも、できそうにない。これだけ大きな音を立てていたら、きっとすぐにお母さんが飛んで来て、

「開けてあげなさい」

 と言うに決まっているからだ。
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