第12話

文字数 1,740文字

 富良野を出発して、旭川、稚内、網走、そして知床、知床ではあまりの居心地の良さで一週間も連泊した。二人とも貧乏だったので、国民宿舎やユースホステルなどの公共の安宿ばかり。もちろん寝泊りは男女別の相部屋。だからそんな野暮な関係などさらさらない。 
 二人はただ純粋に旅を楽しんでいた。時を忘れるほど楽しかった。しかしそんな二人に特別な感情が生まれないわけはない。北海道の大自然は二人の間に愛を育むのには十分すぎる。そして時間と共に二人はどんどん惹かれ合って行った。それが自然と言うものだろう。
 この旅で彼が撮影した三十六枚撮りフィルムは軽く三十本を越えた。しかし、彼の写真ライブラリーは、いつしか風景中心から彼女中心へと変わって行った。美しい景色の中に、それに負けないぐらい美しい恵子の姿があった。      

 十月下旬。とうとう空から白いものが舞い降り出した。ウトロから羅臼に向かう知床横断道路はそろそろ閉鎖されるかもしれない。これ以上居るとバイクでは峠を越えられなくなる。その日、あまりに長く居すぎた知床から二人はようやく南へと向かう決意をした。
 二人を乗せたホンダCB750Fは早朝に岩尾別の宿を出発した。まだ十月下旬なのに気温はすでに零度近くまで下がっている。背後の知床連山はすでに雪化粧を終えていた。
 抜けるような空の青、山の白、そして麓(ふもと)は紅葉のオレンジ。三色きれいに塗り分けられた絵画のような景色だ。それももう見ることはなくなると思えば名残惜しい。
 顔を切るような早朝の風に向かって二人はバイクを走らせた。右手にオホーツクを見ながら国道三百三十四号線を西に向かう。目指すはオンネトー。走行距離は約二百キロ。ゆっくり走っても夕方までには着くだろう。
 だが考えが甘かった。内地の、おそらく自分たちが住んでいる街ならば厳寒期並みの寒さだった。出発してまだ一時間も経たないのに、指先もつま先もすでに感覚がない。内地の秋の出で立ちしか持ち合わせていない二人は、斜里町の国道沿いにあるホームセンターにたまらず飛び込んだ。ここは朝の早い漁師町なのだろう。まだ八時前だと言うのにすでに店は開いていた。助かった。そこで彼らは厚手の作業用の防寒着と防寒手袋を買い求めた。この際デザインは二の次だ。 
 一週間前に知床までやって来た時はこうは寒くはなかったのに、たった一週間でここまで冷え込むとは予想だにしていなかった。
 店の入り口には赤々と火の燈る大きな石油ストーブが置かれていて数人の作業着を着た男たちが暖を取っていた。二人も思わずその赤く燃えるストーブの火に冷え切った手をかざした。
「こんなに寒くなるなんて思わなかったわ。まだ十月三十一日よ」
「神戸の二月より寒いかも。あ、ちょっと待って。忘れ物!」
 買い物を終えて、店を出ようとした時、彼が急に店内に引き返して追加で何かを購入した。
「何買ったの?」
「これ」
 彼は袋から一枚のバンダナを取り出した。きれいに藍染された厚手の綿生地にアイヌ文様と言われる独特のデザインが施されていた。
「あ、それわたしもいいなって思ってた」
「うん。雑貨店なのにこんな民芸品も置いてるなんて、さすがは北海道」
 彼はそう言いながら、それをくるくると帯状に巻いて恵子の首に巻いた。
「首にこれ一枚巻くだけで随分違うから」
「いいの? ありがとう。かわいい、スカーフみたいね」
 恵子は嬉しそうに言った。
 そして二人は買ったばかりの作業用防寒着に身を包んで再び出発した。それでもオホーツクの吹き荒ぶ寒風は情け容赦なく二人に襲い掛かる。尋常ではない。
「恵子ちゃん、寒くない?」
 彼は信号で止まるたびに後ろを振り返り何度も聞いた。本当に何度も。
 恵子は大丈夫と言う代わりに、彼の上着のポケットに入れた両手で痩身の腰をぎゅっと抱きしめた。彼はその度に左手をハンドルから離し、上着の上からそっと彼女の手に手を重ねた。それで十分だった。体感気温は限界を超えそうなぐらい下がっていたが、二人の心は暖炉のように暖かかった。この子を離したくない。この人と離れたくない。いつしか二人の心には強い愛が芽生えていた。
                                   続く
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